第96話 旅立(一)

せつ……?」


 かすれた声で呟いて、夏凛は薛を抱き起こした。

 太い矢は、少女の胸に垂直に突き立っている。

 その根本から湧き水のようにあふれるのは、無惨なほどにあざやかな血潮であった。

 薛は夏凛を見つめると、血色を失ったかんばせに儚げな微笑みを浮かべる。


「姫さま……よかった……」

「薛、どうして!? なぜこんなことを――」

「私は姫さまの従者ですから。あなたをお守りするのに、理由など必要ありません……」


 言い終わらぬうちに、薛はけほけほと咳き込んだ。

 そのたびに唇の合間から血泡がこぼれ、青白い肌を染めていく。

 間一髪のところで心臓への直撃こそ免れたものの、するどいやじりは薛の肺腑を貫いていた。

 薛はみずからの血に溺れかけながら、ひゅうひゅうと苦しげな息を繋ぐのが精一杯であった。


「薛、なにも心配いらないわ。すぐ医者に連れて行くから……!!」

「いいんです……私のことは気にしないで……」

「バカなこと言わないで!! 私が絶対に助けてみせる!!」


 叱るように言った夏凛に、薛はゆるゆるとかぶりを振る。

 みずからの死期を悟った少女の表情は、不思議なほど穏やかだった。

 夏凛はどうすることも出来ず、みるみる失われていく温もりを留めようと手を握るばかりだった。


「わたし……最期に姫さまのお役に立ててよかった……」

「薛……!!」

「姫さま、ひとつだけお願い……聞いていただけますか……?」

「もちろんよ、薛。どんなことでも言ってちょうだい」


 両目いっぱいに涙を溜めながら、夏凛は薛の顔に耳を近づける。

 少女が残りわずかな生命を削って紡ぎ出す言葉を、片言隻句たりとも聞き逃すまいとしているのだ。


「これからさき……なにがあっても、生きてくださいね……」


 薛は夏凛の手を弱々しく握り返しながら、いまにも消え入りそうな声で囁いた。


「姫さまが生きていてくれること……それだけが、わたしと兄上のたったひとつの願いです……」

「薛、李旺は――――」

「おっしゃらなくても、分かっています……」


 いまも兄が生きているのであれば、夏凛を救出するためにこの場に姿を見せないはずがない。

 李旺はすでにこの世にいない。それでも、夏凛が生きているということは、その死は無意味ではなかったということだ。

 薛はすべてを察したうえで、夏凛に最後の願いを託したのだった。


「姫さま……どうか……いつまでもお元気で……」

「薛っ!!」


 夏凛が薛の身体を抱きしめたとき、風鳴りのような喘鳴ぜんめいはすでに絶えていた。

 かすかに揺らいでいた生命の灯火は、ついに消え失せたのだ。

 苦痛から解き放たれた少女の面上を占めたのは、不思議なほど穏やかな表情だった。

 夏凛は薛の頭を胸に押し付けると、声を殺してさめざめとすすり泣いた。

 李家の兄妹きょうだいは、二人とも自分を救うために生命をなげうったのだ。

 どれほど悔やんだところで、失ったものは二度とは戻らない。

 夏凛は流れる涙を止める術も知らないまま、次第に熱を失っていく薛の身体にしがみついている。


「いいかげんにお別れは済んだかな、夏凛姫?」


 不躾な声を投げかけられて、夏凛はおもわず背後を振り返っていた。

 秀麗な面差しを血に染めた貴公子は、嗜虐的な笑みを浮かべて佇立している。


「陳索……!!」 

「たかが下賤な端女はしためが一匹死んだ程度で大げさな。そんな虫けら、涙を流してやるほどの値打ちもなかろうになぁ?」

「だまりなさい!! よくも……よくも薛を……!!」

「そう焦らずとも、お前もすぐにその娘の後を追わせてやる」


 言って、陳索はあらたな矢を番えた弩を構える。

 その両脇には、同じように弩を携えた兵士たちが控えている。

 号令一下、夏凛と怜めがけて一斉射撃を仕掛けようというのだ。


 怜は夏凛を庇うように身を乗り出すと、陳索をきっと睨めつける。

 

