第三章 大乱編
第65話 侵掠(一)
昴帝国の斥候騎兵が国境線を越えたと誤認した延黎国の兵士が、すかさず矢を射掛け、これを殺傷したのだ。
平時であれば不幸な事故として内々に処理されるであろう案件も、一触即発の状況にあっては戦の発端となりうる。
開戦の動機を求めていた昴帝国としては、延黎国の側から先制攻撃を仕掛けてきたことは、まさしく天佑神助といえた。
むろん、ただの偶然ではない。延黎国を暴発させるべく兵を動かしたのは、昴帝国の軍事を統括する太元帥・
ともかく、この一件を契機として、昴帝国と延黎国は正式に交戦状態に突入したのである。
かねてより延黎国との戦争を予見し、国境付近に部隊を集結させていた昴帝国の行動はじつに敏速だった。
朱英みずから指揮を執る二十二万の第一軍、そして大将軍・
中原の大半を勢力下に収める昴帝国と、辺境の小国でしかない延黎国のあいだには、もともと埋めがたい国力差が存在する。
昴帝国がこの遠征のためだけに三十万あまりの大兵力を動員したのに対して、延黎国の総兵力は二十万にも満たないのだ。さらには王都・
はたして、開戦劈頭の戦いは、昴帝国軍の圧倒的勝利に終わった。
その後も国境付近の砦や
迎え撃つべき延黎国軍はといえば、緒戦の敗北ですっかり意気阻喪したように、さしたる抵抗も示さぬままずるずると後退を続けるという体たらくだった。
それも無理からぬことだ。延黎国の軍事力は昴帝国におおきく劣後している以上、まともにぶつかりあえば、ただでさえ少ない兵力をいたずらに消耗することになる。
国土の
それが姑息な時間稼ぎにすぎないことは、当の延黎国の側もむろん承知しているはずであった。
――奴らは
昴帝国軍の将兵のあいだには、いつしか敵に対する隠しようもない軽侮と油断とが蔓延するようになっていた。
そうするうちに七つ目の城市を制圧し、いよいよ王都・
無人の野を行くがごとき快進撃を続けていた昴帝国軍は、ある地点から一歩も先へ進むことが出来なくなった。
その名が示すとおり、鶯が舞い飛ぶ峡谷の峠道は、王都・延封へと通じる唯一の道であり、峻険な山々に遮られた延黎国の東西を結ぶ交通の要衝として知られている。
切り立った断崖が左右を圧する狭隘な山道は、文字通りの天然の要害として昴帝国軍の前に立ちふさがったのだった。
行く手を阻んだのは自然の地形だけではない。
延黎国軍は、撤退の途中で道路を徹底的に破壊し、橋という橋を焼き落としていった。
さらに断崖に口を開けた大小の洞穴には、弓や弩を携えた兵士が身を潜め、昴帝国の部隊が通過するたびに猛烈な射撃を仕掛けた。
豊富な鉱物資源が眠る一帯の山々には、すでに廃止されたものも含めて無数の坑道が存在する。延黎国軍はそれらの坑道を連絡路として、神出鬼没の遊撃戦に打って出たのだ。
昴帝国軍が対策を講じようにも、山中の坑道は迷宮のごとく錯綜し、うかつに足を踏み入れれば二度と地上に出られなくなる。
詳細な坑道の地図を持たない昴帝国の兵士たちは、逃げていく敵をただ指をくわえて見送ることしか出来なかった。
ここに至って、緒戦の勝利に酔いしれていた昴帝国の将兵たちもようやく思い知らされた。
延黎国軍は、怯懦ゆえに無計画な撤退を続けていた訳ではない。
あえて国境に近い城市や砦を放棄し、昴帝国軍を国土の奥へ奥へと誘い込んでいたのだ。
それを裏付けるように、朱英率いる三十余万の大軍勢は、鶯鳴関で立ち往生をする格好になった。第一軍と第二軍は、細長い隊列を組んだまま微動だにせず、そのさまは地に伏した大蛇を思わせた。
ただそこに存在するだけで膨大な物資を蕩尽する軍隊という組織にとって、停滞ほど恐ろしいことはない。
敵城を陥落させた日も、一歩も動けぬまま無為に過ごした日も、兵士たちは同じように兵糧を消費する。
開戦以来の破竹の進撃によって、本国からの補給線はすでに限界に達している。前線に兵糧が届くまでにはかなりの日数を要し、最寄りの城市で徴発を行おうにも、この状況で部隊を切り離すことは、敵のさらなる反攻を招きかねない。
動くと動くまいとにかかわらず、兵糧はいずれ尽きる。将兵の体力にも遠からず限界が訪れる。
長期の滞陣で疲弊しきったところを延黎国軍に狙われれば、昴帝国軍は総崩れに陥るだろう。
そうなれば、いかに朱英と柳機、四驍将ほどのすぐれた指揮官であったとしても、軍を立て直すことは容易ではない。
(
将軍たちが忌々しげに呟いたのは、延黎国軍の指揮を執っている男の名だ。
二年前、鳳苑国の滅亡をからくも生き延びた陸芳は、みずからの苦い経験をもとに一か八かの賭けに出たのだった。
すなわち、昴帝国の最大の武器である電光石火の速攻を逆手に取り、国土の奥深くで孤立させたのだ。陸芳は、守るべき王都と国王の生命を餌として、巨大な獲物をまんまと釣り上げたと言ってよい。
日を追うごとに兵糧は減少し、各部隊は敵の襲撃によってじわじわと出血を強いられている。
真綿で首を絞められるように、決定的な破局は少しずつ近づいている。
建国以来、向かうところ敵なしと自負してきた昴帝国軍は、ここにおいて最大の危機を迎えようとしていた。
