第116話 因果(三)
広い廟堂をひりつくような緊張が支配した。
居並ぶ侍臣たちは、誰もが固唾を呑んで主君の次の動作に注目している。
「夏賛の娘よ――いま一度そのほうに訊く。余の国でなにを企んでいる?」
国王の心を写し取ったがごとく、研ぎ上げられた剣刃はいっそう冷たさを増したようであった。
返答の如何によっては、そのまま夏凛の首を断つつもりなのだ。
たとえ相手がその身に寸鉄も帯びていない無力な小娘であったとしても、憎んでやまない
昌盛にとって意外だったのは、この期に及んで夏凛が落ち着き払っているようにみえることだった。
恥も外聞も振り捨てて命乞いをしてもおかしくない状況であるにもかかわらず、夏凛は怯える素振りもない。
少女の気丈な振る舞いは、しかし、この場のほとんどの人間には一国の王をも畏れぬ傲岸不遜な態度として映った。
重苦しい沈黙があたりを包んでいった。
群臣たちの視線は玉座の前で対峙する二人の一挙手一投足に注がれている。
やがて夏凛は深く息を吸い込むと、昌盛をまっすぐに見据えて言った。
「私は
「ほう?」
「華昌国に赴いた理由はそれがすべてです。企みなどめっそうもありません――」
昌盛は夏凛の細首に剣を当てたまま、ふんとちいさく鼻を鳴らす。
まともに取り合うつもりはないと言外に告げているのだ。
「そのほうは余がそのような戯言を信じると思っているのか」
「お言葉ですが、国王陛下。私は誓って真実を申し上げております」
「余は事の真偽を問うているのではない」
昌盛の双眸がするどい光を放った。
たんなる猜疑心などではない。
王の眼に宿ったのは、まごうかたなき憎悪と殺意の光芒であった。
「かりに先の話が真実だとして、なにゆえ沙蘭国王はそのほうを使節に立てたのか?」
「それは――――」
「わが華昌国がかつて成夏国によって蹂躙され、計り知れぬ犠牲を強いられたことは沙蘭国王とて承知のはず。その我らのもとによりによってあの夏賛の娘を送り込むとは、まさに古傷に塩を塗り込むがごとき所業と言わざるを得ぬ。蘭逸めの思惑が那辺にあるにせよ、まずもって正気の沙汰ではない……」
「いいえ、国王陛下。華昌国への使節は、私がみずから願い出たことです」
夏凛の言葉に、魏浄を始めとする家臣たちは思わずわが耳を疑った。
すでに成夏国は滅んだとはいえ、両国のあいだに蓄積された怨恨はそう簡単に払拭出来るものではない。
ことに成夏国の王族にとって、華昌国はいまなお敵地であることに変わりはないのだ。
そのような場所にみずから進んで赴くとは、およそ信じがたいことであった。
押しつぶされそうな重圧のなか、夏凛は一語一語、絞り出すように言葉を継いでいく。
「国王陛下は、私が華昌国に来たと知ればけっして捨て置くことはしなかった。どのような
「……なにが言いたい?」
「すくなくとも一度はこうして陛下に直接お目通りすることが出来たということです」
物怖じすることなく言い放った夏凛に、昌盛はおもわず息を呑んでいた。
昌盛だけではない。家臣たちの顔を一様に占めたのも、隠しようのない驚愕の色であった。
この娘は、最初からそのつもりで華昌国に乗り込んできたのではなかったか。
夏賛の娘をまんまと捕らえたとばかり思っていたが、実際には本来容易に触れることの出来ない国家の中枢――玉座への最短経路を開いてやったに等しい。
魏浄が眉根を寄せたのは、敵の手助けをしてやったことに今さらながら気づいたためでもあった。
「なるほど……たとえこれから首を刎ねられるとしても、この場に引き出された時点でそのほうの狙いどおりということか」
「はい」
「なにが目的だ? まさか、まんまと術中に嵌った我らを嘲弄するために生命を賭けた訳ではなかろう――」
「国王陛下には、どうか沙蘭国と同盟を結んでいただきたいのです。それが私が沙蘭国王から仰せつかった使命でもあります」
夏凛がその言葉を口にするや、廟堂はにわかにどよもした。
宮廷の慣例として、臣下が国王の許しなく口を開くことは禁じられている。
たとえ
それもつかの間のこと。
昌盛がするどい視線を巡らせると、ふたたび室内は水を打ったような静けさに包まれていった。
「わが国が
「もちろん、すべて承知の上です」
