第110話 邂逅(一)

 気まずい沈黙が一帯を包んだ。

 昌蓉しょうようは両掌で顔を覆い、恥も外聞も振り捨てて泣き崩れている。

 ややあって、はたと我に返ったように叫んだのは鷹徳ようとくだった。


「誤解です! 僕と凛どのはそんな関係では!」


 昌蓉は顔に当てていた指をわずかに開くと、泣きはらした瞳で鷹徳を睨む。

 涼しげな目元は、涙に濡れたうえにかすかな赤みが差したことで、いっそう艶めかしさを増したようだった。

 やがて華昌国かしょうこくの王女は、低い声でぽつりと呟いたのだった。


「……うそ」

「嘘ではありません!! 僕の話を聞いて――――」

「女は殿方と仲良くすると子供が出来てしまうとが言っていました。だから輿入れするまで他の殿方には近づかないようにしていたのです。……それなのに、あなたという方は!! 鷹徳さまの浮気者!! ひどい!!」

 

 わあわあと火がついたように泣き出した昌蓉に、鷹徳は為す術もないというように立ち尽くすばかりだった。

 夏凛はそんな鷹徳を見かねたように、二人のあいだに身体を割り込ませる。


「あ、あのっ!! 私と鷹徳は本当になんでもないんです」

「そんな話を信じると思うの!! 名前を気安く呼び捨てにするくらい親密な間柄なのでしょう!?」

「それはえっと、ずっと前からのクセというか……」

「白々しいことをおっしゃらないで! 私が知らないと思って、二人で口に出すのも憚られるようなことをしていたのでしょう!! 破廉恥!!」


 昌蓉は袖で涙を拭うと、いかにも儚げな所作で膝を折る。

 深窓の姫君らしい可憐でたおやかなその姿には、つい今しがた大勢の兵士を退けた猛者の面影はない。


「でもいいの。一時いっときの気の迷いもわたくしは許します。たとえ他の女が生んだ子供でも、別け隔てなく育てます。これも私たちの愛を試すために天が与えた試練だというなら、きっと乗り越えてみせるわ――――」


 高らかに歌い上げるように宣言した昌蓉は、そのまま天を仰ぐ。

 先ほどまでとは打って変わって清々しい表情は、自分の言葉に自分で感動しているのだ。

 思い込みの激しい姫君は、早とちりのすえに一人合点し、手前勝手に運命を受け入れる覚悟を決めたらしい。

 夏凛と鷹徳はどうすればいいのか見当もつかないといった様子で、おろおろと互いに顔を見合わせている。

 いまやすっかり自分の世界に浸りきっている昌蓉に、怜はつかつかと近づいていく。


「おい華昌国の姫さんよ! 心配しなくてもそいつらはそんな関係じゃねえ。子供どころか、ろくに手だって繋げやしねえよ」

「どうしてそんなことが言えますの?」

「いまから証拠を見せてやる」


 言って、怜はすばやく夏凛と鷹徳の背後に回る。

 鷹徳が「なにをする」と言うよりも早く、怜は二人の肩を掴むと、力ずくで身体と身体を密着させていた。

 たんに驚いただけの夏凛に対して、鷹徳はみるみるうちに耳の先まで真っ赤になっていく。

 ろくに心の準備も出来ないまま訪れた不意の接触に、いまや少年の理性は跡形もなく消し飛んでいた。


「う、うわああああ~~~っ!!」


 蛙よろしく垂直に飛び上がった鷹徳は、おぼつかない足取りで明後日の方向に駆け出していた。

 混乱と興奮のあまり、ほとんど前も見えていないのである。十歩と進まぬうちに石畳の段差に足を取られ、派手に転倒したのも当然だった。

 そんな鷹徳を指差しながら、怜は昌蓉に笑いかける。

 

