第117話 因果(四)

 饐えたようなにおいが鼻を衝いた。

 暗く湿り気のある空気がいっそう不快感に拍車をかける。

 もう昼過ぎだというのに、あたりにはまだ夜の名残りがわだかまっているようであった。

 華都かとの南西に広がる色街のなかでも、ひときわ陰惨な雰囲気に包まれた一角である。

 狭隘な通りにはいまにも崩れそうな陋屋ぼろやが立ち並び、ぬかるんだ路上には生きているのか死んでいるのかも定かならぬ浮浪者たちが横たわっている。

 わずかに開いた木戸のあいだから覗くのは、興味と敵意が綯い交ぜになった刺々しい視線だ。

 通りがかった人間を隈なく吟味し、客かどうかを見極めているのである。


 道沿いの家々はいずれも娼家であった。

 それも公的な許可を得て営業している娼楼ではなく、表向きは民家を装った私娼によって占められているところに特徴がある。

 年齢を重ねて容色が衰え、あるいは病気に罹患したことで娼楼から追い出された女たちが、他に行くあてもなく互いに寄り集まっていくうちに、いつしかこのような区画が形作られていったのである。

 この通りが色街の最底辺と呼ばれ、同業の女たちから忌避されているのも無理からぬことであった。


 いま、不気味なほどに静まりかえった通りを進んでいくのは、白髪の青年と小柄な少年の二人連れだった。

 少年は戸惑いがちに周囲を見渡すと、声を潜めて青年に問いかける。


「りょ……梁凱どの、ここはその……えっと……」

「ああ、鷹徳どのはこのあたりに足を運んだことはありませんでしたか」

「当たり前です!! そう言う梁凱どのはあるのですか!?」


 憤然と反問した鷹徳に、梁凱は仮面を貼り付けたように怜悧な無表情を保ったまま、


「私は何度もありますよ」


 こともなげにそう言いのけたのだった。

 それきり二の句が継げなくなった鷹徳をよそに、梁凱はさっさと先へ進んでいく。

 男二人が連れ立ってこんな場所を歩いているとなれば、ふつうはしつこい客引きに遭ってもおかしくはない。

 先ほどからまるで声をかけられないのは、女たちが梁凱の仕事をよくよく承知しているからだ。

 きっと、どこかの家に請われてわざわざ往診に来ているのだろう。

 この通りに住んでいるような女でも嫌な顔をせずに診てくれるのは、華都でもあの白髪の先生だけだから。

 後ろをついて回っている見慣れないは、きっとお医者の見習いにちがいない――といった具合である。


 しばらく歩いたあと、梁凱はふいに足を止めた。

 沿道の陋屋のなかでもひときわみすぼらしい――というよりは、ほとんど朽ちかかった家屋の軒先である。

 出入り口らしき場所には、乱暴な文字で「酒」とだけ書かれた木板が吊るされている。

 とても金銭を取って客に飲食を提供するような場所には見えないが、これでもいちおう酒楼さかばであるらしい。

 困惑したように周囲を見渡している鷹徳を一瞥して、梁凱はやはりそっけない声で告げる。

 

「着きました。ここが先ほどお話しした場所です」


 言い終わるが早いか、梁凱は入り口に手をかけていた。

 いかにも立て付けが悪そうな見かけに反して、戸は音もなく開いた。

 同時に店の外へ流れ出たのは、軽く吸い込んだだけで胸が悪くなりそうな安酒のにおいと、垢と汗とが入り混じったひどい臭気だった。

 鷹徳はとっさに口と鼻を手で覆いながら、無意識に渋面を作っていた。

 これなら外にいたほうがまだかもしれない。


「ごめんください――」


 梁凱は暗い店内に足を踏み入れながら、誰にともなく呼びかける。

 店の奥でだしぬけに物音が生じたのはそのときだった。

 おもわず身構えた鷹徳の目交にぬっと現れたのは、天井に頭が届きそうなほどの大男だ。

 丸太のような腕といい、ごつい顔面を縦横に走る刀傷といい、とても堅気かたぎの人間には見えない。

 大男は梁凱と鷹徳とじろりと見下ろしながら、見た目に違わぬ野太い声で吐き捨てる。

 

「あいにくだが、いまは支度中でな。けえってくんな」

「私たちは客ではありません。この店の主人あるじに伝えていただきたいことがあって来たのです」

「なに?」

「”笹の花が咲いた”――と、そう言えば分かるはずです」


 梁凱がその言葉を口にしたとたん、大男のふてぶてしい面上に兆したのは、隠しようもない驚きと動揺の相だ。

 上ずった声で「ちょっと待ってろ」と言いおいて、大男は逃げるように店の奥へと引っ込んでいった。

 ややあって、梁凱と鷹徳の前に現れたのは、ひとりの壮漢だった。

 上背はさほどでもないが、見るからに剽悍な顔つきと引き締まった肉体は、男が只者ではないことを雄弁に物語っている。

 それとなく観察するうちに、鷹徳は男の右袖が不自然に垂れ下がっていることに気づいた。

 どうやら肘のあたりから腕がなくなっているらしい。

 隻腕の男は二人の前に進み出ると、深々とこうべを垂れる。

 

