第97話 旅立(二)

 玉座の間は水を打ったように静まりかえっていた。


 馬粛ばしゅく姜嘉きょうかは、どちらも固唾を呑んでえん王妃を見つめている。

 まがりなりにも主君の正室に対して逮捕という言葉を用いた以上、二人にとっても退路は断たれたも同然だった。

 このうえは袁王妃を弾劾し、沙蘭国王・蘭逸らんいつの名を騙って偽勅を発した罪状によって処刑に追い込まねば、殺されるのは自分たちなのだ。


 ひりつくような緊張感のなか、重苦しい沈黙が場を支配していく。

 やがて、意を決したように顔を上げたのは馬粛だった。

 

「王妃さまにいまいちど申し上げる。国王陛下へのお目通り、なにとぞお許し願いたい。もし陛下がご健在であるのなら、そのあとで我らの非礼をいかようにも糾問なされるがよろしかろう――」


 挑むような宰相の言葉にも、隻眼の王妃は眉ひとつ動かさず、ふっと短く息を吐いただけだ。

 袁王妃は馬粛と姜嘉をそれぞれ一瞥すると、

 

「卿らは何度同じことを言わせるつもりじゃ」


 心底から呆れ返ったふうに言ったのだった。


「納得のいくご返答を頂けるまでは、何度でも申し上げる。我らはそのためにこのような夜更けに参内さんだいしたのです」

「半年近くも王宮から遠ざかっていた者の言葉とも思えんの。卿らが誰に使嗾されて急に張り切りだしたのか、ひとつ当ててみようかえ?」

「いかに王妃といえども、それ以上の愚弄は看過しかねますぞ――」


 おもわず気色ばんだ姜嘉の袖を、馬粛は何も言わずに引いた。

 状況は相変わらず膠着しているようにみえるが、実際には袁王妃が追い詰められていることにはちがいないのだ。

 国王との面会を許さないのであれば、そのことが王妃を法の庭に引き出す根拠になる。

 すでに勝利は見えているからこそ、焦りは禁物なのだ。

 王妃の挑発にまんまと乗り、うかつに口を滑らせでもすれば、二人のここまでの準備は水泡に帰すはずであった。

 

「残念ですが、お互いにこれ以上問答を続けたところで得るものはございますまい」


 馬粛は居住まいを正すと、いかにも憂慮しているような口調で言った。


「袁王妃。あなたが国王陛下のご容態を故意に秘匿している疑いに関しては、後日正式に追及させていただく――――」


 これで高慢な女狐に引導を渡してやれる。

 喜色をけっしておもてに出すまいと懸命にこらえ、あくまで厳かに告げようとした馬粛の努力は、しかしついに報われなかった。

 廊下の方角で生じた時ならぬ喧騒が、宰相の言葉をかき消したのである。

 

