第58話 死線(一)

 うららかな陽光が降り注いでいた。

 燦々たる日差しのなかでも、北の大地を吹き渡る風はやはり冷たい。

 一年を通して最も温暖な季節においてさえ、冬の気配を払拭することは出来ない。

 この地に息づくあらゆる生命は、ほんとうの温もりを知ることはないのだろう。

 中原で最北に位置する華昌国の、ここは北の国境くにざかいにほど近い最辺境であった。


 祥譲しょうじょうを後にしてから、はや三日――。

 夏凛たちの一行は、五剣峰ごけんほうへと至る街道をひたすらに進んでいる。

 街道とはいうものの、実際にはどこにでもある田舎道だ。

 沿道には何軒かの農家がぽつりぽつりと点在するばかりで、城市まちはおろか集落さえ見当たらない。

 道の先がとあっては、わざわざ好き好んでこの土地を訪れる人もないらしい。ここまでの道すがら、すれ違った旅人はわずかに数組だけだった。

 黒土がむき出しになった道には、四人の不揃いな影だけが落ちている。


てえ……」


 左の頬を抑えながら、怜は忌々しげに呟いた。

 透き通るような白皙の肌の持ち主だけに、赤く腫れ上がった部位はひときわ痛々しくみえる。

 允海いんかいと取っ組み合いになった際、肘打ちをまともに浴びたのだ。

 梁凱は懐から軟膏を取り出し、歩きながら怜の頬にぺたぺたと塗る。

 当初こそ薬くらい自分で塗れると断った怜だが、


――素人には正確な分量も分からないでしょう。貴重な薬を無駄遣いされては困る。


 言下に退けられ、いまでは梁凱の塗るに任せている。

 衆人環視のなかではとても出来ることではないが、幸いと言うべきか、ここでは他人の目を気にする必要もない。


「くそ……あの野郎、やってくれたぜ」

「だいぶ腫れは引いています。痛い思いをしたのは相手もおなじでしょう」

「まあな。お返しに鼻の骨へし折ってやったから、おあいこってとこだ」


 さすが猛者として名高い允兄弟の片割れだけあって、允海の執念は尋常ではなかった。

 頃合いを見て逃げようとした怜と梁凱に鬼の形相で追いすがり、三人は市中で大立ち回りを演じることになった。

 もし允彪いんひょうが止めに入らなければ、この程度では済まなかったにちがいない。


「それにしても、だ」


 言って、怜は鷹徳の肩を軽く小突いてみせる。


「本当によかったのか? よ」

「何の話だ。それから、その呼び方はやめてほしい。いままでどおり鷹徳と呼んでくれ」

「なら、鷹徳くんよ――おまえ、国王の命令に逆らっちまったんだろう。あの兄弟もよく引き下がったよな」

「それは……」


 鷹徳はごほんと咳払いをすると、居住まいを正して言った。


「僕はいずれ王太子として華昌国を背負うことになる。彼らに命令を聞かせられないようでは、この先多くの家臣を統べることは出来ない」

「言うねえ。留守のあいだに嫁さんが他の男に走らなけりゃいいが……待てよ、おまえにとっちゃそっちのほうが好都合か?」

「か、彼女とはまだ正式に婚礼を挙げた訳じゃない!! だいたい一国の姫に無礼だぞ!!」


 耳まで赤くなった鷹徳は、怜に掴みかかろうとして、するりと躱される。

 そんな二人をよそに歩き続けていた夏凛は、ふと足を止めた。


「凛殿、どうかされましたか?」

「あれ――何かしら?」


 言って、夏凛は街道からすこし離れた地面を指差す。

 周囲を下草に覆われているため見分けがつきにくいが、どうやらちいさな沼があるらしい。

 よくよく目を凝らしてみれば、水面はぶくぶくと不気味に泡立っている。

 そのうえ、炎暑にはほど遠い気候だというのに、大気には陽炎かげろうのようなものが揺らいでいる。


沼気しょうきですね」

「知ってるの? 梁凱?」

「このあたりの湿原や沼地ではよく見られるものです。火を近づけると燃えますが、ふだんは透明で臭いもありません。不用意に吸い込むと病を発しますから、あまり近づかれないほうがよろしい」