「私の部下がとんだ失礼をいたしました。梁凱様にはどうかご容赦願いたい」

「お気になさらず。お互い警戒するに越したことはありませんから」

「時に、先ほど”笹の花が咲いた”と……」

「たしかにそう言いました」

 

 低い声で問うた男に、梁凱はこくりと首肯する。

 梁凱は潜伏中の成夏国と鳳苑国の遺臣たちと接触していく過程で、彼らのあいだだけで通じる合言葉を作り出していった。

 笹の花はそのひとつであり、祖国再興の時機が到来したことを意味している。

 天下に数多ある植物のなかでも、笹の花は百年に一度しか開かないことで知られている。一度滅び去った祖国がふたたびよみがえることは、それほど実現しがたい願いでもあった。


「しかし、わが姫君は華昌国王のもとで囚われの身となっています。護衛として同行していた司馬準どのも同様です」

「司馬将軍が生きておられたのですか!?」

「かつて鳳苑国で彼とともに戦ったあなたがたには、ぜひともこのことをお知らせしなければと思ったのです」


 隻腕の男は返答の代わりとでも言うように両目を閉じると、そのまま天を仰ぐ。

 閉じた瞼のあいだからは澎湃と涙があふれ、襟元まで濡らしていった。


「わが祖国がボウ帝国の侵略を受けた折、私は司馬将軍に生命を救われました。私だけではない。あの方と陸芳りくほう将軍が命がけで殿軍しんがりを務めてくれなければ、我ら鳳苑国の将兵はこうして華昌国へと落ち延びることは出来なかったはずです」


 切々と語りながら、隻腕の男は力強く右袖を握りしめていた。

 おそらく退却戦の最中に失ったのだろう。

 とうに失くした右腕の痛みをこらえるように、男は堅く唇を噛みしめている。


「我々は陸将軍をお助けすることが出来なかった。このうえ司馬将軍までもみすみす死なせるようなことがあっては、今日まで生き延びた甲斐がござらん」

「では、私たちに協力していただけるのですね」

「むろん――」


 梁凱の言葉に、男は力強く肯んずる。


「もはや満足に槍も取れない身ですが、そんな私でもお役に立てるなら、なんなりとお申し付けください」

「あなたには兵を集めてほしいのです。それも、出来るだけ多いほうがいい」

「華都に住んでいる部下たちに声をかけてみましょう。司馬将軍のためとあれば、皆すぐに駆けつけてくれるはずだ」


 梁凱はあくまで手短に用件を述べていく。

 決行は明日の夜更け。

 当日の夕刻に虎嵎こぐう宮からすこし離れた宿屋に集合し、その場で詳しい作戦内容を説明する……。

 やがて話し合いが終わり、酒楼を辞去する二人を、男は片腕だけの拱手の礼で見送った。


「無事に司馬将軍をお助けすることが出来たなら、ぜひともお伝え願いたい。我々はあなたに救われた御恩を一日たりとも忘れたことはない――と……」


***


 するどい風切り音が冬空に吸い込まれていった。

 木剣を振るたびに大気が裂け、悲鳴のような音を生じさせる。

 高迅こうじんが自邸の裏庭で素振りを始めてから、すでに三刻(六時間)ほどが経過している。

 まんまと昌蓉しょうようの脱走を許してしまった自分自身の不甲斐なさを罰するために、あえて我が身を追い込むようなきつい鍛錬に励んでいるのだった。

 最初は心配そうに見つめていた家族や使用人も、一刻も経つころには自分たちのほうが寒さに耐えかねて屋敷のなかへと引っ込んでいった。


(まだだ……こんなものでは、まだ蓉姫さまには……)


 不祥事の責任を取る格好で王宮の警備隊長を辞職したいま、高迅はもはや一介の軍人にすぎない。

 ふたたび元の地位に返り咲くにせよ、あるいは父とおなじように禁軍の指揮官を目指すにせよ、女子おなごひとり御することも出来ない武官に価値はない。

 もっと強くあらねばという焦燥感が青年を追い立て、身体の疲れさえ忘れさせているのだった。


 ふいに動きを止めた高迅は、手の甲で額の汗をぬぐった。

 どうやら小休止という訳ではないらしい。

 高迅の手元で木剣がはねあがったかと思うと、傍らの庭木に切っ先が突きつけられた。


「……何奴だ? そこにいるのは分かっているぞ。隠れていないで出てこい!!」


 わずかな沈黙が流れた。

 やがて高迅の呼びかけに答えるように木陰からゆらりと姿を現したのは、白髪の青年だった。


王宮警備隊長の高迅どのとお見受けしました」

「なに――――」

「あなたには王宮の警備体制についていくつかお尋ねしたいことがあって参りました。お話を伺ってもよろしいですか」


 気色ばむ高迅とは対照的に、梁凱の佇まいはあくまで泰然たるものだ。

 高迅の返答も待たずに、梁凱は悠揚迫らぬ足取りで近づいていく。

 

