第77話 帰郷(四)
闇が動いている――。
夏凛と怜がそのように感じたのは、むろん錯覚にすぎない。
黒鉄色の甲冑に身を包んだ騎手は、見る者にそのような錯覚を与えるだけの鬼気を全身から発散させながら近づいてくる。
人馬は徐々に速度を落とすと、二人からやや離れた場所で停止した。
首筋まで覆う兜を被っているため、騎手の素顔は見えない。
怜が目を
「……何者だ?」
怜は長剣に手をかけつつ、低い声で誰何する。
覆面の騎手は答えない。
闇が凝結したような人馬は、精巧な黒い塑像と化したようであった。
重い沈黙を破って、怜はふたたび問いかける。
「答えたくないなら、べつに答えなくてもいい。てめえの狙いはそこの娘だろう?」
騎手はやはり無言のまま、ゆるゆると
予想もしていなかった反応に面食らった様子の怜に、馬上から錆びた声が投げかけられた。
「その御方だけではない」
「だけではない? 言っている意味がよく分からねえな」
「私はあなたがたを迎えに来たのです」
黒い騎手は怜と夏凛に交互に視線を向けると、なおも坦々と続ける。
「どうかご同行を願いたい。夏凛殿下。そして、
騎手がその言葉を口にしたとたん、怜は
傍らで呆然と立ち尽くしていた夏凛は、おそるおそる怜を見やる。
自分の名前を知っていたこと以上に、聞き慣れない名前で怜を呼んだことのほうが気がかりだった。
国王に取り次いでくれるという
「もしかして、それが怜の本当の……」
怜は黙したまま、騎手を睨めつけている。
血がにじむほどに唇を噛み締めた怜は、訥々と言葉を絞り出す。
「てめえ、まさか……」
「お二人とも、私と一緒に来ていただけますか。
「あのくそババアの差し金か。こんなところまでわざわざご苦労なことだが、あいつの命令ならなおさら従うつもりはねえ」
怜は長剣を抜き放つと、剣尖を騎手に突きつける。
「よく聞け、使いっ走り野郎。いますぐ沙京に引っ返して
「夏凛殿はどうなさるおつもりか」
「こいつは俺が責任を持って沙京に連れていく。あの人でなしの手を借りるつもりはない。ノコノコついていったら、俺も凛も始末されるのが関の山だろうからな」
怜は長剣を正眼に構えると、じわじわと間合いを詰めていく。
相手は甲冑をまとい、長戟を携えた騎兵である。
まともに打ち合えば、まず勝ち目はない。
初撃を受け流したうえで内懐に飛び込み、一瞬の隙を衝こうというのだ。
「どうしても否と仰せられるか」
「くどい」
「穏便に済ませたかったが、致し方ない――」
言い終わるが早いか、騎手は長戟を構える。
わずかな弛緩も停滞もない、おもわず見惚れるような挙措であった。
馬上で長柄の武器を扱うことは至難であり、習熟には長年の鍛錬を必要とする。
流れるような身のこなしは、騎手の卓抜した技量を雄弁に物語っていた。
「私も主命を帯びた身。かくなるうえは、力づくでもお連れするまで」
「ぐだぐだ御託を並べてる暇があったらかかってこい」
「いざ、参る――」
馬体が躍動したのは次の瞬間だ。
二条の銀光が交わり、闇中に火花が散った。
長戟の刃を
左右の別を問わず、手綱を握っている側は騎兵にとって最大の死角である。
長柄の武器も、騎手自身の身体と馬体に阻まれて、思うように操ることは出来ない。
怜は長剣を掌のなかでくるりと半回転させ、逆手に構える。
通り過ぎざま、騎手の左脇を抉ろうというのだ。
全身に分厚い甲冑を着込んでいても、腕の可動を確保する都合上、
そこは、主要な神経と血管が密集する人体の急所のひとつでもある。
腕を切り落とすまでは行かなくとも、刃がかすめただけで致命傷を負わせることが出来るはずだった。
逆流れの銀閃が騎手めがけて殺到する。
(もらった――)
怜が心中で快哉を叫んだそのときだった。
凄まじい衝撃が剣刃を弾き飛ばし、その余波を受けた怜も大地に叩きつけられていた。
足元はやわらかな砂とはいえ、衝撃はけっして小さくはない。
