第59話 死線(二)
田舎の日暮れは早い。
まだ夕刻だというのにやけに暗く感じられるのは、闇をやわらげる灯りがあまりにも少ないためだ。
宿の玄関には煤けた灯具がいくつか吊るされているが、目につく灯りといえばその程度だった。
村人たちは早々に家のなかに引っ込んでしまったらしい。村を南北に貫く通りに人気はなく、家々は火が消えたみたいに静まり返っている。
怜は窓辺に頬杖を突きながら、何をするでもなく、刻一刻と闇に呑まれつつある村をじっと眺めている。
「なあ、どうも引っかかると思わねえか」
「何の話だ?」
先ほどから熱心に弓の手入れをしていた鷹徳は、怪訝そうに問い返す。
「この村のことさ」
「僕は特に変わったところはないように思うが……」
「センセイはどうだ?」
怜は上体を傾け、反対側の壁際に座っている梁凱に顔を向ける。
梁凱は針を研いでいた手を止め、しばらく考え込むような表情を浮かべたあと、
「……子供」
独りごちるような調子で呟いた。
「この村に入ってから、子供を一度も見ておりません」
「言われてみれば、たしかに道を歩いてたのは大人の男と女ばかりだった」
「どんな辺境の寒村にも子供はいるものです。それがひとりもいないというのは、何か理由があるはず……」
怜と鷹徳、梁凱の三人は、示し合わせたみたいにずいと顔を近づけていた。
息が触れ合うほどの距離である。自然と声も低くなる。
「いまの時期に
「敵の罠ということも十分に考えられます」
「急いで凛殿に知らせなければ!!」
鷹徳はあわてて立ち上がろうとして、よろよろと姿勢を崩した。
怜に首根っこを掴み取られたのだ。
半ば強引に座らされた鷹徳は、恨めしげな視線を怜に向ける。
「何をする!? いくら親しい間柄でも、成人した男子に向かって失礼な……」
「バカ、大騒ぎする奴があるかよ。敵に気づかれたらどうする」
「だったら、どうすればいい?」
「しばらく様子を見るしかねえな。敵を欺くんだ。こっちが罠にかかったと思って油断したところで裏を掻いてやるのさ」
「上手くいくだろうか……」
「どう転ぶかは蓋を開けるまでは分からん。いつでも逃げ出せるように準備だけはしておけよ」
先ほどとは打って変わって真剣な怜の言葉に、鷹徳はこくりとうなずく。
二人を横目で見つつ、梁凱は瞼を閉じて沈思している。
「戦いになるかもしれませんね」
「逃げるにしても、すんなりとは逃がしちゃくれねえだろうからな」
「村に入るまえに周囲の地勢はあらかた把握しておきました」
梁凱は荷物の中から石筆と布切れを取り出すと、すらすらと線を描いていく。
やがて布切れの上に描出されたのは、
「ご覧のように、村を取り囲むように弧状の
「
「息を止めていれば問題ありません。沼と沼のあいだを縫って進めば、敵の目を欺くことも出来るでしょう」
「狭い場所に誘い込めれば、迎え撃つにも都合がいいな」
「それも敵の数次第です」
梁凱はあくまで冷静に言って、ふたたび地図に目を落とす。
なにしろ敵の戦力はいまだ不明なのである。
三人は並の刺客を寄せ付けない技量を持っているとはいえ、際限なく戦い続けられる訳ではない。
そして、優勢な敵を相手に刀折れ矢尽きるまで戦ったところで、一行には何の利益もない。
何はともあれ、まずは無事に
そのためであれば、敵に背を向けることも恥ではないのだ。
あえて梁凱に言われるまでもなく、怜も鷹徳もそのことは承知している。
「おい鷹徳、ちょっと凛の様子を見てこい」
怜の言葉に、鷹徳は不機嫌そうに片眉を上げる。
「それは構わないが、なぜ僕が……」
「おまえ向きの仕事だろ? ――もしあいつが寝てても、変な気を起こすなよ」
「本当にあなたという人は失礼だ!!」
鷹徳は憤然と立ち上がると、朱色に染まった頬を隠すように背を向ける。
部屋を後にした鷹徳は、一分と経たないうちに戻ってきた。
二つの部屋はそれほど離れていないとはいえ、あまりにも早すぎる。
なにより怜と梁凱を驚かせたのは、鷹徳の顔からすっかり血の気が失せていたことだ。
「どうした!?」
「り、凛殿が……凛殿が……」
「落ち着け。いったい何があった!?」
怜の問いに、鷹徳は震える声で答えた。
「凛殿が、どこにもいない――」
***
目覚めたのは、どことも知れない暗闇の中だった。
夏凛はゆっくりと上体を起こしながら、眠い目をこする。
どこだろう、ここは――。
すくなくとも宿の部屋ではない。
身体の下に感じるのは、床板ではなく、冷たく硬い感触。
おそらく石の上に横たえられていたのだろう。耳を澄ませば、どこからか水が滴る音が聞こえてくる。
空気は湿気に富み、呼吸するたびに肺が重くなっていくような気さえする。
夏凛は目が闇に慣れるのを待ったが、いつまで経っても視界は墨色に塗られたままだ。
無理もないことだ。よほど訓練を積んだ人間でないかぎり、灯りひとつないぬばたまの闇に順応することは出来ないのだから。
意識が清明になっていくにつれて、夏凛の心に恐怖が芽生え始めた。