「いまの見ただろ? あいつは臥所ふしどを共にするどころか、女に触れただけであのざまだ」

「それじゃ……?」

「鷹徳のやつはいまも正真正銘の清い身体だよ。俺が保証する」


 自信たっぷりに言った怜の言葉は、しかし昌蓉の耳に届いていたかどうか。

 剛勇の姫は、転倒した際にしたたかに頭を打ち、目を回している婚約者のもとへと一目散に駆け出していた。


***


「私としたことが、早とちりでとんだご迷惑を――――」


 心底から反省した様子で述べて、昌蓉はぺこりと頭を垂れた。

 封寧ほうねい市中にある昌氏の屋敷である。

 城門の後始末を周憲しゅうけんに任せたあと、夏凛たちの一行は、昌蓉を連れてふたたび屋敷に戻ったのだった。

 いま、応接間ではようやく意識を取り戻した鷹徳を始め、夏凛と怜、司馬準が昌蓉を取り囲んでいる。

 先刻までとは別人のようにしょげかえった王女は、潤んだ瞳で時おり鷹徳をちらちらと見やる。

 鷹徳はふっとため息をつくと、額に盛り上がったたんこぶを撫でる。


「どうかお顔を上げてください、王女殿下。さいわい兵士たちも気を失っていただけで、死傷者はありませんでしたし……」

「よかった――」

「よかったではありません!」


 鷹徳はごほんと咳払いをひとつして、年上の婚約者をきつく見据える。


「なぜ勝手に王宮を抜け出したのです? 今ごろ華都かとではどんな騒ぎになっているか知れませんよ」

「鷹徳さまのせいです……」

「僕の?」

「そうです。ご病気だと仰って郷里に戻ったきり、婚礼の儀もずっと先延ばしになって……私、居ても立っても居られなくなりましたの。ひと目お会いしたくて、こうしてお見舞いに参上したのです」


 昌蓉の言葉には演技とは思えない切実さが宿っている。

 彼女が本心から鷹徳を案じ、王宮を脱走するという暴挙に出たことは疑いようもない。

 王女の整った面貌に剣呑な相が兆したのはそのときだった。


「お元気そうで安心しました。けれど、まさか仮病をお使いになっていただなんて……」

「そ、それは……」

「とぼけないでくださいまし。お父様に送ったふみには自力で寝床から起き上がれないほどお悪いと書いていたのに、ついさっきも鷹徳さまは飛び上がって走り回っておられました」


 返答に窮して目を白黒させる鷹徳に、怜はそっと耳打ちする。


「いいかげんに年貢の納め時ってやつだな、鷹徳くんよ」

「うう……しかし……」

「”据え膳食わぬは男の恥”って言うだろうが。どのみちもう逃げられやしねえんだから、ここでジタバタするのは往生際が悪いぜ」


 そうするあいだにも、昌蓉は鷹徳にむかってずいと身を乗り出している。

 攻守はふたたび逆転した。すっかり追い詰められた鷹徳は、困惑しきった面持ちで視線を宙に泳がせるのが精一杯だった。


「もしほかに婚礼を挙げられない理由があるのでしたら、はっきりと仰ってください。私のことがお嫌いになったなら、それでも結構です」

「いえ、あの……僕はべつにそういう訳では……」

「どんな理由でも私は受け入れます。だから、隠し事だけはなさらないでください」


 昌蓉はそれだけ言って、ゆるゆると身体を引いた。

 鷹徳は目を瞑り、胸いっぱいに深く息を吸い込むと、観念したように語りはじめた。


「……理由なんて大したものではありません」

「では、なぜ?」

「迷っていたのです。僕は心に迷いを抱いたままあなたと夫婦めおとになる自信がありませんでした。だから、病気と称して故郷に帰り、ずるずると姑息に日を稼いでいた……」

「そこまでされるなんて、鷹徳さまはいったいなにを迷っておられたのです?」


 昌蓉に問われて、鷹徳は躊躇うように顔を俯かせた。

 やがて意を決したように顔を上げると、夏凛を横目で見やる。

 どこか寂しげな微笑みを浮かべた少年は、まるでひとりごちるみたいに滔々と言葉を継いでいく。


「修行の旅の途中で出会ったときから、僕はずっと凛どのに好意を抱いていました」

「――――」

「一時は本気で凛どのと添い遂げたいと思っていたほどです。それが叶わないと知ってからも、心のどこかに断ちがたい未練はずっと残っていました。そんな中途半端な気持ちのまま王女殿下と婚儀を挙げることは、僕にはとても出来なかったのです」


