第62話 死線(五)
どれほど駆け続けただろう。
葦が生い茂る沼のほとりで、怜はふと足を止めた。
蜂蜜色の髪は返り血によって赤黒く染まり、白皙の顔貌には大小の切創が走っている。
どれほどすぐれた使い手でも、二十人ちかい敵に囲まれては、無傷で切り抜けることは不可能である。
襲いかかる敵を斬り捨てながら、怜もまた身体じゅうに傷を負ったのだった。
それでもかろうじて致命傷を免れているのは、卓抜した身体能力の為せる業だ。
「そろそろやべえかもな――」
ぜえぜえと荒い息をつきながら、怜はひとりごちる。
気力も体力も限界に近づいている。
ひとまず敵を振り切ることは出来たが、追いつかれるのは時間の問題だ。
敵はいずれ劣らぬ手練れである。たとえ姿は見えなくとも、血の匂いをたよりに痕跡を辿る程度は造作もなくやってのけるはずだった。
この状態で囲まれれば、今度こそ確実な死が待っている。
「ったく、とんだ貧乏くじだぜ……」
鷹徳と梁凱は無事に逃げおおせただろうか。
もしかしたら、二人のどちらかは凛を見つけているかもしれない。
そうであればいい。ただひとりで多くの敵を引き受けたのは、彼らが逃げるための時間を稼ぐためなのだから。
そこまで考えて、怜は自嘲するみたいにふっと口元をほころばせる。
(何をやってんだろうな、俺は……)
他人のためにここまでしてやるなど、すこし前までの自分であれば考えもしなかっただろう。
最愛の妹を失ってから、怜の世界には孤独とむなしさだけがあった。
あてどなく諸国をさまよい、衝動に任せて喧嘩に明け暮れては、酒と色に溺れた。無軌道な流浪のうちに過ぎていった歳月は、怜の心身をじわじわと摩耗させていった。
名前も知らない女と
怜の心は、ずっと死に場所を求めていたのだ。
凛と出会い、仲間たちと旅をするうちに、何かが変わったというのか?
それは、怜自身にも分からない。
分かっているのは、どれほど傷ついても、この身体はまだ生きることを諦めていないということだけだ。
(まだ死なせちゃくれないって訳か……)
怜は手の甲で顔に付着した血を拭う。
葦の合間で何かが動いたのはそのときだった。
長剣を構えながら、怜は息を殺して気配の源に近づいていく。
「誰だ――」
誰何しても答えはない。
わずかな沈黙のあと、がさりと葦が鳴った。
次の瞬間、怜は剣を握ったまま数歩も後じさっていた。
「凛……!?」
薄闇のなかでも、その顔を見間違えるはずはない。
衣服は青黒く濡れそぼち、顔も身体も泥にまみれてはいるが、そこにいるのは間違いなく見知った少女だった。
「怜――」
怜の顔を認めたとたん、夏凛の目尻に涙の粒が盛り上がった。
偶然にも仲間と合流出来た安堵のためか、あるいはそれまで張り詰めていた緊張の糸がふいに途切れたためか。
澎湃と溢れ出る涙を止めることも出来ないまま、夏凛は怜のもとへと駆け寄る。
「あのね、私、目が覚めたらあいつらに捕まってて……やっとここまで逃げてきて……」
「心配かけさせやがって――」
「ごめんなさい……」
「べつにおまえが謝ることじゃない。……無事だったなら、それでいい」
夏凛はきょろきょろと周囲を見渡し、低い声で怜に問うた。
「鷹徳と梁凱は?」
「あいつらのことなら心配ない。今ごろはとっくに逃げおおせてるだろうさ」
「よかった……」
「そんなことより、さっさとずらかるぞ。いつまでもここにいたら、敵に追いつかれ――」
言いさして、怜はそこで言葉を切った。
何事かと問いたげな夏凛を背中に隠し、怜は周囲にすばやく視線を巡らせる。
ほんの数瞬前まで誰もいなかったはずの空間には、たしかに複数の気配が蠢いている。
やがて音もなく現れたのは、武器を携えた十五人ほどの男女だ。
下草を踏み分けながら、刺客の群れは幽鬼のごとき足取りで二人に近づいてくる。
「噂をすれば何とやら、だな」
怜は長剣を正眼に構えたまま、夏凛を庇うように後退する。
そのあいだにも、敵は二人を包囲すべく動き続けている。
