第95話 別離(五)

「てめえら、官兵(正規軍)じゃねえな――――」


 あらたに出現した甲冑よろい姿の男たちを見渡して、怜はひとりごちるみたいに呟いた。

 五十人あまりの男たちは夏凛と怜、せつの三人を十重二十重に取り囲んでいる。

 陳索ちんさくの手勢と合わせれば、総勢は八十人ほどにもなろう。

 剣技においては人後に落ちない怜といえども、これだけの数を相手に戦うことは取りも直さず死を意味する。


「そのとおり。彼らは私が呼び寄せた心強い味方だ」


 いかにも得意げに言ったのは陳索だ。

 つい先ほどまで狼狽しきっていた貴公子は、状況が好転したと見るや、ふだんの鼻持ちならない増上慢を取り戻したようであった。

 懐から取り出した扇子をひらひらと舞わせながら、陳索は夏凛と怜に冷ややかな視線を向ける。

 

「さて……ずいぶんと手こずらせてくれたが、それもここまでだ。生命が惜しければ、無駄な抵抗は止めておとなしく投降することだな」

「さっき俺が言ったことを忘れたのか? そこをどかなければ、夏凛こいつの首が――」

「その前に貴様の全身を矢が貫くだろうな」


 言って、陳索はくっくと哄笑する。

 怜の背後には弩と短弓を構えた男たちが展開している。

 陳索が目配せすれば、一斉に放たれた矢は怜めがけて殺到するだろう。

 ちょうど怜は自分の身体で夏凛を庇う形になる。射手にとっては、誤って夏凛を傷つける心配がいらないということだ。

 背中に突き刺さる殺意に動じることもなく、怜は陳索をまっすぐに見据える。


「ずいぶん訓練が行き届いてやがるな。官兵でないとすりゃ、いったいどこからこんな連中を……?」

「ふふ、そんなに知りたいなら特別に教えてあげよう。彼らはの食客だ」

「食客だと?」

沙蘭国さらんこくにも賢人はいるもの。わがボウ帝国に恭順し、国家の安寧を望むその人物は、私のためならよろこんで配下を動かしてくれたよ」

「なるほど――合点が行ったぜ。おおかた騒ぎにビビってお友達の手駒を勝手に動かしたってところか」


 怜は「図星だろ?」とばかりに唇を歪めてみせる。

 陳索は何も言わず、わずかに顔をそらしただけだった。

 それでも、貴公子の引きつった表情は、怜の推測が事実であることを意味していた。


 陳索は先だって沙蘭国の宰相を務める馬粛ばしゅくの屋敷に部下を送り、彼の食客たちを増援として呼び寄せたのである。

 馬粛本人は王宮に赴いているため不在だったが、もともと従属派の筆頭ということもあり、馬家の人間は陳索の言うことに唯々諾々と従ったのだった。


「どこまでも小賢しい蛮族め。生命だけは助けてやろうと思ったが、気が変わった。この陳索を愚弄した報い、とくと受けるがいい!!」

「最初から助けるつもりなんざなかったくせに、よく言うぜ」

「だまれ!! 汚れた血の蛮族らしく、死体は野良犬のエサにでもしてくれるぞ!!」

 