 鷹徳の言葉に耳を傾ける夏凛と昌蓉の胸中をともに埋めたのは、いわく言いがたい複雑な感情だった。

 勇気を振り絞った告白を前にしては、さしもの怜も茶化すつもりにはなれないらしい。

 誰もが口をつぐんだまま、重苦しい沈黙が応接間を覆っていく。

 やがて、昌蓉は消え入りそうな声でぽつりと呟いた。


「そう……でしたの……」

「あなたを騙していたことは本当に申し訳なく思っています。国王陛下には、どうかありのままをお伝えしてください。主君を謀った罪で僕を処罰されるというなら、甘んじて受ける覚悟です」

「そのようなことは断じてさせません。それに、私、とてもいいことを思いついてしまいました」

「えっ?」


 おもわず上ずった声を漏らした鷹徳をよそに、昌蓉は得意満面といった風で両手の指を組む。


「私と婚儀を挙げたあと、凛さんを側室にお迎えすればいいのです♡」

「は……? 王女殿下、いまなんと!?」

「だから、お妾にしてさしあげれば鷹徳さまとこれからも一緒にいられるでしょう? 私、嫉妬したりなんてしません。私には兄弟がいないから、妹が出来たみたいできっと楽しいわ。さっきも言ったとおり、二人のあいだに子供が生まれても自分の子のように可愛がって……」


 言いさして、昌蓉は口を閉ざした。

 その先に続くはずだった言葉は、頭のなかで泡のようにかき消えてしまったのだ。

 鷹徳が反射的に身を乗り出し、昌蓉の手を掴んだのである。

 頬を薄紅色に染めた昌蓉とは対照的に、鷹徳はすっかり顔色を失っている。


「王女殿下、それは駄目です!! 絶対になりません!!」

「どうして? とてもいい考えだと思うのですけど……」

「とにかく駄目なものは駄目です!!」

「そんな強く否定なさらなくても……凛さんはどう? 鷹徳さまのことをどう思っていらっしゃるの?」


 ふいに水を向けられて、夏凛は戸惑いを隠せなかった。

 それでも、どうにか心を落ち着かせると、居住まいを正して昌蓉を見つめ返す。


「……私も鷹徳のことは好きです」

「それならなにも問題はないじゃない」

「で、でも! うまく言えないけれど、私の”好き”と王女さまの”好き”は、きっと違います。夫婦になったり、子供を生んだり、そういうことは考えられないんです……」


 昌蓉はちいさく小首を傾げる。

 男女の機微に疎い王女には、夏凛の言っていることがまるで理解出来ないようだった。

 夏凛は駄目押しとばかりに、そんな昌蓉にむかってさらに言葉を重ねていく。


「それに、私にはどうしてもやらなければならない大事な役目があるんです」


 夏凛は震える喉をなだめるように深呼吸すると、決然と宣言する。


「私の本当の名前は夏凛。朱鉄に殺された成夏国王・夏賛かさんの娘です。いまは沙蘭国さらんこくの使節として、華昌国王のところに親書を届けに――」


 けたたましい音が応接間を領したのは次の瞬間だった。

 全員の視線が一点に集中する。

 昌蓉が座卓めがけて拳を振り下ろしたのだ。

 木目に沿って走った亀裂は、瞬間的に生じた破壊力の凄まじさを物語っている。

 手の痛みを気にするそぶりもなく、昌蓉は無残に割れた座卓の向こうでゆらりと立ち上がる。


「……成夏国? 夏賛の娘?」


 王女の唇から漏れたのは、つい先ほどまでの恋に恋する乙女のそれとは似ても似つかぬ底冷えのする声だった。

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