第111話 邂逅(二)

 冬の海風のような冷気が応接間を包んでいった。

 その根源は、言うまでもなく昌蓉しょうようだ。

 見目麗しい姫君は、ゆっくりと立ち上がると、じっと夏凛を見つめる。

 昌蓉の全身から放たれているのは、見る者の魂まで凍てつかせるような凄まじい鬼気だった。


「凛さん――いま、あなた、なんと仰って?」


 昌蓉の声と佇まいはあくまで落ち着いたものだ。

 それだけに、いっそう恐ろしい。

 人間は限度を超えた怒りや憎しみを抱いたとき、往々にして穏やかな表情を浮かべるものである。

 いま昌蓉のかんばせを占めたのは、まさしくそんな微笑だった。


「わ、私は成夏国せいかこくの……」

夏賛かさんの娘だと、たしかにそう言ったわね」


 やはり冷えきった声で昌蓉が語るあいだに、怜と鷹徳はどちらも臨戦態勢に入っている。

 怜が剣把に指をかけたまま微動だにしないのは、一国の王女に刃を向ける意味を理解しているからだ。

 だが、もし昌蓉が夏凛に危害を加えるつもりであれば、禁を犯してでも剣を抜かざるをえない。

 ひりつくような緊張のなか、怜は司馬準にちらと目配せをする。


「司馬準、凜を守れ!!」


 怜が叫ぶより早く、司馬準は傍らに置いていた長戟に手を伸ばしていた。

 それは司馬準が夏凛を守ろうとして意識的に取った行動というよりは、ほとんど無意識の反射であった。

 昌蓉はそんな司馬準には目もくれず、相変わらず夏凛だけを見据えている。

 やがて、形のいい唇が紡いだのは、ひとつの問いだった。

 

「凛さんは、むかし成夏国が華昌国かしょうこくになにをしたかご存じ?」

「それは……」

「三十年前、夏賛は身勝手な野望のために華昌国に攻め入ったの。各地の城市まちは焼かれ、大勢の罪のない人々が生命を奪われた……」


 昌蓉の声色は相変わらず冷静そのものだが、その言葉には反論も否定も許さない凄みが宿っている。

 夏凛は何も言えないまま、じっと拳を握りしめることしか出来なかった。


「先々代の国王だった私のお祖父様も、大叔父様がたもみんな戦で亡くなったわ。……いいえ、成夏国人に殺されたのよ。戦で捕まった王族は五体を八つ裂きにされて、骨の欠片かけらさえ帰ってはこなかった」

「王女さま、私――――」

「成夏国人は人の姿を借りた悪魔よ。とくに夏賛はこの世のどんな悪人よりも非道で狡猾な暴君なの。たとえもうこの世にいなくても、私たち華昌国人はあの男をけっして許さないわ」


 言い終わるが早いか、昌蓉は夏凛の手を強く握っていた。

 室内に緊張が走ったのも一瞬のこと。

 昌蓉は夏凛を引き寄せると、やはり有無を言わせない強い語調でまくしたてる。


「だから、冗談でもそんなことを言ってはだめ!」

「……え?」

「あなたが夏賛の娘であるはずがないでしょう。だって、あの男は人間じゃないのよ。身体は山のように大きいうえに、顔には八つの眼と三本の角があって、真っ赤な口は耳まで裂けていたというわ。天下を恐怖と暴力で支配していたそれはおぞましい魔物だったんだから!! ああ、想像しただけでも恐ろしくて気を失ってしまいそう……!!」

「誰がそんなことを言ってたんですか!?」

「あら、王宮の大人たちはみんなそう言ってたわ。それに較べて、あなたはどこからどう見ても私たちと変わらない普通の人間じゃない」


 戸惑いを隠せない夏凛に、昌蓉は力強く頷いてみせる。

 澄んだ瞳には一点の曇りもなく、無根拠な自信に満ち満ちている。

 夏凛が何を言ったところで、この姫が自説を曲げるようなことは万に一つもありえないはずだった。

 それでもなお食い下がったのは、夏凛なりの意地だ。


「違うんです、王女さま。私は本当に成夏国の……」

「蓉でいいわ。これから私のことはそう呼んでちょうだい」

「あの、蓉姫さま――――」


 昌蓉は満足げに相好を崩すと、そのまま夏凛を抱きしめていた。

 