 言いざま、陳索は扇子を頭上に掲げる。

 食客たちに射撃を命じかけて、陳索はそのままの姿勢で硬直した。

 夏凛が怜の腕を離れ、陳索のほうへ近づいてきたのだ。


「そこまでよ、陳索」

「これは夏凛姫……ふふふ、やはり先ほどのふるまいは芝居でしたかな? どうせそんなことだろうとは思っていましたが、さすがの私もいささか肝を冷やしましたよ」

「聞きなさい。そんなに私が欲しければ、あなたのものになってもいい」

「……なんですと?」


 陳索の面上を驚愕の色が染め上げていく。

 それも無理からぬことだ。

 あれほど自分を拒絶していた少女が、みずからの意志で身を委ねると申し出たのだから。

 その真意が那辺なへんにあるかは定かではないものの、陳索はまさしく手の舞い足の踏む所を知らない心地だった。


 一方、夏凛の言葉を耳にして、怜もまた信じられないというように目を見開いていた。


「凛!! おまえ、本気で言ってんのか!?」

「いいの、怜。ここはだまって私の言うことを聞いて」


 夏凛は怜を片手で制止すると、陳索へとさらに歩を進める。


「その代わり、ひとつ条件を呑んでもらう」

「いいですとも……なんなりと仰せになってください。貴女が手に入るのであれば、私はどんな代償も惜しみませんよ」

「この二人に手出しをしないと約束しなさい。もし受け入れないというなら、私は舌を噛んで死ぬわ」


 夏凛の提示した条件に、陳索はわずかに眉根を寄せた。

 それも一瞬のことだ。貴公子は欣然と破顔すると、いかにも鷹揚に肯っていた。


「……いいでしょう。その端女はしためと蛮族は逃してさしあげましょう」

「本当ね、陳索?」

「私はいやしくも昴帝国の大鴻臚だいこうろ(外務大臣)です。軽々しく言を左右にするような真似はいたしませんとも」


 陳索は高らかに宣言すると、扇子を口元に当てる。

 二人のやり取りに黙然と耳を傾けていた怜は、耐えかねたように叫んでいた。


「凛、考え直せ!! なんのために俺たちがここまで来たと思ってんだ!?」

「いいの、怜。……私が最初から罠と見抜いていれば、こんなことにはならなかったんだもの。王妃さまにはよく謝っておいてちょうだい」

「ざけんな!! おまえを置いて戻れる訳がねえだろうが!!」

「私のことは心配いらないわ。それより、薛のことをおねがい。私の生命の恩人なの……無理なお願いなのは分かっているけど、出来るだけのことはしてあげて」


 夏凛の静かな声色には、反論を許さない気迫が漲っている。

 言葉を失ったようにその場に立ち尽くした怜は、ただ拳を固く握りしめることしか出来なかった。


「さあ、なにをしているのです? 早々にわが屋敷から立ち去りなさい。姫の温情に免じて、生命だけは助けてあげましょう」


 陳索に促され、怜は薛をひょいと担ぎ上げると、裏門のほうへと足を向けた。

 周囲に展開していた食客と兵士たちはおのずから退き、二人のために道を開いている。

 夏凛のほうを振り返ることもなく歩いていく青年の後ろ姿は、先ほどまでとは別人みたいに弱々しく見えた。

 貴公子の双眸がするどい光を放ったのはそのときだった。


「陳索、なにを!?」

 

