第63話 黎明(第二章・最終回)【前編】

 視線の先には、梁凱と鷹徳が立っていた。

 下草を踏み分けながら、二人は夏凛と怜のもとへと駆け寄ってくる。


「凛殿!! ご無事で――」


 感極まったように言って、鷹徳は夏凛の手を握る。

 ここまで辿り着くまでのあいだ、少年がどれほど厳しい戦いを切り抜けてきたかは、何も言わずともその顔を見れば分かる。

 ふと違和感に気づいて、夏凛はためらいがちに問うた。


「鷹徳、弓は……?」

「捨ててきました。どのみち、もう使い物にはなりませんから」


 鷹徳は寂しげにはにかむ。

 すこし前――手持ちの矢を使い切った鷹徳は、最後に残った敵を倒すために愛用の弓を犠牲にしたのだった。

 弓幹ゆがらで迫りくる長剣を受け止め、その隙に短剣で敵を刺殺したのである。

 革巻きの弓幹はかなりの耐久性を誇るとはいえ、刃をまともに受けてはひとたまりもない。

 一度損傷した弓は、もはや弦の力を受け止めることは出来ない。どれほどの名工でも修復は不可能なのだ。

 肌身離さず持ち歩いていた愛器に別れを告げた鷹徳は、合流地点である村はずれの沼沢へと足を向けた。

 梁凱の乗る小舟を見つけた直後、沼沢のあたりで火の手が上がるのを認めて、二人は息せき切って駆けつけてきたのである。


「それにしても、沼気しょうきを用いた火計とは、この私でも考えつかなかったことです。凛殿には軍略の才がおありのようだ」


 梁凱は感心したように言って、ちらと背後を振り返る。


「敵はまだ残っています。早急にこの場を離れたほうが賢明でしょう」

「ねえ、梁凱。私がここに来なければ、この村の人たちは……」

「いまさら気に病んだところでどうにもなりません。私たちがここに来る前から村人は刺客と入れ替わっていました。素通りしていたところで、やはり結果は同じだったはずです」


 梁凱はあくまでそっけなく言って、ついと視線をそらす。

 闇空の彼方には、五剣峰ごけんほうの鋭利な山体がうっすらと浮かんでいる。

 夜がな夜っぴて歩き続ければ、明日の昼には峠のとば口に辿り着くことが出来るだろう。

 敵の追撃を振り切るためには、もはや一刻たりとも立ち止まっているいとまはないのだ。


「ところで凛殿、顔が赤いようですが――」


 梁凱に指摘され、夏凛は気づいたように両頬に手を当てる。

 錯乱パニックに陥りながらも、水中で唇に何かが触れたことは覚えている。

 同時にあらたな空気が肺腑に送り込まれ、あやうく溺れかけたところを助けられたことも、また。

 はっきりとは見えなかったものの、あのとき怜が自分に何をしたのかは、それとなく察しがついている。

 あの状況を切り抜けるためには仕方がなかったとはいえ、夏凛としては心穏やかではいられないのは当然でもあった。

 そのことを意識すればするほど、火照った頬はいっそう熱を帯びていくようだった。


「な、なんでもない……」

「そうですか? てっきり水に浸かって熱でも出されたのかと」

「本当に大丈夫……心配ないわ」


 言って、夏凛はちらと怜を見やる。

 怜は濡れた上衣を絞りながら、凝然と夜空を見上げている。

 ようやく夏凛の視線に気づいたのか、濡れた蜂蜜色の髪を荒っぽくかきあげると、


「……時間がねえ。さっさと出発するぞ」

 

 努めてぶっきらぼうに言って、さっさと歩き出していた。

 夏凛たちが慌ててその背中を追おうとしたそのときだった。

 一行からわずかな距離を隔てた藪のあたりで、一塊の影が動いた。

 狐狸の類と見えたのは一瞬のことだ。影は二本の足で立ち上がると、音もなくこちらに近づいてくる。

 一歩進むごとに闇に響き渡るのは、金属をかち合わせる乾いた音であった。

  

「てめえは――」


 低い声で呟いて、怜は剣柄けんぺいに手を伸ばす。

 

