第120話 宿怨(三)

 甲高い音が夕闇の空に響き渡った。

 非常事態の出来しゅったいを告げるかねが打ち鳴らされているのだ。

 それも、一箇所だけではない。鉦は虎嵎宮こぐうきゅうの東西南北で同時に打たれ、王宮の四囲は時ならぬ騒音に包まれていった。

 いま、南門にほど近い宿屋の二階で鉦の音にじっと耳を傾けるのは、三人の男たちだ。

 男たちとは言うが、二人は二十歳前後の青年。ひとりに至ってはまだ十五、六歳の少年である。


梁凱りょうがいどの、本当にこれで大丈夫なのでしょうか?」


 鷹徳ようとくは開き戸から外を眺めつつ、ぽつりと問うた。

 宿の前の通りには騒ぎを聞きつけた人々が詰めかけ、立錐の余地もないほどにごった返している。


鳳苑国ほうえんこくの方々は指示通り動いています。いまごろは王宮内でも禁軍が動き始めているでしょう。なにしろあの鉦は――」


 言いさして、梁凱はちらと傍らの青年に目をやる。

 高迅こうじんは梁凱とは目を合わせず、苦虫を噛み潰したような表情で天井を睨むばかりだった。


「あれは禁軍で使われているものだ。ただのいたずらでないことは、王宮警護の兵士であればすぐに分かる。いまごろ王宮内では大騒ぎになっているだろう」


 それだけ言って、高迅は深いため息をついた。


「とんでもないことになった。非常用の陣鉦じんがねを武器庫から勝手に持ち出し、お前たちに貸したことがもし国王陛下の耳に入ったら、わが高家は一族郎党死んでお詫びするしかない……」