「ごめんなさいね。私が不用意にあなたを鷹徳さまの側室に迎えるだなんて言ったものだから、驚いてあんな突拍子もない嘘をついてしまったのでしょう。ううん、あなたは悪くないの。誰にだって間違いはあるのだから……」


 そして、呆気にとられたように見つめる一同の前で、昌蓉は高らかに宣言したのだった。


「決めたわ、凛さん。鷹徳さまの側室になる心の準備が出来るまで、あなたを私の侍女として召し抱えてあげる!」


***


 その日の夜半――。

 静寂しじまに満たされた一室で向かい合うのは、鷹徳と怜だった。

 鷹徳は机の上で両手を組み、怜は椅子に背をもたせかかったまま、どちらも思案に暮れている。

 やがて口を開いたのは怜だった。


「で、どうすんだよ?」

「いま考えているところだ……」

「あの姫さんはおめえの婚約者だろうが。将来の旦那としてガツンと言ってやれよ」

「僕がなにを言ったところで、あの方は聞く耳を持たないだろう」


 疲れ果てたように言って、鷹徳は深く長いため息をつく。


「とにかく、凜をこのままにはしておけねえ」

「分かっている。……王女殿下が凜どのに危害を加えるとは思えないが、だからといって予断は禁物だ」


 昌蓉が夏凜を連れて寝所に引っ込んだのは、一刻(二時間)ほどまえのこと。

 連れてとは言うが、実際は有無を言わさずに引きずって行ったのである。

 なすすべもないまま二人を見送った怜と鷹徳、司馬準の三人が、夏凜を奪還するための方策を慌てて練り始めたことはあえて言うまでもない。

 昌蓉が夏凛の話を信じていないうちはまだいい。

 だが、もし何かのきっかけで本当に夏賛の娘だということが知れたなら、昌蓉は今度こそ夏凛に牙を剥くだろう。

 言うなれば、夏凛はいつ目覚めるかしれない虎の傍らに置かれているようなものだ。


「失礼する――」


 司馬準の声が部屋の外から飛び込んできたのはそのときだった。

 同時に怜と鷹徳が壁越しに感じ取ったのは、だ。

 はたして、司馬準の背後から現れたのは、ひとりの若武者であった。

 甲冑よろいこそ脱いでいるが、馬車の荷台で縛り上げられていた青年であることはすぐに分かった。

 

高迅こうじん!」

「鷹徳さま、ご無沙汰しております」


 言い終わる前に、高迅は床に両膝を突いていた。

 それは罪人がみずからの罪状を認め、許しを乞う際の姿勢にほかならない。

 鷹徳が声をかけるより早く、高迅は切々と語り始めた。

 

「このたびの不祥事、面目次第もございません。王宮の警備隊長である私がついていながら姫殿下をお止め出来ませなんだこと、まこと慚愧に堪えませぬ。この失態を贖うためには、もはや自刎して果てるしか――」


 軍人としての悲愴な謝罪に、気の抜けるような音が重なった。

 怜が高迅の後頭部をぺしぺしと叩いているのだ。


「おいこら、勝手に盛り上がってんじゃねえぞ」

「なにをする⁉ いやしくも華昌国の官位を授かった男子の頭を打つとは、無礼にもほどが……‼」

「無礼もへったくれもあるかよ。こっちはおまえんとこのお姫様からどうやって凜のやつを取り戻そうかって話をしてんだ。死ぬ覚悟ならせめて俺たちの役に立ってから死にやがれ」