「……やってくれたな」


 蔡破さいはは鉄の義手を撫でながら、独りごちるみたいに言った。

 剽悍な面差しには疲労の色が浮かんでいる。

 無理もないことだ。まんまと夏凛を取り逃がし、一夜のうちに部下の大半を失ったのだから。

 華昌国かしょうこく全土に潜伏させていた間者を呼び寄せ、万全を期して夏凛たちを待ち伏せておきながら、その結果は無残の一語に尽きる。

 今回の作戦の失敗によってボウ帝国が被った損失は計り知れない。諜報活動の基盤は崩壊し、再建にはどれほどの費用と労力を要するか見当もつかない。

 この失敗を贖うためには指揮官である自分の一命を差し出すしかないことも、蔡破はむろん承知している。


 怜は剣を抜きつつ、他の三人を庇うように蔡破と対峙する。

 鷹徳と梁凱はどちらも愛用の武器を失っている。丸腰で蔡破ほどの使い手に太刀打ち出来るはずもない。

 この状況でまともに戦えるのは怜だけであった。

 その怜もここまでの戦いで疲弊し、十全の状態にはほど遠い。

 のだ。


「片腕を落とされても追ってくる執念は大したもんだが、これまでだ。いい加減に諦めるんだな」

「おのれら……生きて明日の朝日を迎えられると思うな」

「その言葉、てめえにそっくり返してやるぜ」


 怜と蔡破は睨み合ったまま、じりじりと間合いを詰めていく。

 冷涼な夜風がにわかに鬼気を孕みはじめた。

 二人の身体から放たれる凄愴な気と気がぶつかり合い、激しく渦を巻く。

 戦いの火蓋が切って落とされようかという瞬間、小柄な影が怜の傍らをすり抜けていった。


「凛!?」


 怜を片手で制しつつ、夏凛は蔡破をきっと睨めつける。


「退きなさい、蔡破」

「そのようなことを言われて、素直に聞き入れるとでも思っているのか」

「これは命令よ。このまま故国くにに戻り、そして朱鉄しゅてつに私の言葉を伝えなさい」


 二人のあいだには手を伸ばせば届くほどの距離しかない。

 にもかかわらず、蔡破は襲いかかることもせず、夏凛の言葉に耳を傾けている。

 それは怜や鷹徳にしても同じだった。まるで金縛りにでも遭ったみたいに、その場から動けずにいる。


「私は逃げるために沙蘭国さらんこくに行くんじゃない。成夏国せいかこくはかならず取り戻す。たとえ何年、何十年かかっても、この手でお父様や殺された皆の無念を晴らしてみせる。だから、これ以上無関係な人を巻き込むのはやめなさい。私はもう逃げも隠れもしないのだから、追ってくる必要もないはずよ」

「……」

「覚悟なさい。この先、怯えるのは朱鉄あなたのほうよ。――いま言ったことを、一言一句たりとも違えることなく朱鉄のもとへ持ち帰りなさい」


 蔡破はしばらく悄然と立ち尽くしていたが、やがて長い息を吐いた。


「そのようなことが本気で出来ると思っているのか?」

「出来る、出来ないの問題じゃない。私はと決めた。ただそれだけよ」

「ますますくだらん妄言だ。しかし……」


 蔡破は皮肉っぽく言って、口辺に微かな笑みを漂わせる。

 夏凛の決意を嘲笑するというよりは、戦いに敗れた自分自身を嘲っているようであった。


「その言葉、確かに陛下に伝えよう」

「退いてくれるのね?」

「いずれにせよ、皇帝陛下には此度の顛末を報告をせねばならぬ。この生命は陛下のもの、ここで捨てることは許されていない。その男と決着をつけられなかったのは残念だが、致し方ない……」


 蔡破はそれだけ言うと、音もなく後じさる。

 その身体が闇に溶けきったのは、それから数秒と経たないうちだった。

 暗器使いが遁走の際に用いる隠形おんぎょうの術であった。

 怜も、咫尺しせきを弁ぜぬ暗闇の彼方に消えた敵をそれ以上追おうとはしなかった。

 長剣をすばやく鞘に戻し、夏凛に顔を向ける。


「……凛。さっきの話、どういうことだ?」


 夏凛は何かを言おうとして、きゅっと下唇を噛む。

 怜も鷹徳も、あえて厳しく問い詰めようとはしなかった。

 梁凱はひとり黙然と佇んだまま、三人の様子を見守っている。

 ややあって、夏凛は決然と顔を上げた。


「私、みんなに話さなければいけないことがあるの――」

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