第76話 帰郷(三)

 橙色の街明かりが遠くに揺れていた。

 ぬるい夜風が吹き渡るたび、さらさらと砂の流れる音が聞こえる。

 楼泉ろうせんの町外れにある河原である。

 河原とはいうものの、いくら目を凝らしても水面はどこにも見当たらない。どれほど耳を澄ましたところで、せせらぎが聴こえることもない。

 周囲の地形に比べてわずかに低くなっているのは、干上がりきった涸川ワジであった。


 平べったい岩に腰掛けた夏凛は、何をするでもなく、水のない川をじっと見つめている。

 夜の街を無我夢中で駆け抜けた少女は、ふと気づいたときにはこの場所に辿り着いていた。

 周囲には人の気配もなく、薄闇に包まれた河原はしんと静まり返っている。市中の喧騒も熱気も、ここではまるで別世界の出来事のように感じられる。


 夏凛は膝を抱いたまま、まるで石像と化したみたいに身じろぎもしない。

 夜風が黒髪を乱しても、細かな砂粒に頬を打たれても、まるで意に介していないようであった。

 やがて陰陰と夜闇に流れはじめたのは、すすり泣く声だった。

 両膝に顔を押し付けたまま、夏凛は言葉にならない嗚咽を漏らしている。

 この場所であれば、あるいは人目をはばからずに号泣することも出来るだろう。

 それでも、あまりにも大きすぎる悲しみは、感情の赴くままに哭泣することさえ許してはくれないのだ。

 やり場のない感情は、少女の胸のなかで暴れ狂い、心身を仮借なく責め苛んでいる。


(お父様――――)


 繰り返し眼裏まなうらをよぎるのは、亡き父の面影。

 何度涙に洗われても、懐かしい姿が消えることはない。

 あの頃と変わらない温かいまなざしが、夏凛をいっそう苦しめる。


(お父様、どうして……)


 幻に問いかけてみたところで、答えが返ってくるはずもない。

 かつて父は沙蘭国さらんこくを武力で恫喝し、姫を強引に奪い取っていったという。

 あの老人がことさらに嘘をついたとも思えない。すくなくとも沙蘭国の人々にとってはまぎれもない事実であるはずだった。


 王室の婚姻は外交の一部であり、当事者の意向が顧みられないことは、夏凛もむろん承知している。

 それでも、両親は幸せな夫婦だったと信じて疑わなかった。

 王妃として国王の寵愛を一身に受け、三人の娘を生んだ母は、短くとも幸多い人生を送ったはずだと。

 それが何の根拠もない幻想であったことを、夏凛は母の故郷に来てはじめて思い知らされたのだった。

 祖国を救うためにみずから成夏国せいかこくに赴き、憎むべき男の妻となった母は、どんな思いで日々を過ごしていたのか。

 天上の楽園のようだった王宮での暮らしも、母にとってはこの世の地獄にほかならなかったのではないか。


 それだけではない。

 おなじ女として、夏凛には痛いほどよく分かる。

 自分をモノのように求め、暴力によって奪い取っていった、忌まわしい男の子供……。

 いくら血を分けた存在であったとしても、そんなものを愛せるはずもない。

 王宮にいたころ、周囲の大人たちは事あるごとに夏凛に語ったものだった。

 夏凛と姉姫たちの誕生は、王族だけでなく、成夏国じゅうの人々に言祝がれた。玉のように美しい姫君がお生まれになったことは、それほど人々を喜ばせたのだ――と。

 多少の誇張はあるにせよ、彼らが話したことは事実だろう。

 それでも、最も身近で誕生を祝福してくれるはずだった人は、真逆の感情を抱いていたのではないか。

 母の心を推し量ろうとすればするほど、胸は苦しくなる。


 この身体――

 そして、自分という存在そのものも――


 いまの夏凛には、ひどく穢らわしく、厭わしいものに思えてならなかった。


(このまま消えてしまいたい……) 


