第78話 追憶(一)

 落日が地平線を染めた。

 天と地の境界あわいははるか彼方で淡くにじみ、ひとつに溶け合って揺らいでいる。

 馬車の側面に開いた格子窓ごしに夏凛の視界を埋めるのは、どこまでも続くような砂の海であった。

 見渡すかぎりの世界は、白と灰色のあいだでたえまなくうつろっている。

 色彩のほかには、どれほど走り続けてもまるで変わり映えのしない単調な景色を、夏凛は飽かず眺めているのだった。


 楼泉ろうせんの城市を後にして、すでに一昼夜。

 司馬準しばじゅんによって半ば強引に馬車に押し込められた夏凛と怜は、どちらも固く口を閉ざしたまま、荷台の片隅でじっと身じろぎもせずにいる。

 水と食料はあらかじめ車内に用意されていたが、二人とも水のほかには何も口にしていない。

 熱暑による喉の渇きこそ覚えたが、不思議と空腹感はなかった。

 それは極度の緊張のためというよりも、摂食という生存のために必要不可欠な営みさえ忘れてしまったようであった。


 二人の乗っている馬車の前後には、楼泉を出た直後から二台の馬車がつかず離れずの距離を保って走行している。

 砂漠を旅する隊商キャラバンに偽装しているのだ。

 幌に覆われた荷台には、沙蘭国の兵士たちが乗り込んでいるのだろう。

 たんに夏凛と怜の逃亡を阻止するだけであれば、これほど厳重な警備は必要ない。

 に備えていることはあきらかだった。

 それでも、御者台にいる司馬準にわざわざ尋ねる気にはなれなかった。


 しばらく走るうちに、闇の色がいちだんと濃くなった。

 ふと車窓の外に目を向ければ、銀線のような月光がさやさやと砂漠に降り注いでいる。 


「……自分が何をしたか、本当に分かってるのか」


 俯いたまま、怜はひとりごちるみたいに呟いた。

 夏凛は黙ったまま、じっとその言葉に耳を傾けている。

 いつのまにか馬車は進行方向を変えたようだった。

 車窓から月明かりがひとすじ差し込み、怜の蜂蜜色の髪をきらめかせた。

 深い青を湛えた双眸がじっと夏凛を見据えている。

 

「このまま殺されるだろうな。俺も、お前も……」

「なぜ、そう言い切れるの?」

「あの袁王妃ババアが俺たちを生かしておくはずがないからだ」


 怜は吐き捨てるように言うと、長いため息をついた。


「奴の言っていたことはすべて本当だ。俺の本当の名前は王子季おうしき。そして、王扶建おうふけんは、俺の親父だ」

「怜のお父さん……」

「まあな。


 意味ありげに言った怜は、なおもぽつりぽつりと言葉を継いでいく。


「沙京に着いたら、おまえを親父に託そうと思っていた。親父は国王の右腕だからな。王妃に知られずに宮廷に出入りすることも出来る……」

「でも、あの人……司馬準は、自分は国王陛下の食客だと言ってたわ」


 怜の眉がわずかに吊り上がった。

 同時に白皙の面貌をよぎったのは、まぎれもない驚嘆の色だった。

 その反応を引き起こしたのが国王という言葉なのか、それとも司馬準という名前なのかは、夏凛には判断がつかない。 

 怜は自分自身を落ち着かせるみたいに深く息を吸い込むと、苦々しげに言った。


「あんなおしゃべり野郎の言うことなんぞ信じられるか」

「だけど……」

「奴は王妃の命令で動いてると言った。国王の食客だという話が本当だとしても、命令を下してるのがあのババアなら同じことだ。亭主の部下を顎で使うくらいのことは、あの女狐なら平気でやるだろうさ」

「怜は、王妃様と会ったことがあるの?」

「会ったことがあるどころじゃねえ」


 怜の声には隠しようもない怒気がみなぎっている。

 わずかな逡巡のあと、怜はゆっくりと語りはじめた。

 血を吐くように紡がれる言葉の端々には、やり場のない慚愧の念が渦巻いている。


「あの女は、俺の大事な人を二人も殺しやがったんだ――」


***


 沙蘭国には、国王に次ぐ権力をもつ四つの大氏族が存在する。

 四柱家しちゅうけと呼ばれるそれらの家々は、いずれも初代国王とともにこの地に赴いた四人の家臣を遠祖とし、七百年の長きに渡って沙蘭国の軍事・政治・行政の枢要を担ってきた。

 すなわち、

 

 おう

 えん

 きょう

 


 の四家である。

 なかでも王氏は軍事に秀でた人材を輩出し、代々の当主が沙蘭国軍の総司令官を務めてきた武門の家としてつとに名高い。

 現在の当主である王扶建おうふけんもまた、蛮族との戦いにおいて幾多の武功を挙げ、その名声は中原にまで轟いている。


 王扶健が奇妙な拾いものをしたのは、いまから二十年ほど前のこと――。

 国境くにざかいでの戦を終えて帰路につこうとした王扶建の部隊は、砂漠で立ち往生している商人の一団を発見した。


 沙蘭国において、遠国おんごくの旅人が漂着することはそれほど珍しくない。

 とりわけ中原の珍奇な財宝を求めてやってくる冒険商人たちは、地図さえ持たずに砂漠の踏破を目論むものの、そのほとんどは志半ばであえなく生命を落とすのである。

 王扶建が出会った商隊もそうした例に漏れず、砂漠を越える前に水が底をつき、いましも全滅の危機に瀕していたのだった。

 かろうじて救命に成功したわずかな生存者を連れて、王扶建は沙京に帰還した。

 はるか西の果てからやってきた胡人こじんは、沙蘭国にとって蛮族や諸外国の情勢を得るための貴重な伝手である。遭難者を保護した場合は、尋問のためにいったん王都に連行するのが古来よりの通例であった。