 にべもなく言い放った怜に、高迅はがっくりと項垂れるばかりだった。

 返す言葉もないとはまさにこのことだ。

 元はと言えば昌蓉の王宮からの脱走を止められなかった自分の責任だということは、むろん高迅も承知している。

 とにもかくにもこの事態を無事に収拾しないことには、死んでも死にきれるものではない。


「で、だ。問題はどうやって凛をあのとんでねえお姫様から引き離すかだが――」

「そのままにしておくのが上策だとおもう」

「ああ?」


 思いがけない高迅の言葉に、怜は反射的に問い返していた。

 高迅は至って真剣な面持ちで怜を見つめると、重々しく首肯する。


「姫殿下の膂力ちからは並の男の比ではないが、心根は誰よりもお優しい御方だ。その凛という娘を気に入っているなら、下手に刺激するのではなく、しばらく様子を見たほうがいい」

「本気で言ってんのか?」

「むろんだ。そうしているうちに、いずれ奪還の好機も訪れるだろう。なぜそんなにあの娘を取り戻すことに躍起になっているか知らないが、とにかく焦りは禁物ということだ」


 高迅はそれだけ言うと、良案を出してやったぞとばかりに腕を組む。

 怜はもだしたまま、それとなく鷹徳に視線を送る。

 夏凛の正体を高迅に教えるべきかどうかを言外に諮っているのだ。

 ややあって、鷹徳は苦々しげに瞼を閉じた。

 あえて言葉にするなら、気は進まないがやむをえない――とでもいったところだろう。


「おい高迅さんよ、ちょっと耳貸しな。じつは……」


 怜は声を潜めると、高迅をくいくいと手招きする。

 べつに事情を知っている鷹徳や司馬準の前で隠し立てをする必要はない。

 あえて耳打ちをしてみせるのは、いまから話すことがとびきりの秘密だということを前もって知らせているのだ。

 そうこうするうちに、高迅の表情はみるみる険しくなっていった。


「まずいことになった……」

「だろ? だから早いところ凛を助け出してやらねえと――」

「貴様、なぜもっと早く教えなかった!? あの夏賛の娘がすぐ近くにいるなど、姫殿下の御身に万一のことがあったらどうする!!」

「それは万が一どころか億が一にもありえねえから心配すんな」

 

 矢も盾もたまらず飛び出そうとした高迅を羽交い締めにしつつ、怜は呆れたように言った。

 その場から一歩も進むことがままならなくなった高迅に、鷹徳はなだめるように語りかける。


「高迅、落ち着いてくれ。凛どののことは僕も以前から存じ上げている。たしかにあの方は成夏国王の息女だが、いまは沙蘭国の使節として華昌国に赴いている。そのような御方に何事かあれば、我が国としても面目が保てないだろう」