「沙蘭国王は先祖代々の国是を曲げてまで我らに昴帝国との同盟を棄却し、あらたに沙蘭国と手を結ぶようにと申したのか?」
「そのように受け取っていただいてかまいません。お言葉ですが、昴帝国との同盟は長くは持ちません。いずれ朱鉄は裏切ります。そうなれば、華昌国もこれまで滅ぼされていった鳳苑国や延黎国、そして成夏国とおなじ運命を辿るはずです」
「余を前にぬけぬけとよくも嘯きおったものよ――――」
滔々と語った夏凛に対して、昌盛はこみ上げる怒気を隠そうともしない。
夏凛の身体がわずかに動いた。
昌盛の面上を驚きの相が渡っていったのは、首筋に当てられた刃から逃れるのではなく、むしろ自分から近づいていったためだ。
白い肌に血色の珠がぷつぷつと浮かぶ。さしたる抵抗もなくおのれの首筋に食い込んでいく刃の感触にも、夏凛の不退転の決意は小揺るぎもしないようだった。
「どうしても私を生かしておけないというのであれば、遠慮なくお斬りください。私が死ねば成夏国の血は絶えます。それで華昌国と沙蘭国が結束し、昴帝国の……いいえ、朱鉄の野心を止められるのなら、喜んでこの首を差し出します」
昌盛の眼にふたたび暗い炎が灯ったそのとき、群臣のなかからやおら進み出た者がある。
枯木を思わせる長身痩躯の老人だ。
廟堂において主君の許しなく立ち上がることは非礼とされているが、しかし、老人の行く手を阻む者はだれもいない。
宰相の
盧宝淑は玉座の前で跪くと、床に額をこすりつけるように深く頭を垂れる。
「畏れ多くも国王陛下に申し上げます――」
「なにか、宝淑?」
「この娘の言葉、私には偽りとは思えませぬ。先ごろ沙蘭国にて昴帝国が内乱を扇動した一件、すでにわがほうの
盧宝淑はあくまで苦々しげに言上する。
言うまでもなく、夏凛への同情心からこのような発言をしていると思われないための方策だ。
華昌国の宮廷において、成夏国の味方をするほど勇気を必要とする行為はない。
ひとたび国王の勘気を被ったなら、たとえ長年にわたって国家の重職を歴任してきた老臣でも無事では済まないのである。
盧宝淑にとってはまさしく命がけの進言であった。
「ならば宝淑、そのほうは沙蘭国との同盟を受け入れろと申すのか?」
「すべては陛下のご叡慮のままに。されど、もはや王女ですらない小娘を斬ったところで詮なきこと。どうか国家の利益を鑑み、なにとぞ冷静なご判断を……」
「余が夏賛への憎悪に駆られて正気を失っているとでも言いたげだな」
あくまで冷たい昌盛の言葉に、ただでさえ枯れきった盧宝淑の面貌からさっと血の気が引いていった。
昌盛の腰のあたりで軽い金属音が生じたのはそのときだった。
先ほどから夏凛の首筋に当てていた佩剣を、ふたたび腰の鞘に戻したのだ。
あっけにとられたように見つめる夏凛に、昌盛はやはり険しい視線を向ける。
その眼は激しい怒りの色こそ留めているものの、先ほどまで充溢していた刺々しいほどの敵意と殺意はすっかり霧消している。
「国王陛下――」
「夏凛。そのほうの首は取らずにおく」
「あ……ありがとうございます……」
「勘違いをするな。いまは殺さずにおいてやるというだけのことだ。沙蘭国への返答もひとまずは保留とする」
言い終わるが早いか、昌盛は傍らの近衛兵に目配せをする。
兵士たちは玉座の脇から飛び出したかと思うと、すばやく夏凛を取り囲んでいた。
少年時代から国王の侍童として仕えてきた彼らは、命令に先んじて動く術を心得ている。
やがて玉座の上から夏凛を見下ろした昌盛は、冷厳な声で宣告したのだった。
「この娘をただちに
***
華昌国の王宮は、またの名を
広大な敷地の中心には春夏秋冬の名を冠する四つの壮麗な大宮殿がそびえ、その外周には十二の離宮が点在している。
離宮と一口に言っても、ほとんど四宮殿と大差がない広壮なものから、庭園に埋もれるようにひっそりと佇むささやかなものまで、その規模はさまざまである。
もともと宮殿に住むことが許されない傍系王族や外戚の住居として建設されたものだが、いつしか本来の使途は忘却され、現在ではもっぱら他国からの賓客の宿舎として用いられるようになっている。
昌盛の命によって夏凛が移送された