そうだ――。
宿に到着した安心感から、ついうとうとと
おそらくは眠ったまま、何者かによって宿から連れ去られたのだ。
誰の仕業かは、考えるまでもなく分かっている。
ここのところ鳴りを潜めていた刺客たちは、やはり夏凛をつけ狙っていたのだ。
「お目覚めですかな、夏凛王女」
闇の奥から投げられたのは、たしかに聞き覚えのある声だった。
「またお会い出来て光栄です」
「その声……たしか、廃墟で襲ってきた刺客の……」
「私は
相変わらず声はすれども姿は見えず。
混乱する夏凛をよそに、蔡破はなおも言葉を継いでいく。
「ようやくあの者たちから引き離すことが出来た。ここまでじっと機を待ち続けた甲斐があったというものだ」
「私をどうするつもり?」
「もちろんお生命は頂戴する。皇帝陛下があなたの死を望んでおられる以上、我らはただその御意に服するのみ。しかし、殺すまえにいくつか聞き出さねばならないこともある――」
「朱鉄の思い通りになると思わないことね」
「いくら強がってみたところで、あなたはすでに籠の鳥。どこへも逃げることは出来ない」
言い終わるが早いか、闇がふいに薄れていった。
どこかで松明に火をつけたのだ。
夏凛も薄々気づいてはいたが、やはり
暗闇が退くにつれて、てらてらと濡れ光る壁面が周囲を覆っていく。そこかしこに見える木組みの柱のようなものは、洞窟の崩落を防止するための
ややあって、夏凛の
蔡破――刺客たちを率いる暗器使いは、ふたたび夏凛の面前に姿を現したのだった。
先の戦いで怜に切り落とされた右腕には、するどい鉄爪を備えた義手がはめ込まれている。
「さて……無駄な抵抗はなさらぬことだ。おとなしく言うことを聞くのなら、苦しまずに殺して差し上げる」
「冗談じゃないわ!! あなたなんかに殺されてやるもんですか!!」
「聞き分けのない姫だ。いくら叫んだところで、誰も助けになど来ない。邪魔さえ入らなければ、あなたひとりを始末するなど造作もないこと……」
蔡破は冷えきった声で言い捨てると、夏凛にむかって一歩を踏み出す。
がちりと硬質の音を立てたのは、右腕の爪だ。どのような仕掛けによるものか、鉄製の爪はぎこちなく開閉を繰り返している。
すこしずつ間合いを詰めながら、蔡破は夏凛に爪先を向ける。
研ぎ澄まされた鉄爪をまともに受ければ、人間の身体はたやすく引き裂かれる。
ひと思いに絶命させるか、じわじわと苦痛を長引かせるかは、蔡破の胸三寸で決まるのだ。
「お覚悟はよろしいか――――」
嗜虐的な色を帯びた蔡破の問いに、夏凛は沈黙で応じた。
絶体絶命の状況に追い込まれてなお、少女の瞳は絶望に抗い続けている。
この期に及んで希望を失っていないことに、むしろ蔡破のほうが驚いたほどだった。
(何か、何か手はあるはず……)
活路を見出すため、夏凛はすばやく周囲に視線を走らせる。
地下水が染み出しているのか、隧道の壁面はしとどに濡れている。
水分は壁と天井を支える木柱にも染み込み、一見すると木材とは分からないほどに黒ずませている。
そのことに気づいたとき、夏凛はおおきく目を見開いていた。
少女の足が勢いよく地を蹴ったのは次の瞬間だった。
「何をする!?」
夏凛は全体重をかけて突進する。
蔡破に体当たりを仕掛けようというのではない。
そんなことをしても、返り討ちに遭うのが関の山だということは、もちろん承知している。
狙うのは、隧道を支えている木柱だ。
地下水を吸い込み、ほとんど腐りかけている木柱は、一定の衝撃を加えればたやすく砕け散るはずだった。
少女の華奢な身体でも、十分な加速をつけさえすれば、それに足るだけの破壊力を生み出すことは出来る。
はたして、水を吸って柔くなっていた木柱は、夏凛の突進に耐えきれずに半ばからへし折れた。
それも一本だけではない。
崩壊は連鎖し、天井を支えていた支保工までもが剥がれ落ち始めた。
頭上から降り注ぐ木片に、蔡破はたまらず数歩も後じさる。
その一瞬の隙を夏凛は見逃さなかった。
ぬかるみに足を取られそうになりながら、蔡破の傍らをすり抜けていく。
そうはさせじと鉄爪が銀の弧を描く。
薄闇にはらはらと舞い散ったのは、絹糸のような夏凛の黒髪だ。
凶器の一撃は、少女の柔肌に傷をつけることなく、むなしく空を切った。
すんでのところで難を逃れた夏凛は、もはや蔡破には目もくれず、出口を目指してひた走る。
(逃げなきゃ……私は、まだこんなところで死ねない……!!)
そのあいだにも、蔡破は背後から猛然と迫ってくる。
もし追いつかれれば、そのときこそ夏凛の命運は尽きるだろう。
洞窟の狭隘さも、先の見えない暗闇も、いまの夏凛の足を止めることは出来ない。
息も上がりかけたころ、どこからか清涼な風が吹き抜けていった。
出口が近づいている。
「待てッ!!」
蔡破の怒声を振り切るように、夏凛は闇のなかを一心不乱に駆け抜けていった。
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