身体の痛み以上に怜を打ちのめしたのは、必殺の一撃を躱された驚きだった。
「なにをしやがった……!?」
騎手は馬上で長戟を右手に移すと、何事もなかったみたいにふたたび構えを取る。
あの瞬間、騎手は目にも留まらぬ速さで長戟を左手に持ち替え、後端の
凡百の武人であれば、怜の繰り出した一撃を見切ることさえ出来なかっただろう。
ただでさえ不安定な馬上で瞬時に得物を持ち替え、的確な反撃をおこなう。
げに恐るべきは、そのような離れ業を苦もなくやってのけた騎手の技量であった。
「まだ続けるおつもりか?」
「そっちこそ、この程度で勝ったつもりか? 寝言は寝てからほざけよ。お互いまだまだ手の内を見せちゃいねえだろう」
「勝算のない戦いを続けるとは、白面将軍らしくもない――」
怜を見下ろして、騎手はひとりごちるみたいに呟いた。
「あなたのことはよく存じ上げている。十二歳で初陣を踏んで以来、蛮族との
騎手が語り終わらぬうちに、怜は飛びかかっていた。
長剣と長戟がふたたび交差する。
重さと速さを兼ね備えた一撃をかろうじて受け止めた怜は、血を吐くように叫ぶ。
「それ以上口を開くなよ、おしゃべり野郎……!!」
「夏凛殿下には出自を隠しておられたのか」
「さあな。隠していようといまいと、てめえの知ったことじゃねえ」
「白面将軍――いや、王子季殿。これ以上無益な戦いを続けるのは得策ではないことは、あなたほどの武人なら私に言われるまでもなく理解しているはずだ」
不動を保っていた騎手の身体がぐらりと揺れた。
怜が長戟の柄を掴み取り、無理やりに馬上から引きずり降ろそうとしているのだ。
騎手はすかさず振りほどこうとするが、怜の膂力は外見からは想像もつかないほどに強く、掴まれた長戟は巨石を結び付けられたみたいに動かない。
「あまり時間がないのです。どうかお聞き分けいただきたい」
「てめえの都合なんざ知ったことか」
「どうあっても抵抗するというなら、こちらも手加減は致しません」
「望むところだ――」
刹那、怜はおおきく姿勢を崩していた。
騎手が馬から飛び降り、その動作に合わせて長戟が押し出されるような格好になったためだ。
その場でたたらを踏みつつ長剣を構え直した怜は、下馬した騎手とあらためて対峙する。
「これでめでたくお互い
言いつつ、怜は夏凛に視線を向ける。
夏凛は呆然と立ち尽くしたまま、二人の戦いをじっと見つめている。
うつろに開かれた少女の瞳に揺らぐのは、どこまでも深く暗い夜闇の色であった。
傷ましい姿から目をそらすように、怜は騎手に意識を集中させる。
二人が地を蹴ったのは、ほとんど同時だった。
二つの影が交差するたび、澄んだ金属音が夜空に鳴り渡る。
そのまま数合も打ち合ったところで、二人は示し合わせたみたいに距離を取った。
「お見事……」
騎手はやおら兜に手を伸ばすと、そのまま砂上に放り捨てた。
青みがかったゆたかな長髪がこぼれ、さらさらと夜風に吹き流れていく。
兜の下から現れたのは、凛々しい若武者の面貌であった。
落ち着いた佇まいと声に似合わず、年の頃はまだ二十五、六といったところ。
武人らしい剽悍な面差しを彩るように、ひとすじ朱線が流れた。
怜の剣に額を傷つけられたのだ。兜に守られていたため生命に別状はないが、もし甲冑を身に着けていなければ、脳髄まで切り込まれていたはずであった。
「さすがは白面将軍。しばらく戦場を離れても、腕前はいささかも衰えておられないようだ」
「今日はじめて手合わせした奴がよく言う――」
毒づきながら、怜は右肩に手を当てる。
長戟の刃が掠めた肩口は、あざやかな血の色に染まっている。
騎手がもうすこし力を込めていたなら、右腕は肩から切り落とされていたはずであった。
あふれる血も意に介さず、怜は騎手に呼びかける。
「おまえ、沙州人じゃねえな」
「なぜそう断言出来るのです?」