「当てる自信がねえから数を頼もうってのか? 情けねえな、ドヘタクソ野郎が」

「なんとでも言え、汚らわしい蛮族め。先ほどはつまらん邪魔が入ったが、今度こそ確実に仕留めてくれるぞ」


 長剣を手に飛びかかろうとして、怜はその場で踏みとどまった。

 夏凛がふいに片袖を引いたのだ。


「凛!! おまえは隠れてろ!!」

「いいえ。……怜、ここは私に任せてちょうだい」

「なにを言ってやがる――」


 怜は喉まで出かかった言葉をぐっと呑み込んだ。

 夏凛の瞳にまっすぐ見据えられた瞬間、そうせざるをえなかったのだ。

 いま、つぶらな黒い双眸から放たれるのは、すべてを凍てつかせる氷の視線だった。

 夏凛の身体から放たれる凄絶な鬼気をまともに受けて、怜はおもわず後じさる。


「陳索、私は逃げも隠れもしないわ」

「ようやく覚悟を決めたか。最初からそうしていれば、あの娘も死なずに済んだろうにな」

「撃ちなさい――あなたに私は殺せない」


 言い終わるが早いか、夏凛は決然と一歩を踏み出していた。


「……怜、剣を」


 有無を言わさぬ迫力に、怜は一も二もなく長剣を手渡していた。

 かつて李旺が愛用した剣は、いまふたたび夏凛の手に戻った。

 身の丈に対していささか長すぎる刃渡りも、少女の膂力には余るずっしりとした重さも、いまの夏凛には苦にならない。

 敵を前にしてなお悠揚迫らぬ佇まいは、陳索と兵士たちもおもわず見惚れるほどであった。

 

「貴様ら、なにをしている!? 射て!! あの小娘を殺せ!!」


 夏凛が数歩も進んだところで、陳索は我に返ったように喚きたてた。

 引き金を絞ると同時に、するどい音が生じた。

 夜気を引っ切って三本の矢が飛翔する。

 どの矢も夏凛の頭と胸に狙点を合わせている。どれか一本でも命中すれば、即死は免れない。

  

「凛、伏せろ!!」


 怜が叫んだのと、硬質の音が立て続けに響いたのは、ほとんど同時だった。

 陳索と兵士たちが放った矢が、すぐ近くの庭石や地面に当たって生じた音だ。

 本来なら絶対に外すことのない間合い。

 それにもかかわらず、夏凛の放つ凄まじい気に圧倒され、三人が三人ともに狙いを外したのである。


 夏凛の右頬にひとすじ赤い線が浮かび上がった。

 矢の一本が顔面すれすれをかすめ、皮膚に浅い傷をつけたのだ。

 ぷっくらと盛り上がった血の珠を気にかける素振りもなく、夏凛はなおも陳索に近づいていく。


「やめろ、来るな――それ以上この私に近づくんじゃない!!」


 おもわず弩を投げ捨てた陳索は、気も狂わんばかりに絶叫する。

 助けを求めようにも、傍らの兵士たちはすでに四分五裂して逃げ散っている。

 それも無理からぬことだ。

 いまの夏凛は、目には見えない凄気に全身を鎧われている。

 それは、聖天子の血を引く子孫のなかでも、ごくひと握りの真の王だけがまとい得るもの。

 相対する者を畏怖させずにおかない神聖な気は、陳索と兵士たちをして無意識のうちに照準を逸らさせたのだった。

 

 庭園のむこうでは沙蘭国軍が塀を乗り越え、屋敷内に突入しつつある。

 先ほどまでの余裕から一転、陳索はまさに八方塞がりの状況に追い込まれたのだった。

 

「陳索、これまでよ」

「図に乗るな、夏凛。他の雑兵どもはいざしらず、私までもがお前を恐れると思っているのか!! もはや王女ですらないお前になど、断じて屈するものか……」

「あなたは可哀想な人だわ」


 夏凛は冷えきった声で呟くと、長剣を構える。

 薄闇に銀光がきらめいた。美しくも恐ろしいその輝きに、陳索はおもわずその場にへたり込む。


「他人を見下して、踏みつけることしか生き方を知らない……」

「それがどうした? 私はその資格がある!! 私以外の人間など塵芥ちりあくたにも等しいのだからな」

「だから、あなたのそばには誰もいなくなった。いいえ、最初からあなたはひとりぼっちだったのよ」


 夏凛は陳索を見下ろしたまま、長剣を頭上に掲げる。

 大上段の構え――。

 たとえ非力な少女でも、このまま一気に振り下ろせば、加速をつけた刃が陳索を真っ二つに切り裂くはずであった。


「凛、やめろ!! そいつを殺しちまえば……!!」


 夏凛の背中にむかって、怜は声のかぎりに叫んでいた。

 陳索はボウ帝国の重臣である。

 その彼が沙蘭国さらんこくで殺されたとなれば、経緯はどうあれ、国家間の外交問題に発展することはまちがいない。

 それは取りも直さず、昴帝国に沙蘭国を滅ぼす正当な大義を与えるということだ。

 聖天子から現在に至るまで、七国の戦において大義名分の有無は何よりも重視されてきた。

 大義を掲げた征伐となれば、他の国々は手出しすることも出来ず、朱鉄は誰はばかることなく沙蘭国を手中に収めることが出来る。


「――終わりよ、陳索」


 夏凛の言葉に呼応するように、銀閃がひとすじ闇を流れた。

 陳索の頭蓋を一撃のもとに断ち割るはずだった長剣は、しかし、むなしく虚空を斬った。

 