***
鶯鳴関の周辺には、いくつかの集落が存在している。
昴帝国軍が本陣を置いたのは、そうした集落のひとつだった。
正確には跡地と言うべきだろう。村人ははやばやと逃げ去り、家々と田畑は延黎国軍によって焼き払われている。昴帝国軍に利用されることを防ぐため、あらかじめ集落の一切を破却したのである。
いまなおきな臭さが残る集落跡には、鶯の鳴き声だけがむなしく
夕刻――。
村の中心部に設営された
ふだんはそれぞれの部隊を率いている彼らは、朱英の命令によって招集されたのだ。
奇妙なことに、やがて四人が揃っても、朱英と柳機は一向に帷幄に姿を見せなかった。
「我らを呼びつけておいてもぬけの殻とは、
苛立たしげに吐き捨てたのは
いかにも武辺者らしい無骨な面貌には、疲労の色が濃く浮き出ている。
昴帝国きっての猛将として知られるこの男も、進むも退くも思うに任せない現在の状況にすっかり憔悴しきっているのだ。
「すこしは落ち着け、且」
「これが落ち着いていられるか。昨夜も俺の配下の兵が殺され、兵糧を焼かれた。これ以上はもはや我慢ならん!! こちらから打って出るべきだ!!」
「打って出ようにも、敵がこの山のどこに潜んでいるかも分からぬ。うかつに追いかければ、迷ったすえに野垂れ死にをするだけだ」
「おお、それもよかろう。このまま戦わずして敵に背を向けるくらいなら、熊の餌にでもなったほうがまだよいわ」
「バカげたことを申すな」
烈しく言葉を戦わせはじめた二人に、もうひとつの声が混じった。
「漢銀殿の言うとおりです。このような状況だからこそ、短慮はなりませぬ」
「ふん……貴様も怖気づいたか、
「なんとでも仰せられよ。私が恐れるのは延黎国ではなく、皇帝陛下を失望させることだ」
「面白い。貴様はこのままおめおめと逃げ帰れば、皇帝陛下がお喜びになると思っているのだな。ならば止めはせぬ。さっさと兵を連れて国許に帰るがいい」
「たとえ鍾離且殿でも、それ以上は聞き捨てなりません」
言葉を交わすたびに、険悪な雰囲気が帷幄を充たしていく。
苛立っているのは鍾離且だけではない。漢銀も黄武も、ままならない戦況に忸怩たる思いを抱いているのはおなじなのだ。
押し殺していた闘争心を刺激されれば、仲間同士で諍いが始まるのも当然だった。
そんななかで、
どのようなときも感情を表に出すことのない男である。石造りの神像を思わせる顔立ちとあいまって、同じ四驍将の面々も蒯超が何を考えているのかは計りかねている。
帷幄の外で足音が生じたのはそのときだった。
「おうおう、四人とも揃っておるな。なんだ、その
呵呵と豪放な笑い声を上げながら、柳機はずかずかと帷幄に足を踏み入れる。
その背後から現れた人物を認めて、四驍将は示し合わせたみたいに拱手の礼を取っていた。
「太元帥閣下――――」
「楽にせよ。まずは遅参を詫びねばなるまい。柳機とともに前線を視察していたが、思いのほか長引いてしまった」
「お二人がみずから前線に赴かれたのですか!?」
驚きの声を上げた鍾離且に、朱英は無言でちいさく頷いただけだ。
「諸君も知ってのとおり、戦況は膠着状態に陥っている。前進しようにも進むべき道はなく、橋をかけたところで敵にたちまち落とされる。皇帝陛下より預かった三十万の兵力も、この地勢ではかえって足手まといになる……」
朱英の言葉どおり、狭隘な山道では大軍勢はなんら意味をなさない。
それどころか、騎馬や戦車、兵糧輸送用の荷車はただでさえ狭い道幅を占有し、味方の自由な行動を妨げてさえいる。
延黎国軍にとって、昴帝国軍はもはや罠にかかった獣も同然なのだ。
虎や熊といった恐ろしい猛獣も、いったん罠にかかれば、もはや解体を待つだけのあわれな畜生にすぎない。
身動きの取れない昴帝国軍をじわじわと切り刻み、壊滅に追いやることは、延黎国の戦力でも十分に可能である。
辺境の小国に敗れたとなれば、昴帝国の権威はたちどころに失墜する。
いまは昴帝国に恐れをなしている周辺国も、その強勢に翳りが生じたなら、たちまちに反旗を翻すにちがいない。
それこそが陸芳の、そして延黎国王である
「むろん、いつまでも手を拱いているつもりはない……」
「では、我らに出陣の許可を!! 延黎国の小賢しい策など、ひと捻りに叩き潰してごらんにいれる!!」
「君たちにも存分に働いてもらう」
四驍将が訝しげな視線を朱英に向けたのは、その言葉に引っかかるものを感じたからだ。
「百騎だ。各隊から特に馬の扱いにすぐれた将士を選抜し、明日の日没までに私のもとに集結させてほしい」
「本当にたった百騎だけでよろしいのですか?」
「この戦で数は役に立たないことは説明したはずだ。戦況を打開するには、百騎だけで事足りる」
「しかし、だれが兵の指揮を――」
言いさして、鍾離且はそれきり二の句が継げなくなった。
四驍将を瞥見する朱英の両目に漲っていたのは、有無を言わさぬ力強い意志だった。
やがて朱英は深く息を吸い込むと、居並ぶ諸将にむかって決然と言い放った。
「――この私、朱
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