 背後で複数の足音が生じたのはそのときだった。

 ゆるゆると振り返った夏凛の視界に飛び込んできたのは、六人の男たちだった。

 男たちは気配を殺して近づいてきたらしい。

 声をかけたのは、もう気づかれても問題ないと判断したためだろう。


「よお、お嬢ちゃん、こんなところで何をやってるんだい?」


 一行の頭目リーダーらしい男が馴れ馴れしい口調で語りかける。

 豹の毛皮をあしらった派手派手しい上衣に、見せびらかすようにたすき掛けにした長剣。

 やにさがった顔には、喧嘩でつけられたのだろう深い傷痕が走っている。

 どこからどう見ても、堅気の人間ではない。

 背後に控えている男たちも、頭目に劣らず凶悪な気を発散させている。


「こんな寂れたところにひとりでいちゃ危ないぜえ」

にイタズラされちまったら大変だよお?」

「まだガキだが、よく見りゃとびきりの上玉だ。こりゃめっけもんですぜ――」


 男たちは夏凛を品定めするみたいに矯めつ眇めつ、口々に下卑た言葉を投げかける。


「こ、来ないで……!!」


 夏凛は後じさろうとして、そのまま尻餅をついた。

 やわらかい砂に足を取られ、姿勢を立て直そうにも思うように身体が動かない。

 とっさに背中に手を伸ばして、夏凛はおもわず「あ……」と声を漏らした。

 長剣はずっと怜に預けたままだ。

 そんなことさえ忘れてしまうほどに気が動転している。


「どこに逃げようってんだよ? 仲良くしようや、なあ?」


 気づけば、四囲を男たちに取り囲まれていた。

 逃げ出そうにも、少女の膂力で太刀打ち出来る相手ではない。

 そうするあいだにも、男たちはじわじわと包囲の輪を狭めつつある。

 頭目がくいと顎を動かすと、男のひとりが夏凛の手首を力任せに掴み取っていた。


「その手を放しなさい……!!」

「活きがいいのは結構だがな。こんな人気ひとけのねえ場所じゃ、泣いても叫んでも誰も助けにきちゃくれねえよ」

「やめて!! それ以上私に近づかないで!!」

「だいたい、年頃の娘がこんな時分にひとりでいるほうが悪いんだ。お嬢ちゃんだって本当は期待してたんだろ?」


 違いねえ、と男たちのあいだで下卑た笑いが起こった。


(いやだ……こんな奴らに……)


 夏凛はなおも激しく抵抗しようとして、すっと手足の力が抜けていくのを自覚した。

 身体の芯が冷えきっている。戦うための熱が失われている。

 自分の身体が、自分のものでないように感じられる。


 消えてしまいたい――心のなかで、たしかに声が聞こえた。

 以前の自分なら、けっして口にしなかった自分自身への呪いの言葉。


 思い返せば、ここまで辿り着くまでに何もかも失ってしまったのだ。

 薛も、李旺も、もうこの世にはいない。

 父のもうひとつの顔を知ってしまったいまとなっては、もはや成夏国を再興する望みがあるとも思えない。

 鷹徳と梁凱、そして怜の顔が次々に浮かんでは消えていく。

 自分を信じてくれた人を裏切るのはつらい。

 しかし、このまま生き続けることは、それ以上につらい。

 すべてを諦めたように、夏凛は瞼を閉ざしていた。

 

「へっ、ようやくしおらしくなったな。いい子にしてろよ。朝までたっぷり可愛がってやるからな」


 頭目の男が夏凛の襟に手を伸ばし、強引に胸元を押し開こうとしたそのときだった。


「――おい」


 ふいに呼びかけられて、夏凛と男たちは一斉に声のしたほうに顔を向けた。

 見れば、涸川ワジの底にひとりの男が立っている。 

 頭巾をかぶっているために顔は見えないが、その声は聞き間違えるはずもない。

 夏凛がぽつりと呟いた名前を、頭目の胴間声がかき消した。


「なんだ、てめえは? どっから湧いて出やがった?」

「そんなことはどうでもいい――いますぐその娘から離れろ」

「離れろ、だ? これはこれは、どこの御曹司か存じ上げねえが、口の利き方ってもんを親に教わらなかったらしいな。……おい、てめえら」


 頭目は冷えた声で周囲の男たちに命じる。


「そこの世間知らずのお坊ちゃんに礼儀作法を教えてやんな」

バラしちまってもいいんで?」

「躾ってのは難しいもんだ。うっかり加減を間違えちまうこともあるわなあ」


 頭目が冗談めかして言うと、周囲の男たちはどっと笑いの渦に包まれる。

 やがて聞くに堪えない野卑な笑声が熄むと同時に、夜闇に数条の銀光が流れた。

 男たちが一斉に抜剣したのだ。

 どの剣もろくに手入れされていない粗悪品である。

 刃にべっとりと付着した赤黒いシミは、男たちが日常的に人を殺めている証であった。

 殺人に慣れているということは、実戦においてなまじっかな技量よりもはるかに有利に働く。

 

「どうだ? 命乞いをする気になったか?」

「……」

「どのみちもう手遅れだがな。構うことはねえ、やっちまえ!!」


 号令一下、獣じみた奇声を上げて男たちが突進する。

 ごろつきなりに集団戦には慣れているらしい。

 すばやく散開し、三方から怜を挟み撃ちにしようという魂胆だ。


「しゃあッ!!」


 いの一番に飛びかかった男は、そのままうつ伏せに倒れた。

 頭頂から股間まで正中線を一刀のもとに断ち割られ、即死したのである。

 斬られた当事者は言うまでもなく、男たちの誰ひとりとして、怜の剣を見切ることは出来なかった。

 まさしく神速の抜き打ちであった。

 