「急報!! 沙京さけい市中にてが発生しております!!」


 玉座の間に足を踏み入れた近衛兵は、伝令の言葉を大音声だいおんじょうで反復した。

 戦闘。短い報告に含まれたひどく剣呑な言葉に、その場の全員が目を見開いたのも無理からぬことだ。

 ただひとり、袁王妃だけがあいも変わらず泰然と構えている。


「戦闘だと? いったいどういうことだ!?」


 姜嘉は血相を変えて近衛兵に問うた。

 王都の治安維持を担う御史大夫としては、市中での騒擾は捨て置けるものではない。

 まして戦闘ともなれば、たんなる酔っ払いの喧嘩騒ぎとはわけが違う。

 国王より沙蘭国の警察権を預かる者として、姜嘉が精確な状況を把握したいと考えるのは当然でもあった。


「戦闘が起こっている場所は? 誰が戦っている!?」

「貴人の屋敷が密集している一帯です。戦っているのは……」

「はっきり言わんか!!」


 玉座の間ということも忘れて声を荒げた姜嘉に、近衛兵がようよう言葉を継ごうとしたときだった。

 袁王妃はやおら席を立つと、馬粛と姜嘉のほうへと歩きだしていた。


「言わずとも分かっておる。一方は王扶建おうふけんの部隊であろう?」


 あくまでそっけない袁王妃の問いかけに、近衛兵は我知らず肯んじていた。

 にわかに色を失ったのは馬粛と姜嘉だ。

 王扶建といえば、彼らにとって不倶戴天の政敵である。

 有事クーデターの際には彼らの最大の障害と目されていた沙蘭国軍の総司令官が、なにゆえこんな夜更けに兵を動かしているのか。

 それだけではない。

 王扶建が戦っている相手とは、もしや……。

 袁王妃を見つめる馬粛の両眼を染めたのは、隠しようもない猜疑と敵愾の炎だった。


「袁王妃、ご説明ください。なぜ王扶建が独断で軍を動かしているのです?」

「独断ではない。扶建にはかねてより密命を言い渡してある。あやつはそれに従ったまでのことであろう」

「密命ですと?」

「卿らの手勢に不審な動きを認めたときは、国軍を率いて鎮圧に当たるようにと言い渡しておいたのじゃ」


 袁王妃はこともなげに言って、思い出したように一言を付け足した。

 

「あの男はけっして自分からは動かぬ。つまり、先に兵を動かしたのはということになろうの」

「バカな!! そのような根も葉もない妄言ぼうげんを信じると思うのか!? だいいち、我々はあなたの目の前にいるというのに、どうして兵を動かせるというのか!!」

「卿らにそのつもりはなくとも、が意図せず兵を動かすということもあるのではないかえ――」


 袁王妃の言葉に、馬粛と姜嘉はおもわず顔を見合わせていた。

 二人の脳裏にほとんど同時に浮かんだのは、沙京にひそかに逗留しているボウ帝国の大鴻臚・陳索ちんさくの顔だ。


 二人が王宮に赴いているあいだ、それぞれの家族と部下には、陳索の要求には能うかぎり従うように言い含めてある。

 要求と言っても、せいぜい酒肴と夜伽にあてがう美女を欲しがる程度であろうと高をくくっていたのである。それであの男の歓心を買うことが出来るなら、いくらでもくれてやればよいと、そう気安く考えていたのだ。

 だが……もし、陳索が何らかの理由で子飼いの戦力を動かすように要請したとするならどうか。

 馬粛と姜嘉が直接対応することが出来たならいざしらず、彼らの家族や部下に陳索の求めを拒むことはまず不可能だろう。

 そうしてまんまと私兵たちが市中に出向いたところを、王扶建の手の者に捕捉され、かの将軍に挙兵の大義名分を与えてしまったとするならば――。


 宰相と御史大夫の顔からはみるみる血の気が引き、ほとんど気死しかかっているありさまだった。

 国王の勅許を得た場合をのぞいて、何人なんぴとも王都に軍勢を入れることは許されていないのである。

 一方で国軍がを鎮圧するのは正当な任務の範疇であり、どのような理路を用いても王扶建を問責することは出来そうにない。


――あの軽忽な若造め、なんということをしでかしてくれた……。


 二人揃って心中で陳索に毒づいてみたところで、事態が好転する道理もない。

 すでに賽は投げられてしまったのだ。それも、馬粛と姜嘉にとって最も望ましくない形で。

 せめて兵だけはけっして動かすなと言いおけば、あるいは最悪の事態は回避出来たかもしれない。

 どれほど悔やんでも、もはや後の祭りであった。

 

「ずいぶんと顔色が悪いようだの。それとも、卿らにはなんぞ心当たりでもあるのかや?」


 意気阻喪した二人にむかって、袁王妃は嫣然と微笑みかける。

 首筋に見えない刃を当てられたみたいに、馬粛と姜嘉はただ俯くばかりだった。

 ろくな準備もなしに王扶建の軍団と衝突したなら、万にひとつも二人の配下に勝ち目はない。

 仮にこの場をうまく取り繕ったところで、いずれ真相は白日の下に晒されるだろう。

 

「袁王妃、これは私どもの……」

「『市中でみだりに軍を動かしたる者は主君への叛逆と見做し、三族ことごとく磔刑たっけいに処す』――沙蘭国の法ではそうなっておったはずだの? どれほど高貴な家柄であろうと例外はなかったはずじゃ」

「左様にございます……」

 

