第64話 黎明(第二章・最終回)【後編】
吹きすさぶ風は刃のするどさを帯びていた。
まだ雪こそ見当たらないが、歩を進めるたび、足元でしゃりしゃりと快い音が響く。
北辺の大地は夜ごとに凍てつき、真夏でも霜柱が消えることはないのだ。
辺境を旅する者の視界を覆うようにそびえるのは、天に剣尖を突きつける五つの鋭峰であった。
夏凛たちは、街道と峠道とが交わる一帯に差し掛かろうとしていた。
華昌国の最北端ということもあって、めったに足を運ぶ者もいないらしい。
沿道には崩れかかった廃屋が点在するばかりで、周囲には人の気配すら感じられない。
低木と下草に埋もれようとしている田畝は、かつてこの地に暮らした人々が自然に対して企てたむなしい抵抗の形跡であった。
貧しく荒れ果てた土地からは人が離れ、それによっていっそう荒廃が進む。不毛な繰り返しの果てに、とうとう五剣峰の麓は完全な無人地帯と化したのだ。
辺境の暮らしに精も根も尽き果て、温暖で肥沃な土地を求めて去っていった人々を誰が責められよう。
住む人とてない最果ての地には、寂びた風の音だけが蕭々と流れている。
半ば朽ちかかった道標の前で、夏凛はふと足を止めた。
「それじゃ、ここで――」
夏凛はそれだけ口にして、
努めて明るく言った少女とは対照的に、少年はほとんど泣き出しそうになっている。
ここまでの道中、鷹徳はずっとその言葉を恐れていた。
永遠に来なければいいと願っていたその瞬間は、いままさに訪れたのだった。
峠道まではまだだいぶ距離がある。それでも、鷹徳にとっては、この荒涼たる土地が旅の終着点だった。
「いままで本当にありがとう。何度も生命を助けてもらったのに、何もお礼が出来なくてごめんなさい」
「凛殿!!」
鷹徳は感極まったように叫ぶと、反射的に夏凛の手を握っていた。
「本当に
夏凛はふっと微笑むと、ゆっくりと
「そう言ってくれるのはうれしいけど、私は朱鉄と戦うと決めたから。そのためには、どうしても沙蘭国に行かなければいけないの」
「ならば、せめて危険な五剣峰越えではなく、多少時間はかかっても安全な迂回路を……」
「今回はうまく切り抜けられたけど、またいつ刺客が襲ってくるか知れないもの。これ以上華昌国に長居をして、関係ない人たちを巻き込む訳にはいかないわ」
夏凛の言葉に耳を傾けながら、鷹徳は人目もはばからずに嗚咽を漏らす。
いつもならすかさず茶化している怜も、いまばかりは黙然と二人のやり取りを見守っている。
夏凛は鷹徳の頬に手を当てると、指先で涙をそっと拭い取った。
「心配しないで。きっとまた会えるはずよ」
「本当ですか……?」
「ええ――かならず。だから、それまで鷹徳も元気でね」
まともに返事をすることも出来ず、鷹徳はただ肯んずるばかりだった。
どこにも行かないで。
どこにも行かせないで。
ずっと、僕のそばにいてください。
ずっと、あなたのそばにいさせてください。
喉まで出かかった言葉の数々をぐっと飲み込んで、鷹徳はせいいっぱいの笑顔を浮かべる。
再会出来るという保証はない。こうして面と向かって言葉を交わすのは、これが最後になるかもしれない。それなら、せめて笑って見送ろう。
それでも。
これから愛しい人が辿る苦難の道のりを思うたび、頬を伝う涙を止めることは、どうしても出来なかった。
***
あの後――。
夏凛は怜と鷹徳にみずからの出自を打ち明け、いままで隠していたことを謝罪したのだった。
怜はさして驚いた風もなく、
――そうか……。
とだけ言って、夏凛から梁凱へと視線を移した。
――センセイ、あんたは知ってたのか?
問われて、梁凱は無言で首肯した。夏凛が素性を告白した以上、もはや隠し立てする必要もない。
少女の秘密を知っても相変わらず飄々とした怜に対して、鷹徳はひとかたならぬ衝撃に打ちのめされたようであった。
それも無理からぬことだ。華昌国にとって成夏国は長年中原の覇者の座を争ってきた宿敵であり、わけても先代国王・
成夏国が滅亡したいまでも、華昌国では国王・
その夏賛の娘がひそかに生き延び、正体を隠して華昌国に潜伏していたことが表沙汰になれば、まさしく国家を揺るがす一大事となる。
夏凛はたちまち身柄を拘束され、罪人として王都に連行されるだろう。
夏凛の正体を知りながら通報を怠るのは、祖国への裏切りにほかならない。
まして鷹徳は傍流とはいえ、れっきとした王族のひとりである。
主君であり、いずれ義父となる国王への手前、敵国の姫が自国を通過するのをみすみす看過する訳にはいかないはずであった。
――僕は……。
長い沈黙のあと、鷹徳は塊を吐くように訥々と言葉を紡いでいった。
――僕の気持ちは、それでも変わりません。凛殿と出会って、僕は変わることが出来ました。あなたが僕を救ってくれたんです。
揺れ動く心を映すように、固く握りしめた拳は震えていた。
――たとえあなたが成夏国王の娘でも、僕には関係ないことです。あなたと一緒に旅が出来てよかった。どうか、最後までご一緒させてください。僕にあなたとの約束を果たさせてください。
目尻に涙を浮かべながら、夏凛は「ありがとう」と短く答えただけだ。
それだけで十分だった。
天地を覆った闇の色はいまだ濃く、夜明けは遠い。
別れが待つ黎明を目指して、一行は最後の旅路へと踏み出したのだった。
***
ややあって、鷹徳から離れた夏凛は、梁凱に声をかけた。