 夏凛が叫んだときには、陳索は扇子を垂直に滑らせていた。

 その挙措が意味するところは、食客と兵士たちの動きがただちに証明した。

 長剣、槍、斧、戟……多種多様な武器が、薛を担いだ怜めがけて振り下ろされる。

 青年と少女のために用意されたひとすじの退路は、一瞬のうちに死の回廊へと変じたのだった。


「怜っ!! 薛っ!!」


 夏凛は、ほとんど無意識のうちに二人の名を叫んでいた。

 刹那、甲高い悲鳴が闇の庭園を領した。

 怜の声ではない。

 絶叫が二度、三度と立て続けに上がり、兵士たちのあいだから黒い影が転がり出た。

 蜂蜜色の髪が夜風に流れる。

 薛を脇に抱きかかえたまま、怜は巧みに凶刃をかいくぐっていた。

 のみならず、片手で長剣を抜き放ち、混戦のなかで数人の敵を斬り捨てたのだった。


「ちっ……悪運の強いやつ。おまえたち、その目ざわりなをさっさと処分しろ!!」


 陳索は忌々しげに吐き捨てると、兵士たちに下知を飛ばす。


「陳索、約束が違うわ!!」

「なんとでもお言いなさい。あなたはすでに私のものなのですよ。妻の命令に従う主人がどこの世界にいます?」

「ふざけないで!! 私はあなたの妻になった覚えはないわ!!」

「ふふ、そうやって強がっていられるのもいまのうちだけですよ」


 陳索が言い終わるが早いか、夏凛は兵士に背後から羽交い締めにされていた。

 夏凛はなおも暴れようと手足を動かすが、屈強な軍人の力に抗えるはずもない。

 そうするあいだに、夏凛はもはや声を出すことさえ出来なくなっていた。

 別の兵士が、口中に丸めた布切れを押し込んだのだ。


「おやおや、これで舌を噛むことも出来なくなってしまいましたね?」


 陳索は満足げに言って、夏凛の頬を撫ぜる。

 身動きを封じられ、声さえ奪われた夏凛は、ただ嫌悪の涙を流すことしか出来ない。


「あの二人が五体を引き裂かれて殺されるところをゆっくりと見物なさるといい。下賤の輩ではありますが、私たちの門出を祝う供物としては上々でしょう」


 心底から愉快げに言って、陳索は怜のほうへ視線を移す。


 戦況はあきらかに怜の不利だった。

 どれほどすぐれた剣士でも、数の不利を覆すことは難しい。

 まして少女ひとりを脇に抱えた状態ともなれば、十全の実力を発揮出来る道理もない。

 入れ代わり立ち代わり仮借ない攻撃を仕掛ける敵に対して、怜は致命傷を避けるのが精一杯であった。

 逃げ回っているうちに、いずれ体力も尽きる。

 救援も見込めない状況では、どれほど巧みに攻撃を捌いているつもりでも、実際にはいたずらに死を先延ばしにしているだけにすぎないのだ。


 陳索もそれを見透かしているのか、ことさらに部下を急き立てることもなく、悠揚と戦いの推移を見守っている。


「ほお、なかなか楽しませてくれる。そうは思いませんか、姫?」

「――」

「おっと、口が塞がれていては返事も出来ませんか。いや結構、あなたの顔を見れば、なにを考えているかくらいは分かりますからね」


 夏凛は悔し涙を流しながら、それでも視線は怜と薛を追っている。

 二人を窮地に追いやったのは自分の責任だ。

 ならば、どんなに辛くても、けっして目を逸らしてはならない。

 

(怜……薛……ごめんなさい……)


 そんな夏凛の表情を横目で見つつ、陳索は愉悦に堪えないというように目尻を下げる。

 

「さて、愉快な見世物もそろそろ終わりにしましょうか。……おい」


 陳索が軽く右手を上げると、弩兵と弓兵が進み出た。


 どちらも怜を狙っていることはあきらかだった。

 ただでさえ薛を抱えて動きが鈍っているところに、一斉に矢を射掛けられたなら、さしもの怜も回避する術はない。

 両目をいっぱいに開き、激しく首を振る夏凛を一瞥した陳索は、右手をひらりと返す。

 

「――射て」


 貴公子の右手が下がると同時に、夜気を引っ切ってするどい音が走った。


***


(これで終わりか――――)


 避けがたい死を前にして、怜の心は不思議と穏やかだった。

 あるいは、自分はとうの昔に死んでいたのかもしれない。

 二年前のあの夜、しん夫人や明蓮めいれんとともに生命を落としていたなら、きっと悔いはなかっただろう。

 残酷な真実を知ることもなく、夢うつつのまま生を終えることが出来た……。

 そんな幸せな最期は、しかし、いまとなってはどれだけ望んでもけっして手に入らないものだ。

 

(まだ死ねるかよ……夏凛あいつを置いて、こんなところで……)

 

 怜は荒い呼吸を整えながら、長剣を構えなおす。

 勝ち目などないことは分かりきっている。

 敵の攻撃をみごとに捌き、あるいは一髪の差で躱しながら、怜はじりじりと追い詰められている。

 ただでさえ体力には限りがあるというのに、少女ひとりを抱えているとなれば、自滅を早めているのとおなじことだ。


 手足は鉛と化したように重く感じられる。

 視界は砂粒を散りばめたようにざらつき、耳の奥で血が渦巻く音がやけに喧しい。

 それでも、怜は動き続けている。

 すべては生きるために。

 この身体が動くかぎり、諦めるという選択肢はないのだ。


「ぐわっ!!」


 ふいに絶叫が上がったのはその瞬間だった。

 すばやく視線を走らせれば、ちょうど敵兵が倒れ込む姿が目に留まった。

 怜が息を呑んだのは、その胸に箆深のぶかに突き立った征矢を認めたためだ。

 方向からいって、味方に誤射されたのではないことは自明だった。


 ならば、いったい誰が矢を――。

 考えを巡らせるまえに、怜の耳朶をするどい風切音が叩いていた。


「ふ……伏せろっ!!」


 誰かが叫んだのと、あたりに矢の雨が降り注いだのは、ほとんど同時だった。

 その直前、怜はほとんど無意識に庭木の陰に身を潜めていた。

 一方、ろくに遮蔽物もない場所で射撃に晒された敵兵は、なすすべもなく倒れていく。

 やがて矢の雨が熄んだころには、夜の庭園にはおびただしい死体だけが残されていた。


「くそ、いったい全体どうなってやがるんだ――――」


 呆気にとられたような怜の呟きは、直後に生じた時ならぬ騒音にかき消された。

 空気が爆ぜるようなけたたましい音には、たしかに聞き覚えがある。

 それは戦場で用いられる軍鼓ぐんこの音だ。


 怜ははっと背後を振り返って、おもわず息を呑んでいた。

 塀の上には、弓を構えた兵士たちの姿がみえる。

 彼らの背に翩翻へんぽんとはためくのは、見紛うはずもない沙蘭国軍の軍旗。

 そのなかでもひときわ目を引く白地に『王』の一字が黒く染め抜かれた旗は、王扶建おうふけんの牙門旗(将軍の旗印)であった。


「親父……!?」


 ふたたび軍鼓の音が響きわたった。

 先ほどとは異なり、今度は三・三・一の拍子リズムを取っている。

 その音色の意味するところは、怜もよく知悉している。


 全軍突撃――

 王扶建に率いられた兵士たちは、号令のもと堰を切ったように屋敷内へと突入していった。

  