国王が数ある離宮のなかであえてここを指定したのは、自分の目の届く場所に置いておきたいという思惑によるものだ。
ほんのすこし前まで侘しい風情が漂っていた離宮には、いまや百人からの兵士が詰めかけ、さながら最前線の陣営のような活況を呈している。
宮殿の周囲には昼夜の別なく武装した小隊が巡回し、不審者を発見した場合はただちにこれを殲滅する手はずが整っている。
監視の目は宮殿の内外は言うに及ばず、廊下や屋根、果ては軒下にまで及んでいる。
もし夏凛の奪還を試みる者がいたとしても、これほど厳重な警備網を突破することはまず不可能であるはずだった。
宮殿に辿り着くまえに警備兵に発見され、迷い込んだ野良犬を仕留めるみたいに殺されるのが関の山だろう。
「まずいことになった……」
隅々まで手入れの行き届いた庭を歩きながら、鷹徳はひとりごちるみたいに呟いた。
冬の宮殿に併設された瀟洒な庭園は、国王一家とひと握りの高官だけしか足を踏み入れることの出来ない特別な空間である。
系譜の上ではあくまで傍流の出身だが、いずれ国王の娘婿となる立場の鷹徳は、この場所にも自由に出入りすることが許されているのだった。
王宮内において、やんごとなき身分の人間がひとりで出歩くことはない。
貴人の傍らにはいつ
いま鷹徳に付き従っているのは、銀糸のような白髪の青年であった。
「
「あると言いたいのはやまやまですが、残念ながら打つ手なしです」
「そうですか……」
あくまでそっけない梁凱の返答に、鷹徳はがっくりと肩を落とす。
鷹徳が梁凱を連れて王宮にひそかに戻ったとき、すでに夏凛は乙亥の離宮に移されたあとだった。
二人は離宮を遠巻きに眺めると、どうにも手出しが出来そうにないことを悟って早々に引き上げてきたのだった。
「気を落とさないでください。どんな事情があるかは分かりませんが、いまのところ華昌国王は凛どのを殺すつもりはないようです。となれば、さしあたっての生命の危険はないと判断していいでしょう」
「本当ですか!? 梁凱どの!?」
先ほどの落ち込みようから一転、鷹徳は希望に目を輝かせる。
梁凱はあいまいに「おそらく」と言っただけだ。
実際のところ、夏凛の生殺与奪の権は華昌国王が握っているのである。
考えにくいこととはいえ、こうしているうちにも処刑されていないともかぎらないのだ。夏凛の生存を前提に考えを巡らせていることも、言ってしまえば希望的観測でしかない。
もっとも、自分ひとりであれば考えうるかぎりの状況を想定しておくに如くはないが、それを言葉にすべきかどうかは別の問題でもある。
ここで鷹徳に最悪の可能性を示唆することは、状況をますます悪化させこそすれ、夏凛の救出に資するとは到底思えなかった。
「とにかく、いまは策を練ることです。闇雲に動いたところでどうにもなりません」
「それは僕も分かっています……分かっていますが……」
「あなただけが難を逃れたことにことさらに負い目を感じる必要はないのです。もし鷹徳どのまで身柄を拘束されていれば、こうして私を呼ぶことも出来なかった。そうでしょう?」
梁凱はなだめるように言って、いまにも泣き出しそうな顔の鷹徳の肩に手を置く。
ここで鷹徳が心折れるようなことがあれば、梁凱は独力で事に臨まねばならない。
たとえ何の根拠もない気休めであったとしても、鷹徳には勇気を奮ってもらわなければ困るのだ。
「怜ともうひとりの護衛の男のことも気がかりです。凛どのと違って、彼らはどこに連れて行かれたのかも分かりません……」
「その男の名前は?」
「ええと、たしか……」
鷹徳は考え込むような素振りをみせたあと、ぽんと手を叩いた。
「ああ、思い出しました――――
その瞬間、梁凱の怜悧な面貌をよぎったのは、まぎれもない驚嘆の色だった。
「その男は、長戟を愛用している偉丈夫ではありませんでしたか?」
「そうです! ですが、なぜ梁凱どのがそれを?」
鷹徳の問いには答えず、梁凱はふっと彼方を見やる。
やがて鷹徳のほうを振り返った梁凱は、わずかに口元をほころばせた。
「凛どのをお救いする方策が見えてきたかもしれません――――」
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