「梁凱、あなたは鷹徳と一緒に行ってあげて」
「沙蘭国にはお連れいただけないと……?」
「そうじゃないわ。あなたは中原に残って成夏国と
梁凱は何も言わず、ただ跪拝の礼を取っただけだ。
それは臣下が王命を拝受した際の所作にほかならない。
夏凛を成夏国のあらたな王と認め、その命に服したことを、梁凱は身をもって示してみせたのである。
一組の主従だけのささやかな王国。それでも、成夏国は、たしかにこの瞬間から再興への緒についたのだ。
そんな二人をよそに、鷹徳は怜にするどい視線を向ける。
「怜、凛殿を頼んだぞ。もしものことがあったら承知しないからな!!」
「おいこら、誰に向かって言ってんだ。もともと道案内をする約束だったからな。こいつの正体が成夏国の王女サマだろうと、やることは変わらねえ」
怜はいつもどおり皮肉っぽく言って、やれやれと肩をすくめてみせる。
「王族ならたっぷり報酬を弾んでもらいたいところだが、いまさらウダウダ言い出すのも格好がつかねえからな。約束どおり、首飾りを返してくれりゃそれでいいさ」
「そんなに金が欲しいのなら僕が……」
「バーカ、誰がお坊ちゃんに恵んでもらうかよ」
「バカとはなんだ!! 本当に最後まで失礼な男だな、あなたは……」
血相を変えて反駁しながらも、鷹徳の声はどこか寂しげだった。
ここまでともに死線を越えてきたのだ。悪態をつきあいながらも、心の奥底ではたしかな信頼で結ばれている。
こうして軽口を叩いていられるのもいまだけだと思えば、過ぎ去っていく一瞬一瞬がたまらなく愛おしい。
別れを惜しんでいるのは、怜にしても同じはずであった。
整った横顔にはどこか物憂げな陰が差している。
ふだんは軽薄で能天気とさえ言える青年が他の人間の前でこんな顔を見せるのは、正真正銘いまが初めてだった。
「さて、と――」
言って、怜は夏凛にちらと目配せをする。
出立を促しているのだ。
五剣峰の峠道は険しく、そして長い。
先行きを思えば、陽が高いうちに進めるだけ進んでおきたいと考えるのは当然だった。
夏凛はだまってうなずくと、怜とともに歩き出していた。
「凛殿‼」
遠ざかっていく背中にむかって、鷹徳は声の限りに叫んでいた。
「僕はいつまでも待っています‼ だから、どうかお気をつけて‼」
夏凛が振り返った瞬間、鷹徳はあたたかな春風が吹き抜けていくのを感じた。
錯覚だということは分かっている。相変わらず風は身を切るように冷たく、そもそもこの地に春が訪れることなど決してないのだから。
それでも、鷹徳はたしかにやわらかな温もりに包まれたのだった。
少年の目交に映ったのは、花が綻んだような笑顔であった。
「さようなら……」
あるかなきかのか細い声は、夏凛の耳には届かなかっただろう。
それで構わなかった。別れの言葉は、自分自身の淡い想いに告げたものでもあった。
なおも心を離れようとしない未練を洗い流すように、ふたたび冷たく乾いた風が吹き渡っていく。
やがて二人の後ろ姿が見えなくなるまで、鷹徳と梁凱は、いつまでもその場に立ち尽くしていた。
***
「本当によかったのか?」
歩きながら、怜はぽつりと呟いた。
道は次第に傾斜を増し、それに合わせて周囲の木々はまばらになっている。
いよいよ峠道に足を踏み入れようとしているのだ。
「なんのこと?」
「あのまま華昌国に残れば、昔と同じとまでは行かなくても、人並み以上の暮らしは出来ただろうぜ。鷹徳のことだ。何があろうとおまえを追い出したりはしないだろう。なんなら、いまからだって遅くは……」
「後悔はしてないわ。私が決めたことだから――」
予想に反して、夏凛の声は明るかった。
「
「幸せになるのは悪いことか? そいつらは、おまえが辛い目に遭い続けることを望んでたのか?」
「そうじゃない。……ずっとむかし、私は大切な人と約束したから。いつの日か、かならず成夏国を取り戻してみせるって。私は、その約束を破りたくないだけ」
夏凛は怜に歩調を合わせると、顔を見上げて問うた。
「怜にもいるでしょう、大切な人が――」
「さあな。いたような気もするが、忘れちまったよ」
「うそ」
「どうしてそう思う?」
怪訝そうな顔で見つめる怜に、夏凛はいたずらっぽく微笑む。
「ここまで一緒に旅をしてきたんですもの。怜は自分勝手で冷たいふりをしてるけど、本当は誰かのために一生懸命になれる人よ」
「……買い被りすぎだ。俺はおまえが思ってるほど上等な人間じゃない」
「私はそう思ってるからいいの!」
顔を上げれば、峠道ははるか彼方まで続いている。
山肌に沿ってゆるやかな曲線を描く道筋は、地に伏した大蛇を思わせた。
この道の果てには、目指す沙蘭国がある。
そこで待っているのが希望でも絶望でも、もはや後戻りは出来ない。生きるためには、ひたすらに進んでいくしかない。
夏凛はまっすぐに前を見据えると、力強く地を蹴っていた。
時に
夏凛にとってのあらたな旅立ちの日は、七国の歴史にまったくべつの形で刻まれることになった。
同日未明、かねてより緊張状態にあった
西方の戦場を起点とする血なまぐさい風は、たちまちに各国を飲み込んでいく。
巨大な運命の歯車が回りはじめたことを、少女はまだ知らなかった。
【第二章・完】
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