***


「そんなバカな……!!」


 一度は血色を取り戻した陳索の顔色は、無惨なほどに青ざめている。

 ほんの少し前、たしかに陳索は兵士たちに一斉射撃を命じたはずだった。

 ところが、実際に矢が飛来したのは、まったく予想外の方向からだった。

 陳索は傍らの兵士の胸ぐらを掴むと、射殺さんばかりの視線を向ける。

 

「あれはなんだ!? どこの軍勢だ!?」

「さ、沙蘭国軍です!! 間違いありません!!」

「なぜ沙蘭国軍が私たちに攻撃を仕掛けてくるのだ!!」


 言いさして、陳索ははたと我に返ったように後じさっていた。

 

えん王妃の差し金か……おのれ、小癪な真似を!! 私にこんなことをして、ただで済むと思っているのか!?」


 怒りに肩を震わせながら、陳索は夏凛の顎を掴む。


「私と一緒に来てもらうぞ!! せめてお前だけでも国許に連れ帰らねば、ここまでの苦労が水の泡に……」


 陳索はそこで言葉を切った。

 というよりは、それ以上何も言えなかったというべきであろう。

 背後で悲鳴が立て続けに上がるや、陳索の背筋は恐怖に凍りついていた。


「なにごとだ――」


 陳索は顔を引きつらせながら振り返る。

 その目交まなかいに映じたのは、夜闇にあってなおあざやかな銀と金の光芒だ。

 怜。

 かつて白面将軍と呼ばれた青年は、敵兵を斬り捨てながら、まっすぐに陳索のほうへと駆けてくる。

 沙蘭国軍の射撃によって敵陣に生じたわずかな隙を衝いて、一気に夏凛を取り戻そうというのだ。

 

「く、来るなあっ!! 誰でもいい、あの蛮人を止めろ!! 奴を殺せえっ!!」


 秀麗な顔貌を恐怖に歪めた陳索は、上ずった声で叫ぶ。


 そのあいだにも、怜は人ひとりを抱えているとは思えないほどの速度で庭園を駆けてくる。

 青い輝きが闇に浮かび上がる。

 母譲りの藍青色ラピスラズリの瞳を彩るのは、何人なんぴとも戦慄させずにはおかない凄まじい殺意だった。

 だん、と烈しく地を蹴った怜は、陳索めがけて急迫する。


「よお、色男の旦那――夏凛がずいぶん世話になったな」


 怜の醸し出す鬼気に圧倒されたのか、周囲の兵士たちは剣を構えたまま身じろぎもしない。

 陳索は恐怖のあまり歯の根が合わないのを必死に隠しながら、怜の前に進み出る。

 

「やめろ……!! 私は昴帝国の大鴻臚だぞ!!」

「それがどうした?」

「国家の要人が殺されるようなことがあれば、皇帝陛下が黙っているはずがない!! そうだ、こんな沙蘭国くになど一瞬で滅ぼされるぞ!!」

「それで、俺にどうしてほしいんだ、お偉い大鴻臚サマよ」

「私たちを見逃せ。そうすれば、ここは穏便に事を収めてやる。これまでの無礼も許してやるぞ!!」


 怜は無言のまま陳索を見つめたあと、ふっと口元を緩めた。


「安心しな。殺しやしねえよ」

「う、うむ!! それが賢明な判断だ!!」

「てめえのような見下げ果てたカス野郎、殺す価値もねえ。だがな、落とし前はつけさせてもらうぜ」


 言い終わるが早いか、陳索の視界をひとすじ銀光が流れた。

 刹那、陳索は顔に氷を当てられたような奇妙な感覚をおぼえていた。

 それが激しい痛みへと変わるのにさほどの時間はかからなかった。

 

「あ……?」


 おもわず顔に手を当てると、ぬるりとした感触があった。

 手指に付着した血を見て、陳索はようやく自分が斬りつけられたことに気づいた。

 怜が放った一閃は、陳索の右の眉間から左の顎先までを袈裟懸けに断ち割っていたのだった。

 