「え……?」

 

 陳索は、信じがたい様子で自分の頭に手をやる。

 首はまだ胴と繋がっている。

 それどころか、痛みも感じられない。

 どうやら、刃は陳索の皮膚に触れることもなく通過していったらしい。


――しょせん女の細腕、仕損じたか……。


 血まみれの顔に浮かんだ安堵の相は、たちまちに絶望のそれへと変わった。

 前髪から頭頂部にかけての毛髪がごっそりと刈り落とされていることに気づいたためだ。


「あ、ああ……‼ うそだ、私がこんな姿に……‼」

 

 髡刑こんけい――。

 犯罪者の頭髪の一部を剃り落とし、見せしめとする刑罰である。

 生きたまま恥辱を味わわせるという意味では、こと王侯貴族にとっては死刑以上に過酷な処分とされている。

 顔面を袈裟がけに走る刃傷と合わせて、秀麗な貴公子は見るも無惨な姿へと変わり果てたのだった。


「おのれ、よくもこの私をここまでコケに……!!」

「私だって、この手で薛の仇を討ちたかった。だけど、そんなことをすれば、朱鉄の思う壺になる」

「なんだと? それはどういう意味だ⁉」

「朱鉄はあなたが殺されるのを見越して沙蘭国に送り出したはず。あいつはそういう冷酷な計算が出来る男よ。だから、私はそんな策略に乗る訳にはいかないの」

「うそだ……ありえない‼ 皇帝陛下が私を捨て石にするはずがない‼」

「あなたが昴帝国でどんなに出世したか知らないけれど、一人の犠牲で沙蘭国に攻め込む大義名分が手に入るなら安いものではなくて?」


 夏凛の声はふだんとは別人みたいに低く沈んでいる。

 親友を殺された憎しみと怒りを必死に胸のうちに閉じ込め、あくまで冷徹に陳索に語りかけている。

 静かな声色は、それゆえに鬼気迫る威圧感を帯びていた。


「分かったなら、そのまま昴帝国に帰りなさい、陳索。この国は……私のお母様の故郷は、あなたみたいな腐りきった人間がいていい場所じゃない」


 夏凛は黒い瞳を陳索に向ける。

 研ぎ澄まされた刃のような視線に見据えられたとたん、陳索はほとんど反射的に逃げ出していた。

 よたよたと躓きそうになりながら駆けていくさまは、貴公子というよりはむしろ盗賊を思わせた。

 闇の彼方へ遠ざかって行く後ろ姿はすこしずつ小さくなり、ついに見えなくなるまでさほどの時間は要さなかった。


 やがて周囲に人の気配がなくなっても、夏凛は長剣を握りしめたまま、身じろぎもせずその場に立ち尽くすばかりだった。

 俯いた顔にどんな表情が浮かんでいるのかは、おそらく当の本人にさえ分かっていないだろう。


「凛……」


 声をかけようとして、怜はそのまま身体を強張らせた。

 地面がかすかに震えている。

 夜気を伝わって耳を打ったのは、複数の馬蹄の響きだ。

 こちらに向かってまっすぐに疾駆してくる。

 身を隠す暇もなく、二人は七騎ばかりの騎馬武者に四方を取り囲まれていた。

 まっさきに下馬したのは、とりわけ荘重な鎧兜に身を包んだ偉丈夫だ。

 威厳に満ちた佇まいから察するに、どうやら一行の筆頭格らしい。


「成夏国王が御息女、夏凛殿下とお見受けいたします――」


 言いざま、男は兜を取っていた。

 銀灰色の束ねた髪がさらさらと夜風に流れる。

 いわおのような険しい顔貌には、闇のなかでいっそう濃い陰影が刻まれている。

 ともすれば恐ろしげなその姿を認めたとき、夏凛の胸に去来したのは、しかし恐怖とは真反対の感情だった。

 男はその場に跪くと、夏凛にうやうやしく頭を垂れる。


「遅参の儀、何とぞご容赦ください。――沙蘭国大将軍・王扶建にございます」

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