 高迅が禁軍の所蔵する陣鉦をひそかに盗み出したのは、昨日の夜半のこと。

 昌蓉しょうようの脱走の責任を取って王宮警備の職を辞したとはいえ、いまだ禁軍には広く顔のきく高迅である。

 火急の用件と偽って武器庫に入り、陣鉦を四つばかり持ち出すのはたやすいことだった。

 その後、梁凱は旧鳳苑国の軍人たちを四隊に分けたうえでそれぞれにひとつずつ陣鉦を持たせ、虎嵎宮の東西南北に配置したのである。

 いよいよ作戦決行の時刻を迎え、彼らはかねてからの手筈どおり市中で騒擾を引き起こしたのだった。

 鷹徳は高迅に近づくと、そっと肩に手を置く。


「高迅。すべての責任は僕が取る。おまえはなにも心配しなくていい」

「昌輝さま……」

「僕たちの計画に巻き込んでしまったことは本当にすまないと思っている。このうえ罪を背負わせるつもりはない」


 きっぱりと言い切った鷹徳に、高迅は首を横に振った。


「いえ――昌輝さま、あなたには蓉姫さまと添い遂げていただかねばなりません」

「しかし、それでは……」

「要は最後まで我々の仕業だということが露見しなければよいのです。……そうだろう?」


 高迅は梁凱にするどい視線を向ける。

 梁凱はふっと息を吐くと、仮面のような無表情を保ったまま高迅と向かい合う。


「そうだろうもなにも、私は最初からそのつもりですが」

「抜かせ! 妖術使いの闇医者め!」

「たしかに医者ではありますが、闇でも妖術使いでもありませんよ」


 梁凱はこともなげに言って、開き戸に手をかける。


「さて――そろそろ参りましょう。私の見立てが正しければ、もう禁軍が動き出している頃合いです」


***


 冷たく湿った空気が石造りの小部屋を充たしていた。

 絢爛たる王宮の片隅にありながら、そこは優雅さや快適といった言葉とはまるで無縁の空間だった。

 室内に窓はなく、唯一の出入り口は厳重に施錠されているため、外の様子を窺い知る術はない。

 干し草を敷いただけの粗末な寝床に所在なく横たわっていると、はたしていまが昼なのか夜なのかさえ判然としなくなってくる。

 時間の経過を知らせてくれるものといえば、朝と夕に二度差し入れられる味気ない食事だけだった。


 魏浄ぎじょうに捕らわれた怜と司馬準しばじゅんがこの牢獄に入れられてから、すでに二日が経っている。

 怜は何度か脱出を試みたが、案の定と言うべきか、いずれも失敗に終わった。

 一方の司馬準はといえば、悪戦苦闘する怜を横目に見つつ、相変わらず木鶏もっけいみたいにじっと端座しているだけだった。

 悪あがきをしてみたところで体力を無駄に消耗するだけだということは、むろん怜とて百も承知だ。

 それでも、牢獄のなかで漫然と時を過ごしていることは、どうしても耐えがたかった。

 ここにいたのでは、夏凛かりんがどうなったかも分からないのである。

 すぐに処刑されるとも思えないが、成夏国を憎んでやまない華昌国王が夏凛をいつまでも生かしておく理由もまたないのだ。

 一刻も早く牢獄を抜け出し、夏凛を見つけ出さなければ――。

 焦るほどに思考は空転し、やり場のない苛立ちだけがいたずらに募っていく。


「……司馬準、おまえ、よく落ち着いていられるな」


 怜は干し草の寝床に身体を投げ出しながら、司馬準をちらと流し見る。


「この窮地を切り抜けるための方策を考えているところです」

「なにかいい手立ては浮かんだのか?」

「いえ、特には――」


 怜は「そんなことだろうと思ったぜ」と言わんばかりに眉根を寄せると、わざとらしく渋顔をつくってみせる。

 良案が浮かばないのは怜にしても同じことだった。武器はおろか自前の衣服さえ牢獄に入る前にすべて取り上げられ、いまや二人の持ち物といえば洗いざらしの囚人服だけなのだ。

 天下に勇名を馳せた名将二人といえども、これでは文字通り八方塞がりというものだった。

 

「望みがあるとすれば鷹徳の奴だが、あのお坊っちゃんは頼りにならねえからな……」


 どこからか陣鉦の音が聞こえてきたのはそのときだった。

 石壁に阻まれてだいぶ音量は微弱になってはいるが、戦場で用いられる鉦のけたたましい音を聞き間違えるはずもない。

 怜と司馬準が牢獄の外で人が動く気配を察知したのはほとんど同時だった。

 どうやら見張りの兵士たちがあわただしく動き回っているらしい。

 激しく陣鉦が打ち鳴らされていることから推測するに、王宮で重大な変事が起こったと考えるのが自然だ。


「いったいなにが起こってやがるんだ?」

「分かりません。が、只事ではないことだけは確かかと……」

  

 そうこうするうちに陣鉦の音は熄んでいた。

 訝しげに顔を見合わせた怜と司馬準は、ふいに叫び声が上がるのを聞いた。

 金属同士を激しく打ち合わせる耳障りな音に混じって、何かがどうと倒れる鈍い音も聞こえてくる。

 見張りの兵士が何者かと戦っているのだ。

 どうやらかなりの手練らしい。聞こえてくる音から察するに、兵士たちは手も足も出ないまま制圧されているようだった。

 やがて押し殺したようなうめき声を最後に、奇妙な静けさがあたりを支配していった。

 

「誰だ? そこにいるのは? 俺たちを助けに来てくれたのか!?」


 怜は意を決して呼びかけてみるが、返答はなかった。

 ややあって、小気味よい音が生じたかと思うと、牢獄の扉は勢いよく開け放たれていた。

 間髪をいれずに牢獄内に踏み込んできたのは、顔全体を布地で覆った小柄な人影だ。


「怜!! 司馬準どの!! 無事だったか!?」


 鷹徳は二人の姿を認めると、感極まったように叫んでいた。

 

「鷹徳!! おまえ、なんでここに――――」

「あなたたちを助けに来たに決まっているだろう。もたもたしていると警備の兵が来る。早く外へ!」

「言われるまでもねえ。それにしても、どうしてこの場所が分かったんだ?」

「それは……」

 