「おまえの戦い方からは中原の匂いがするからだよ。さっきから繰り出してる技はどれも上品で洗練されすぎてる。沙州の武技はもっと荒削りだからな」
怜は思案するように片目を閉ざす。
「おまえの生まれ故郷を当ててやろうか。俺の見立てが正しければ、中原でも一番古い武術が残っていた鳳苑国の――」
怜はそこで言葉を切った。
騎手が怜の言葉を遮るように長戟を向けたのだ。
「無用の詮索はそこまでにして頂こう」
「人の秘密はべらべらとしゃべっておいて、どの口がそれを言うんだ?」
「時間がないと言ったはずです。そして、あなたがたを連れ帰るのが主君より与えられた役目である以上、どうあっても手ぶらでは帰れません」
「どこまでも諦めの悪い奴だ」
剣呑な雰囲気があたりを覆っていく。
再度の激突に及ぼうかというとき、小柄な影がふいに両者のあいだに割って入った。
「凛⁉」
心底から魂消たような声を発したのは怜だ。
「下がってろ‼ おまえの出る幕じゃねえ!!」
「怜――私、この人と行くわ」
「なにバカなこと言ってやがる。こいつが誰の命令で動いてるのか分かってんのか。ついていけば殺されるぞ‼」
「それでも構わない。どうせ生きていても仕方ないと思っていたんだから。それに……」
言って、夏凛は騎手に視線を向ける。
「聞いていたでしょう。私はあなたについていくわ。だから、これ以上この人を傷つけないで」
「ご協力に感謝します、夏凛殿下」
「やめろ‼ 凛、行くな‼」
飛び出した怜は、勢いもそのままに倒れ伏した。
身体をくの字に折った怜の唇から、苦しげな呻吟が漏れる。
騎手がすばやく投擲した鉄球がみぞおちをしたたかに打ったのだ。
一騎討ちの最中では牽制程度にしか使えないささやかな暗器も、まともに命中すれば大人の男を気絶させるほどの威力を発揮する。
直撃の瞬間に意識を失わなかったのは、頑強な肉体と、それ以上に強靭な精神力の賜物であった。
「てめ……よく……も……」
「死にはしない。すこし眠っていてもらうだけです」
「くそ……」
怜はがっくりとうなだれると、それきり動かなくなった。
とうとう気絶したのだ。
騎手は夏凛に背を向けたまま、誰にともなく呟いた。
「子季殿を助けたのですね」
「なんの話?」
「あのまま戦いを続ければ、彼が死ぬと見抜いておられたのでしょう。もっとも、私も手足の何本かは失っていたでしょうが……」
夏凛は答えなかった。
真一文字に唇を結んだまま、じっと夜空を見上げている。
今夜一晩のうちに、あまりにも多くの出来事が過ぎ去っていった。
父の過去――
怜の正体――
そして、いま、得体のしれない男の手で沙京にいる王妃のもとへ連行されようとしている。
怜の言っていたとおり、これから殺されるのだとしても、どこか他人事のように思われてならなかった。
夏凛の心は、眼前に横たわる涸れた川のように乾ききっている。
希望も悲しみも怒りも、すっかり心から欠け落ちてしまった。
そんな自分自身を憐れみ嘆くことさえ、いまの夏凛には出来そうにない。
怜を死なせたくない――涸れ果てた心をよぎった想いも、蜃気楼のようにはかなく消えていった。
「むこうに馬車が待たせてあります。どうかお急ぎを。あまりこの場所に長居をしては、奴らに見つかるおそれがあります」
奴らとは、いったい誰のことを言っているのだろう。
そして、もし見つかればどうなるというのか。
疑問は次から次へと浮かんでも、あえて問いつめる気にはなれなかった。
促されるまま、夏凛は涸川に沿ってとぼとぼと歩き出した。
騎手は気を失ったままの怜を馬の背に載せると、周囲を警戒しながら夏凛を先導していく。
ほどなくして、騎手は思い出したように夏凛のほうを振り返ると、ふっと相好を崩した。
「申し遅れました。私は
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