 床に額づいたまま、姜嘉は震える声で答えた。

 袁王妃を罪人として訴追するつもりが、いまや自分たちが法の裁きを受ける立場になろうとは。

 これまで警察の長として数多あまたの罪人を逮捕し、刑場へと送ってきた姜嘉だからこそ、おのれと一族にどんな運命が降りかかるかもはっきりと分かっている。

 そして、それは宰相である馬粛もおなじであるはずだった。


「よい機会じゃ。どうせいつまでも隠し通せぬことゆえ、わらわもひとつ罪を白状しておくとしよう」

「は……?」

「この半年というもの、国王陛下は御病気おんいたつきによってずっとお眠りになっておられる。そのあいだ政務を執り行い、陛下の御名のもとに勅令を発給してきたのはわらわよ」


 悪びれる素振りもなく言ってのけた袁王妃に、馬粛と姜嘉が絶句したのも当然だった。

 ようやく我に返った二人の顔に、ふたたび血の気が戻っていく。


「王妃、あなたはご自分がなにをなさったのか分かっておいでか!?」

「国法を犯したのは卿らもおなじこと。つまり、我らはともに大罪人ということじゃ。そうであろう?」

「詭弁だ!! それとこれとは話が違いますぞ!!」

「ならば、お互いに罪を告発しあい、四柱家のうち三家までもを根絶やしにするかえ。卿らがそのように望むなら、わらわは付き合ってもよい」


 王妃の言葉に偽りはなかった。

 かりに袁・馬・姜の三氏族が互いを滅ぼしあったなら、沙蘭国はかつてない混乱に陥ることはまちがいない。

 そもそも馬粛と姜嘉が昴帝国への恭順を選んだのは、大国と結ぶことで祖国を末永く存続させるためなのである。

 先祖から受け継いだ家門を滅ぼし、引いては沙蘭国そのものを滅亡に追いやることは、二人にとってもむろん望むところではないのだ。


「大国を恐れるあまりみずから膝を屈した愚昧さは許しがたいが、卿らも国王陛下の股肱であることに変わりはない。我らが潰しあったところで、陛下はけっしてお喜びにはならぬ」

「我らにどうせよと……?」

「今後は昴帝国との一切の繋がりを断ち、それぞれ然るべき者に跡目を譲って隠居することじゃ。さすれば馬・姜の両氏族の罪は問わぬ」

「ならば王妃、あなたの罪はどう贖うつもりか。まさかご自分だけが罪を逃れられると考えておられる訳ではありますまい」

「むろん――蘭苒らんぜんの登極を見届けたあとは、わらわも政治まつりごとより退くつもりじゃ。それが国王陛下と沙蘭国の有司百官ゆうしひゃっかんを欺いたけじめよ」


 袁王妃はふたたびみずからの御座に腰を下ろすと、長い溜息をついた。

 近い将来、沙蘭国はかつてないほどの国難に見舞われるだろう。

 そのような時勢に政治の第一線から退くことの意味は、ほかならぬ袁王妃自身が誰よりもよく理解している。


 それでも――と、袁王妃はひとつしかない瞼をそっと閉じる。

 未曾有の難局に臨むなら、なおさら古い血は一掃しなければならない。

 乳飲み子のころから手元において養育してきた蘭苒は、いまや国王たるに相応しい才知と器量を備えた青年へと成長している。数多い蘭逸の子供たちのなかでも、彼以上に跡継ぎにふさわしい人物はほかにいないはずだった。


 とはいえ、そんな蘭苒にも懸念事項は二つほどある。

 まずひとつには、まだ若く経験不足であるがゆえに、先代から仕える老臣たちの意見に抗しきれないこと。

 そして、もうひとつは、育ての母であり政治の師でもある袁王妃の存在そのものだ。

 この世に存在するさまざまな職業のなかで、一国の王ほど孤独な生業なりわいはない。

 裏を返せば、他者に依存しているかぎり、どれほどすぐれた稟質ひんしつをもつ人物も真の王にはなりえないということだ。


(我らの時代は終わった。これより先は、あの子らの時代よ)

  

 袁王妃は心中でごちて、椅子の背に身体を預ける。

 長い攻防を制した女の眼裏まなうらに浮かんだのは、いまは亡き親友の面影を受け継いだ少女――夏凛の顔だった。

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