 そうして国王・蘭逸らんいつの御前に引き出された胡人のなかに、ひときわ異彩を放つひとりの女の姿があった。

 まだ十七、八歳の少女である。

 金糸のような蜂蜜色の髪と、蒼穹よりもなお澄みきった藍青色の瞳。

 過酷な漂流生活によって心身ともに衰弱してはいたものの、くっきりとした愛らしい目鼻立ちと、内側から輝くような雪膚は、後宮のいかなる美女も及ぶところではなかった。

 王宮で初めて胡人たちに接見した日から、蘭逸は遠国の少女にひとかたならぬ関心を寄せるようになった。


 漂流者の多くは男であり、若い女が生きたまま漂着することは、沙蘭国の歴史においてもきわめて稀である。

 おそらく行き倒れた商人の妻、あるいは娘であろうと推測されたが、本人が七国の言語をまったく解さないということもあり、尋問を繰り返したところでめぼしい成果は得られなかった。

 言葉が通じないとはいえ、国王が目をかけている女をいつまでも名無しのままにしておくのはいかにも都合が悪い。

 発見されたときがちょうど秋のさかりであったことから、少女は「秋星しゅうせい」と名付けられた。

 さらに国王の指示により、王宮の片隅に他の胡人とはべつに豪奢な居室が用意されたのである。

 それからというもの、国王はたびたび秋星のもとに足を運ぶようになった。

 気が気でないのは家臣たちだ。


――まさか、胡人の女を後宮に入れるつもりでは……。

 

 最辺境の国である沙蘭国では、恭順した異民族との通婚はむしろ奨励されている。

 そんななかで、国王を筆頭とする王室宗家だけは、建国から現在に至るまで純然たる七国人の血統を保ってきたのである。

 沙蘭国王は聖天子の血筋を引いている以上、その妻妾となる女性にも相応の血筋が求められるのだ。

 七国人ですらない胡人の女を後宮に入れるなどもってのほかであり、もしそのような事態が出来しゅったいしたなら、言うまでもなく王朝創設以来の不祥事である。


 国王の側近たちが見てみぬふりをしていられるのは、まだ二人のあいだに子がないからにすぎない。

 このまま国王が秋星のもとに入り浸って情交を重ねれば、いずれ恐れている想定は現実のものになる。

 生まれる子が男女のいずれにせよ、胡人の血を引く王族が誕生するようなことになれば、沙蘭国の屋台骨を揺るがす大問題に発展しかねないのである。

 主君の気まぐれに戦々恐々としながら、それでも家臣たちは、心のどこかでそのようなことはけっしてないと確信してもいた。

 

――あの袁王妃おきさきが許すまい……。


 袁王妃は、本名を袁聖妙えんせいみょうという。

 代々沙蘭国の司法を担ってきた袁家の令嬢である。

 先ごろ成夏国王・夏賛のもとに嫁いだ国王の妹・蘭耀花らんようかに劣らぬ美貌もさることながら、その性格の苛烈さによって、若き王妃はいまや王宮の事実上の支配者として君臨している。

 すこしでも女官や廷吏の不手際を見つければ火を吹くような激しさで譴責し、心に傷を負って二度と出仕出来なくなった者は数しれない。理路整然とした追及は、なまじの暴力よりもずっと残酷なのだ。

 入内じゅだいしてわずか二年で王妃は後宮を含めた王宮の諸事一切を取り仕切り、国王顔負けの権勢をほしいままにしているとは、城下のもっぱらの評判であった。

 それだけではない。

 国王の側女そばめが子を産んだと聞けば、王妃はすかさず産室に踏み込み、むりやり嬰児を連れ去ってしまうのである。

 むろん、生まれたばかりの子を殺すような非道こそしないが、我が子の顔もろくに見ないうちに引き離された母親の心痛はまさしく言語を絶する。


――王妃様は自分に子がお出来にならないから、あのような無慈悲なことをなさるのだ……。

 

 宮廷の女官たちはひそかにそう囁きあっては、王妃の地獄耳に怯える日々を過ごしていたのである。

 そのような袁王妃であったから、むろん秋星のことも快く思っているはずがない――王妃本人は何も言わずとも、周囲の人間は当たり前のようにそう考えていた。

 国王の寵愛を一身に受ける胡人の女。

 それだけでも気に入らないところに、後宮に入ってすらいない彼女が国王の子を孕むようなことがあれば、王妃の怒りは頂点に達するだろう。

 火あぶりか磔刑たっけい、はたまた車裂き……。

 いずれにせよ、胡人の美女が凄惨な結末を迎えることは確実であった。

 王宮に満ちあふれる剣呑な空気を国王もようやく察したのか、秋星のもとへ通う頻度は次第に少なくなっていった。

 王扶建が国王からじきじきに召し出されたのは、そんなある日のことであった。

 どこか気鬱げな国王は、辺境の戦で日焼けした将軍の顔をまじまじと見つめると、


――よくよく考えれば、あの女はそなたが拾ってきたのだ。扶建、そなたが面倒をみるがよい。


 それだけ言って、なかば一方的に謁見を打ち切った。

 ほどなくして、秋星はひっそりと王宮を去った。

 王妃の怒りを買って放逐されたのではない。

 国王の内命により、王扶建のもとに嫁いだのである。

 夫婦のあいだに最初の男児――王子季が誕生したのは、それから一年半後のことであった。

 

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