 鷹徳の背後から音もなく進み出たのは、木彫りの仮面で顔を隠した男だった。

 男は仮面に手をかけると、ためらいがちに素顔を晒す。


「私が昌輝さまにおまえたちがここに囚われていることを教えたのだ」

「てめえ、たしか封寧ほうねいにいた――――ええと、誰だったか……?」

「高迅だ! 華昌国の軍人としてこのような真似をするのは気が進まないが、これも蓉姫さまのためと思えば仕方がない」


 高迅はふたたび仮面をつけると、すばやく背後を振り返る。

 こちらにむかって複数の足音が近づいてくる。

 見張りの兵士たちは救援を呼ぶ前に気絶させたが、どうやら剣を交える音を聞きつけて集まってらしい。


「じきに追手が来ます。昌輝さま、ここは私にお任せを」

「しかし、高迅……」

「その二人がいれば成夏国の姫を逃がすには事足りるでしょう。私が時間を稼ぎます。そのあいだに、あなたはご自分のすべきことをなさいませ」

「すまない。……あとは頼んだぞ」


 牢獄を出しな、怜は高迅の脇腹を軽く小突く。


「よっ――かっこつけるのはいいが、死ぬなよ、高なんたらの旦那」

「高迅だ! 何度言えば分かる!? 貴様に言われなくても、私はこんなところで死ぬつもりはない。蓉姫さまの幸せな姿を見届けるまでは死ねるか」

「とかなんとか言って、本当はおまえがあの姫さんに惚れてんじゃねえのか?」


 あくまで剽気た調子で言った怜に対して、高迅はそれきり二の句が継げなかった。

 仮面からはみ出た両耳はまるで湯に浸かったみたいに紅潮している。

 さらに何かを言おうとした怜に、高迅はままよとばかりに長剣を突きつける。


「この不埒者ども、さっさと私の前から消えろっ!! さもないと、おまえたちから斬り捨てるぞ!!」


***


 牢獄を脱出した怜と司馬準、そして鷹徳は、そのまま王宮の一角へと足を向けた。

 あらかじめ待機していた梁凱と合流したあと、全員で乙亥きのといの離宮へと向かう手筈になっているのだ。

 王宮内をあわただしく駆けていく兵士たちをやりすごしながら、三人は注意深く進んでいく。

 東西南北でほとんど同時に鳴り渡った陣鉦によって禁軍はにわかに混乱状態に陥り、本来なら水も漏らさぬほどに緊密な警戒網にはところどころ綻びが生じている。

 王宮の構造を知悉した鷹徳が一行を先導しているとなれば、突破はさほど難しいことではない。


 すべては夏凛を救出するために梁凱が練り上げた方策であった。

 鳳苑国の残党を戦力として用いるのではなく、彼らにはあくまで王宮外での陽動を担ってもらい、夏凛の救出は少数精鋭で実行する。

 どのみち禁軍を相手に真っ向から戦えば勝ち目はないのだ。多少の危険は承知の上で、交戦を避けやすい利点を取ったのだった。

 いまのところ計画は滞りなく進行し、いよいよ最終段階に入ろうとしている。

 やがて合流地点である四阿あずまやに辿り着いた三人を出迎えたのは、他ならぬ梁凱その人だった。


「おお――センセイ、生きてたか!!」

 

 飛びつこうとした怜を軽くいなしつつ、梁凱は三人の顔をそれぞれ見回す。


「再会を喜ぶのは王女を助け出してからです。すぐに準備に取り掛かってください」


 言って、梁凱は四阿の床に置かれた編み籠を指差す。

 蓋を開けた怜の目に飛び込んできたのは、ひと振りの長剣と戟だ。

 どちらも怜と司馬準のために用意されたものであることは言うまでもない。

 戟は司馬準が愛用している長戟に較べるといささか間合いは短いものの、屋内戦においては却って取り回しがいいだろう。

 

「司馬将軍には長戟をご用意したかったのですが、これでご辛抱いただきます」

「そのようなことは――わざわざの心遣い、かたじけないかぎりです」

「さすがの俺たちも丸腰じゃなにも出来ねえからなあ。センセイの用意がよくて助かったぜ」


 怜は何度か素振りをしたあと、慣れた手つきで剣を鞘に戻す。

 夏凛から借りていた長剣は捕らわれた際に取り上げられ、いまはどこにあるかも分からない。

 出来ることなら取り戻したいが、それが叶わない場合は、このまま捨て置くしかない。

 現状で何よりも優先すべきは夏凛の身の安全であり、無事に王宮から脱出することなのだ。


「さあて――――準備が整ったところで、そろそろ行くとするか?」


 怜の呼びかけに、鷹徳と梁凱、司馬準は無言で肯んずる。

 誰が合図をしたでもなく、次の瞬間には、四人は乙亥の離宮めがけて猛然と駆け出していた。

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