「それならば、なおのこと問題です。鷹徳さまにも累が及ぶおそれがございます」

「どういうことだ?」


 訝しげに問うた鷹徳に、高迅はためらいがちに言葉を返すのが精一杯だった。


「明日の朝には、この封寧城が戦場になるかもしれないのですよ」


***


「ねえ、もっとこっちにいらっしゃいな」


 天蓋付きの寝台ベッドに横たわった昌蓉は、夏凛にむかって手招きする。

 どちらも寝衣に着替えた二人の王女は、寝台の縁に並んで腰掛ける格好になった。


「あの……蓉姫さま?」

「私のことは蓉でいいと言ったのに」

「今日会ったばかりなのに呼び捨てなんて出来ません。それに、あなたのほうが私よりも年上ですから」


 年上という言葉に、昌蓉は複雑な表情を浮かべる。

 それもつかのま、ふたたび花が咲いたような笑顔に戻った昌蓉は、はっしと夏凛の手を取っていた。


「鷹徳さまのこと、聞かせてくださらない?」

「私なんかよりも婚約者の蓉姫さまのほうがよく知っていると思います」

「いいえ。……私とあの方は、これまで数えるほどしか顔を合わせたことがないの。それも二人きりではなくて、いつも護衛の兵士や女官がすぐそばで目を光らせていたわ」


 いかにも剽気たふうに言って、蓉姫は寂しげに笑う。

 王族同士の婚姻がどのようなものであるかは、もちろん夏凛も知悉している。

 事前に顔合わせの機会が設けらるほうが珍しく、大抵は顔も知らない相手とめあわせられるのだ。

 聖天子の貴い血胤を後世に伝えていくこと。

 王家の子女にとって、それこそがおのれの存在意義と言っても過言ではないのだ。


「それでも、私はあの方を心底からお慕い申し上げているわ。歳はすこし離れているけれど、私の良人おっとになる方は鷹徳さましかいないと思っているの」


 夏凛は昌蓉の話に耳を傾けながら、彼女の目尻にうっすらと涙が浮かんでいることに気がついた。

 まるく膨らんだ涙滴は、みずからの重みに耐えかねて、王女の白い頬をひとすじまたひとすじと伝っていく。

 流れる涙もそのままに、昌蓉はなおも言葉を継いでいく。


「だけど……私は、誰よりも大切に思っている鷹徳さまを傷つけてしまった」

「傷つけるというのは、どういう……」

「もう二年も前のことよ。離れ離れになるのが嫌で、あの方と私だけでどこかに逃げてしまおうと思ったの。私は鷹徳さまを抱きかかえて、お付きの兵士や女官を振り切って王宮を逃げ回ったわ」

「それで、どうなったんですか?」

「どうにもならなかった。だって、あの方ったら、私の腕の中で怖がって震えていたんですもの。酷いことをしてしまったのだと、そのときになってようやく分かったの」


 昌蓉はようやく気づいたように涙を手の甲で拭うと、いかにもばつが悪そうに笑ってみせる。

 痛々しいその姿を目の当たりにして、夏凛は胸が締め付けられるようだった。

 

「そのときから、私はあの方に嫌われているのかもしれないと思うようになった。約束の期限が来ても修行の旅から帰らなかったことも、病気だと言って故郷に引きこもってしまったことも、ぜんぶ私と夫婦になるのが嫌だからなのかもしれないって」

「蓉姫さま、そんなことは……」

「鷹徳さまはあなたのことが本当にお好きなのでしょう。たぶん私などよりもずっと。だから、私はせめてあの方の好きなようにしてあげたいと思った。私とはお父様の命令で夫婦になるのだとしても、ほんとうに好きな女性がそばにいればと……」

「そんなことありません!!」


 夏凛の口をついて出たのは、自分でも驚くほどに強い否定の言葉だった。

 すっかり面食らった様子の昌蓉に、夏凛は穏やかに問いかける。


「蓉姫さま、私はあなたより鷹徳のことを知っています」

「凛さん……」

「鷹徳は優しくて心がまっすぐな人です。いくら国王陛下の命令でも、自分の気持ちに嘘をついて、あなたを騙し続けたまま夫婦になれるほど器用な人じゃありません」


 夏凛は昌蓉の頬にそっと手を当てる。

 ふたたび溢れた涙が指のあいだを埋めていく。


「鷹徳が私のことを好きだと言ってくれた気持ちは本当だと思います。でも、それはもう過ぎたことです。あの人は自分の気持ちに決着をつけて、あなたと先へ進もうとしているんです」

「本当に? 信じてもいいの?」

「もちろんです。鷹徳といっしょに旅をしてきた私が言うのだから間違いありません」


 次の瞬間、昌蓉は感極まったような声を上げたかと思うと、夏凛の胸に飛び込んでいた。

 ほとんど押し倒されるように寝台に倒れ込んだ夏凛は、まるで母親が幼子をあやすように長い黒髪を撫でてやる。

 やがて旅の疲れに泣き疲れたことが重なったのか、昌蓉はすこやかな寝息を立てはじめた。

 平和そのものといった寝顔を眺めながら、夏凛は一抹の不安に駆られていた。

 

 もし自分が本当に成夏国の王女だと知ったなら。

 彼女はやはり激しい憎しみをぶつけてくるだろうか。

 胸襟を開き、心を通わせた相手であったとしても、国と国との因縁を乗り越えることは出来ないのか。

 考えるうちに、夏凛の意識はいつしか深いまどろみの淵に落ちていった。

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