あえて間隔を広く取っているのは、突破の見込みありと錯覚させるための罠だ。まんまと誘いに乗れば、その瞬間に四方八方から刃が襲いかかってくる。
夏凛と怜はまさしく窮地に追い込まれたのだった。
「怜――」
「おまえは下がってろ。絶対に俺のそばを離れるな」
「あいつらは私を狙ってる。私を置いて逃げれば、あなただけでも……」
「そんな物分りのいい連中に見えるか? くだらねえこと言ってる暇があったら、逃げる方法のひとつでも考えろ」
呆れたように言って、怜はふたたび前方に視線を向ける。
「……来るぞ」
やはり足音ひとつ立てず、敵はすこしずつ包囲の輪を狭めていく。
背後は沼地である。破れかぶれに飛び込んだところで、葦をかき分けて進むのは至難だ。
強行突破を図るにしても、怜だけならいざしらず、夏凛を連れたままでは危険が大きすぎる。
敵を倒したところで、こちらが生命を落としては元も子もない。
(今度こそヤベェかもな……)
打開策は一向に浮かばないまま、時間だけが無情に過ぎていく。
敵が仕掛けてこないのは、たんにこちらの出方を伺っているにすぎない。
戦いの
と、怜の右袖がふいに引かれた。
「……そういえば、前に河原で料理を作ってくれたわね」
「いまはそんな話をしてる場合か?」
「ええ。鷹徳が鳥を捕まえてるあいだに怜が川の水を汲んで、お湯を沸かしてくれた……」
怜の耳に顔を近づけ、夏凛はちいさな声で何事かを囁く。
夏凛の顔が離れると同時に、怜の面上を占めたのは、隠しようもない驚愕の色だった。
「おまえ、本気で言ってんのか?」
「いいから、私の言うとおりにして。二人とも助かるにはそれしかないわ」
「だが、もししくじったら……」
訝しげに見つめる怜に、夏凛はゆるゆると首を横に振る。
私を信じてほしい――口には出さなくても、少女の
怜もそれ以上言葉を返そうとはしなかった。
どちらともなく目配せをすると、その場でくるりと身体を反転させる。
敵の攻撃が始まろうかというその瞬間、二人の後ろ姿は葦の合間へと消えていた。
***
川や沼に手足を浸けていれば、半刻と経たないうちに皮膚は血の気を失い、紫色に変じるほどなのだ。
身を切るような冷たさに耐えて進むうちに、夏凛と怜は、足許に奇妙な温みを感じるようになった。
水底から
さらに噴出量が増えれば水面に泡が生じ、陽炎のごとく大気をよどませる。
脇目も振らず逃げ続ける二人は、沼の中心に差し掛かろうとしていた。
水深はせいぜい腰の高さとはいえ、水をかき分けて進むのは思いのほか体力を消費する。
どちらも息が上がっているのは、疲労のためだけではない。
一歩進むごとにますます沼気は濃くなり、それと引き換えに酸素濃度は低下している。
そのような環境では、どれほど多量の空気を吸い込んでも息苦しさは解消されず、それどころかかえって苦痛は増す一方なのだ。夏凛と怜がどちらも袖口で口と鼻を押さえ、なるべく沼気を吸い込まないようにしているのは、有害な沼気から身体を保護するためであった。
背後からけたたましい水音が迫ってくる。
二人が沼に飛び込んだ直後、敵も時をおかずに追跡を開始したのだ。
十五人の敵は沼気をものともせずに突き進み、ふたたび二人を包囲しつつある。
二人が足を止めると同時に、視界が奇妙に揺らいだ。沼気が最も濃く滞留する領域に足を踏み入れたのだ。
「……このあたりでいいわ」
苦しげに肩を上下させながら、夏凛はぽつりと呟いた。
怜は懐に左手を差し込み、何かをごそごそと探っている。
「本当にやる気か? 凛」
「梁凱は確かにこう言ってたわ。『沼気は火を近づけると燃える』って。これだけ濃ければ、きっと上手く行くはず――」
「だが、この間合いじゃ俺たちまで巻き込まれちまうぞ」
夏凛は何も答えなかった。
答えようにも、思うように言葉が出てこないというべきだろう。
沼気を吸い込みすぎたせいか、二人は立っているのがやっとという有様だった。
それは敵も同じはずだが、人数で劣る分、こちらが圧倒的に不利であることには変わりない。
水面にさざなみが立ったのはそのときだった。
風が吹いた――二人から敵のほうへと。