「何者か知らないが、この私が『はい』と言うと思ったのか?」

「聞き入れていただけませんか」

「甘く見るな!! わが高家は歴代の華昌国王に仕えてきた武門の家。その跡取りである私が、どこの馬の骨ともしれない人間にそのようなことを口外すると思ったら大間違いだ!!」


 叫ぶが早いか、高迅はだんと地を蹴っていた。

 木剣を正眼に構えたまま、鍛え上げられた四肢が激しく躍動する。

 幼いころから剣術を叩き込まれてきただけあって、その剣筋は年齢としに似合わぬ老成の気配さえ帯びている。

 木剣には刃こそついていないものの、鈍器としては十分な殺傷力をもつ。

 寸毫の迷いもなく振り下ろされた一閃は、あやまたず梁凱の頭蓋を砕き、一面に脳漿を飛び散らせる。

 そのはずであった。


「なっ……!?」


 高迅はあやうく前のめりに倒れ込みそうになって、あわてて両足を踏ん張った。

 かろうじて転倒こそ免れたものの、その姿勢はぶざまなほどに崩れている。

 それも当然だ。

 必殺を確信したその瞬間、梁凱の身体はまるで霞みたいに消失した。

 標的を失った高迅の木剣は、勢いもそのままにむなしく空を切ったのだった。

 高迅はすばやく四囲に視線を走らせるが、梁凱の姿はどこにも見当たらなかった。


「剣を収めていただけませんか。私はあなたと戦いに来た訳ではありません」


 思いがけず頭上から降った声に、高迅は反射的に飛びずさっていた。

 高迅が顔を上げると、庭木の枝に片手でぶら下がっている白髪の青年と目があった。

 梁凱は危なげなく着地すると、高迅にむかって歩を進める。


「き、貴様!! さては妖術使いか――」

「いいえ。ただの医者です」


 高迅は呼吸を整えつつ、じりじりと間合いを取る。

 正眼から右八相へと構えを変えたのは、今度こそ必殺を期すためだ。

 相手にむかって刃を立てれば、それだけ剣筋は読みにくくなる。

 踏み込みとともにするどい打突を放ち、一撃で梁凱の頸骨を砕くつもりなのだ。


「覚悟――――っ!!」


 裂帛の気合とともに、高迅は梁凱の懐めがけて飛び込んでいった。

 手足は思い通りに動き、あらん限りの力を込めた木剣は稲妻のごとく伸びる。

 伸びて……そのままぴたりと静止した。

 梁凱は木剣を指先で軽く弾くと、身動きの取れなくなった高迅の背後に回り込む。


「き……貴様……なにを……」

「針で経絡つぼを刺戟して一時的に動きを止めただけです。心配は御無用」

「おのれ……よ、よくもしゃあしゃあと……」


 身体の自由を奪われた高迅は、梁凱のほうを振り向くことも出来ず、その場で顔をひきつらせるのが精一杯だった。


「私も武人だ。捕まって生き恥をさらすくらいなら、舌を噛んで死ぬ――――」


 言い終わる前に、木陰から飛び出した人影がある。

 鷹徳はそのまま高迅のもとに駆け寄ると、強く頬を引っ張る。


「早まるな、高迅!! その人は僕の仲間だ!!」

昌輝しょうき様――」

「無理は承知でたのむ。どうか僕たちに力を貸してくれないか。凛どのを助け出したいのだ」

 

 高迅はあっけに取られたような面持ちで鷹徳を見つめる。


「昌輝様、ご自分の立場をお忘れですか!? あなたはいずれ蓉姫さまと……」

「もちろん分かっている。だが、このまま凛どのを見殺しにすることは出来ない」

「そのようなことをして、もし国王陛下に知れれば生命はありませんよ!!」

「すべての責任は僕が取るつもりだ」


 語気強く言い切った鷹徳に、高迅もそれきり口をつぐむ。

 やがて高迅は鷹徳をまっすぐに見据えると、思いつめたような表情で語りはじめた。

 

「昌輝様、ひとつだけ条件があります」

「なんだ?」

「今度こそ蓉姫さまと婚礼を挙げてください。いつまでもあなたを待ち焦がれる姫のお姿は見るに忍びないのです」

「……言われなくてもそのつもりだ。僕はもう逃げはしない」


 言って、鷹徳は踵を返す。

 計画は動き出した。もはや後戻りは出来ない。

 血色の夕日が共犯者たちの背中を染め上げていった。

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