「この野郎、ナメやがって――」


 剣を構えて二人の男が猛進する。

 刹那、立て続けにふたつ、むくつけき髭面が夜空に舞った。

 盛大な血柱を噴き上げる首なし死体には目もくれず、怜は残った男たちのあいだに身を躍らせる。

 何が起こったかも分からないまま、ごろつきどもは為す術もなく斬り倒されていく。

 三分とかからず男たちを片付けた怜は、すっかり顔色を失った頭目に剣尖を向ける。


「てめえ、何者だ……!?」

「もう一度だけ言う。さっさとその娘を解放しろ」

「そ、それ以上近づくんじゃねえ!! さもねえと、こいつの首を掻っ切るぞ!!」


 頭目は夏凛を無理やり立ち上がらせると、首筋に剣刃を当てる。

 すこしでも刃を動かせば、少女の柔いはだえは薄絹みたいに引き裂かれるだろう。

 怜は一向に慌てる風もなく、


「忘れ物だぜ」


 吐き捨てるように言って、わずかに足を動かした。

 頭目めがけて丸いものが飛来したのは次の瞬間だった。

 それが何であるか分からないまま、頭目は反射的に身体をのけぞらせる。


「さっきの話を聞いてなかったのか!? 妙な真似しやがると、この娘を殺――」


 ごろん、と地面に重いものが落ちた。

 それが今しがた斬り落とされたばかりの子分の首だと理解して、頭目は我知らず数歩も後じさっていた。

 その隙を逃さず、怜は疾風のごとく駆け出していた。

 はたと我に返った頭目は、夏凛を突き飛ばすと、抜き打ちの一刀を放つ。

 あやまたず怜の首を刎ねていたはずの斬撃は、しかし、頭巾を剥ぎ取るだけに終わった。

 蜂蜜色の髪が夜風にさあっと流れる。

 金糸の髪のあわいから覗くのは、闇中にあってなお炯々と輝く藍青色ラピスラズリの双眸。

 それが頭目がこの世で目にした最後の光景になった。


「……おい」


 ぴくりとも動かなくなった頭目に背を向けた怜は、夏凛に近づいていく。

 ためらいがちに顔を上げた夏凛に、怜は氷の視線を向けた。


「怜、あの、私……」

「なぜひとりで出ていった。よく知りもしない土地で、夜更けにひとりでフラフラ出歩くのがどういうことか分かってんのか。ああいう連中に捕まった女はさんざんにされた挙げ句、最後は殺されて終わりだ」

「それは――」

「おまえ、何のために沙蘭国まで来たか忘れたのか? どういうつもりか知らねえが、二度とバカな真似はするな!!」


 憤然と踵を返した怜の背中に向かって、夏凛はひとりごちるみたいに言った。


「……助けてくれなくてもよかった」

「なに?」

「助けてくれだなんて、私、頼んでない。あのまま見捨ててくれてかまわなかった。私なんて、生きてても仕方ないもの」

「凛、てめえ――」


 眦に怒気をみなぎらせて振り返った怜は、それきり二の句を継げなくなった。

 少女のつぶらな瞳は涙に濡れ、きつく噛み締めた可憐な唇からはうっすらと血が滲んでいる。

 乱れた髪と着衣が、その佇まいをいっそう鬼気迫るものにしている。

 怜は黙然とその場に立ち尽くし、夏凛の次の言葉を待つことしか出来ない。


「怜も本当は知ってたんでしょう」

「何のことだ……?」

「成夏国の王――私のお父様が、沙蘭国の人たちにどう思われてるか。沙蘭国の姫を力ずくで奪った暴君、朱鉄に殺されても仕方のない男だって……」

「その話、だれに聞いた?」

「そんなことはどうでもいい。私の質問に答えて、怜」


 二人のあいだに鉛のような沈黙が降りた。

 蕭々と河原を吹きすぎる夜風は、いつのまにか肌寒いほどの冷気を帯びている。

 夏凛の射るような視線に耐えかねたのか、怜はようやく口を開いた。


「……知っていた」

「どうしていままで黙っていたの? なぜ本当のことを教えてくれなかったの?」

「それをおまえに言ってどうなる。父親が沙州人にどう思われていようと、いまのおまえが頼れるのは沙蘭国王だけだ。俺は何も知らせないまま沙京さけいまで連れて行くつもりだった……」

「ずっと私を騙してたのね」


 夏凛は懐に手を差し込むと、ごそごそと何かを探しはじめる。

 たおやかな指が取り出したのは、琥珀をあしらった首飾りだった。

 眼前に突きつけられた怜は、おもわず息を呑んでいた。


「何のつもりだ、凛?」

「預かっていた首飾りを返すわ。これで私とあなたの繋がりは完全に切れる。私に付き合う義理はもうないはずよ。いままでありがとう――さよなら」

「おい、待て!! 凛!!」


 遠ざかっていく背中に追いすがろうとして、怜はその場ではたと足を止めた。

 乾いた風のなかに剣呑な響きを聴いたためだ。

 それがこちらに近づいてくる馬蹄の音だと気づくまでには、さほどの時間はかからなかった。

 涸川を遡上するように現れたのは、闇よりもなお黒い人馬だった。


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