無色透明の沼気が流れていくさまを、たしかに夏凛は見た。
「怜!!」
夏凛が叫ぶのとほとんど同時に、怜は懐から
燧石と紐で結ばれた鉄片とを打ち合わせると、たちまちに激しい火花が飛び散った。
火花は水面ちかくに滞留していた沼気に燃え移り、敵を飲み込みながら、またたくまに風下へと広がっていく。
沼気と呼ばれているものの正体は、可燃性の天然ガスにほかならない。
五剣峰にほど近いこの地方で多く見られるのは、数億年前の火山活動の名残りである。
なかでも低湿地は腐敗した動植物が堆積したやわらかな土壌を持つこともあり、
初代国王が討伐した大蛇の死骸に由来するというのは、不可解な自然現象を説明するために考え出された俗信にすぎない。悠久の大地の営みに較べれば、人の歴史はうたかたの夢にも等しい。
むろん、この場にいる人間には知る由もないことであった。
青白い炎が闇の
炎に包まれた敵は、奇妙な群舞に興じているようでもあった。
沼に潜って火を消そうにも、水面に蓋をするように燃えさかる炎に阻まれて、その場から動くこともままならない。身体を折って水中に没していった者は、二度と立ち上がることはなかった。
おもわず目を覆いたくなる酸鼻な光景を前にして、夏凛と怜は彫像と化したみたいに黙然と佇むことしか出来ない。
やがて断末魔が途絶えても、炎は一向に鎮まる気配を見せなかった。
すでに風は
ちろちろと這い回る炎は、大蛇の舌を彷彿させた。
「怜――」
「ボサッとするな!! このままじゃ俺たちまで焼け死ぬぞ!!」
「分かってる!!」
手を取って駆け出そうとした夏凛と怜は、数歩も進まぬうちに足を止めた。
沼気の流れが変わったのか、炎は二人の行く手を阻むように燃え広がっている。
もはや進むことも退くことも出来ず、二人は立ち往生の格好になった。
じきに炎は二人を飲み込み、敵と同様に容赦なく焼き尽くすはずであった。
「……しっかり掴まってろ。俺がいいと言うまで絶対に動くな」
言うなり、怜は夏凛の身体を抱き寄せる。
夏凛が驚きの声を上げるまえに、二人の身体は水中に沈んでいた。
沼気が可燃性を持つのは、大気と混合した場合に限られる。
たとえ水面が燃え上がっていたとしても、水の中にいれば安全なのだ。
水中を泳いで炎の壁をくぐり抜け、沼の対岸まで辿り着く――怜が導き出した答えは、この状況を脱するための最適解であるはずだった。
問題は、現在地から対岸までかなりの距離を隔てていることだ。
沼の水は透明にはほど遠く、どこまで炎が迫っているかを水中から窺い知ることは不可能である。
もし途中で息が続かなくなったなら、水面に顔を出して炎に巻かれるか、苦悶のなかで溺死するかを選ぶしかない。
と、夏凛の口から空気が漏れはじめた。
成夏国は内陸国であり、そもそも王族である夏凛には水練の経験などない。
水のなかに顔を浸けることにさえ不慣れな少女は、苦しさに耐えかねて、おもわず息を吐き出そうとしてしまったのだ。いったん始まった空気の漏出は容易には止まらず、もはや窒息は時間の問題と思われた。
怜は夏凛の頭を掴むと、迷うことなく唇を奪っていた。
口移しに空気を移そうというのだ。
怜のほうが身体が大きい分、肺活量には余裕がある。夏凛に空気を分け与えたとしても、しばらくは問題なく動けるはずであった。
唇が触れ合った瞬間、夏凛の面上にどのような表情がよぎったのか。
お互いの顔も見えない濁り水のなかを、二人は身を寄せ合ったまま進んでいく。
やがて岸辺に辿り着いた夏凛と怜は、新鮮な空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
沼の中心部に目を向ければ、あざやかな炎が夜空を灼いている。
雨が降るか、風によって沼気が薄められるまで、炎は燃え続けるはずであった。
安堵に胸をなでおろす二人のすぐ後ろで、ふいに物音が生じたのはそのときだった。
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