「な……え!? うわあああっ!!」

「生命も取らねえ。眼も潰さねえ。我ながら甘すぎるくらいだが、これで勘弁してやる」

「わ、私の……!! 私の美しい顔にいぃ、傷があぁ……っ!!」


 恥も外聞もなく泣きわめく陳索には目もくれず、怜は夏凛を捕らえている兵士たちを睨めつける。

 

「おい、さっさと凛を放せ。さもねえと、このお坊ちゃんが死ぬぞ」


 兵士たちは互いに顔を見合わせると、夏凛を羽交い締めにしていた腕を解いた。

 夏凛は口の中に詰め込まれていた布を吐き出すと、けほけほと咳き込みながら怜のもとへ駆けていく。

 

「怜!! 私、ごめんなさい――」

「なにも言わなくていい。おまえの気持ちは分かってるつもりだ」

「本当によかった……二人とも、生きててくれて……」


 二人の会話に反応したように、薛の頭がぴくりと動いた。

 夏凛はそれに気づくや、怜に抱えられた身体を奪い取るように抱きしめていた。

 

「薛、気がついたの!?」


 虚ろに霞んでいた少女の瞳には、かそけき光が宿っている。

 はかなく頼りない兆候は、しかし、意志の存在を確信させるには十分だった。

 薛の唇はかすかに開き、何事かを紡ごうとしている。


「ひ……め……さま……?」

「薛、私はここにいるわ!! もうなにも心配しなくていいの!!」

「わたし……おそばに……いられなくて……」

「分かってる。私のほうこそごめんなさい。でも、もう薛を辛い目に遭わせたりしないわ。これからはずっと一緒よ」


 夏凛は両目いっぱいに涙を溜めながら、一語一語噛みしめるように薛に語りかける。

 あの夜から今日まで、この二年のあいだ一日たりとも薛のことを忘れたことはない。

 幼いころから姉妹のように育ってきた姫君と従者は、幾多の苦難を乗り越えて、ようやく再会を果たしたのだった。

 心からの喜びに打ち震える夏凛は、自分に向けられた邪悪な意志に気づかなかった。


「凛、伏せろっ!!」


 叫ぶや、怜は夏凛をおもいきり突き飛ばしていた。

 ひゅっと風を裂く音が生じたのは、それから一秒と経たぬうちだった。

 もしあのまま立っていたなら、夏凛は飛来した矢に胸を貫かれていたはずであった。


 驚きとともに顔を上げれば、顔じゅう血に染めた陳索と視線がかち合った。

 悪鬼の形相に変じた貴公子は、傍らの兵士からあらたな矢が装填された弩を受け取ると、照準を夏凛に合わせる。

 完全に正気を失っているのはあきらかだった。

 

「ふふふ……ははは!! なにが聖天子の血だ。そんなものはもう必要ない。貴様ら、皆殺しにしてやるぞ。まずは夏凛、お前からだ!!」

「やめなさい、陳索!!」

「だまれ!! 私の美しい顔に傷をつけた報いを受けるがいい!!」


 怜はとっさに長剣を向けるが、この距離ではとても間に合わない。

 よしんば陳索を仕留めたところで、発射された矢はどうにもならないのだ。


「死ね、夏凛……そして永遠に私のものになれ!!」


 陳索は血染めの顔に狂気の笑みを浮かべると、引き金に指をかける。

 夏凛がまぶたを閉じようとしなかったのは、怖気づいた姿を見せれば陳索を喜ばせると思ったからだ。

 たとえ殺されることになったとしても、自分に向けられた悪意には、最期まで逃げずに立ち向かう。

 夏凛の気丈な瞳に真っ向から見据えられて、陳索の殺意はますます燃え上がったようであった。


 陳索はあらんかぎりの憎悪を込めて引き金を絞る。

 同時に発条バネ仕掛けの機構が駆動し、何倍にも増幅された機械力が太い矢を押し出す。

 殺意を帯びた矢は、今度こそ夏凛の心臓を貫くはずであった。


 刹那、小柄な人影が視界を遮った。

 夜気を震わせたのは、空気を切り裂く乾いた音ではなく、肉を裂くなまなましい音だ。

 夏凛はほとんど反射的に自分のほうに倒れ込んだ身体を抱きとめていた。

 胸から矢を生やした少女は、夏凛の腕のなかで安堵の微笑みを浮かべている。

 夏凛は喉を震わせながら、いまにも消え入りそうな声で呟いた。


「薛……そんな、うそ――――」

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