「その話なら、僕も聞いたことがあります!!」


 鷹徳は怜とのを一時中断し、夏凛の傍らに駆け寄る。


「遠いむかし、このあたりには人を食らう恐ろしい大蛇が棲んでいました。華昌国の初代国王は、父である聖天子から大蛇を討伐するよう命じられ、たったひとりでこの地を訪れたといいます」

「そんなヤベェ怪物のところに息子をひとりで送り込まれるとはひでえ話だ。親父に愛されてなかったんじゃねえか、そいつ?」

「いちいち人の話に茶々を入れるんじゃない!! ……弓の名手だった彼は苦闘のすえに大蛇を討ち倒し、その功績によって聖天子から華昌国を譲られました。大蛇の死骸は地の底に沈められましたが、恐ろしい毒は消えることなく、あのような沼気となっていまでも地上に吹き出しているのです」


 鷹徳の話に耳を傾けながら、夏凛は興味深げに湿原を見つめている。

 この大地の下では、大蛇の死骸がいまも腐敗し続けている――。

 荒唐無稽なおとぎ話と言えばそれまでだが、七国にはそれぞれ独自の建国神話と言うべきものがある。


 七国が経てきた七百年という長い歳月は、この世界から神話の色彩をことごとく削ぎ落としていった。

 かつて気ままに天空を舞っていたという竜は姿を消し、王の即位を寿ことほいだおおとりは、いずこかへ飛び去ってふたたび戻らなかった。

 名君の威徳を讃えて降り注いだという甘露の雨も、不老不死の神仙たちも、もはや二度とこの世に現れることはない。

 そんななかで、聖天子の血筋を現代いまに伝える各国の王家は、この世に残された最後の神秘にほかならなかった。


 かつては九つあったその王家も、いまや五家を残すばかりとなった。

 神話の時代は、いよいよ終りを迎えようとしている。

 あらゆる神秘と奇蹟とが否定されたあとに訪れるのは、もはやそれらが存在することすら許されない世界だ。

 神なき世――新たな時代は、すぐそこまで近づいている。


 歩きながら、夏凛はふと顔を上げた。

 青く霞んだ彼方では、五つの山峰が天空にその鋭い剣先を突きつけている。

 じかに目にすることは終生ないと思っていた五剣峰は、いまや手を伸ばせば届きそうなほど近くに聳立している。

 あの険しい山々を越えた先に、目指す沙蘭国はあるのだ。

 時代の流れに抗うためには、なんとしてもそこへ辿り着かなければならない。

 夏凛は両足にぐっと力を込めると、無意識のうちに駆け出していた。


***


 古塞里こざいりは、五剣峰の麓に佇む小集落である。

 かつてこのあたりには華昌国の砦が築かれていたが、ある大雨の晩、宿直とのいの兵士ごと大地の底に沈んでいったという伝説がある。

 死してなお猛威を振るう大蛇を恐れた人々は、封印のために神殿を建立した。いつしかその周辺に人が住み始めたのが、古塞里の集落の起源であるとされている。

 もっとも、現在の古塞里の近辺には、往時の悲劇を偲ばせるようなものは何ひとつ残っていない。

 そもそも実際に砦があったのかどうかさえ、いまとなっては判然としないのである。地の底に呑まれたのがいつごろの出来事だったのかも、長い年月を閲するうちに忘れ去られてしまった。

 この村に暮らす人々は、いにしえの伝説の真偽を知らず、ことさらに興味を示すこともない。

 彼らにとって目下の関心事は、来るべき冬をどう乗り切るかという一点に尽きる。

 辺境の厳しい自然は、遠い過去に思いを馳せる暇を与えてはくれないのだ。


 夏凛たちが古塞里の村に入ったのは、ほとんど日も傾きかけたころだった。

 このあたりでは唯一と言っていい集落であるこの村には、ときおり王都から派遣されてくる徴税吏や、交易商人向けの宿が一軒だけある。

 村はずれにあるというその宿を目指して歩くうちに、怜は周囲を見渡して、ちいさな声で呟いた。


「おかしいな――」


 独りごちるようなその言葉に、夏凛はおもわず問い返していた。


「おかしいって、何が?」

「いまの時期なら、冬に備えてそこらじゅうの家でひしお(塩漬け魚)を作ってるはずなんだが、どうも様子が妙だ」

「もしかしてお腹減ったの? わざわざここで食べなくても、宿に着いたらすぐ食事にしましょう」

「そうじゃねえ。醢っていうのは、内臓も頭もまとめて漬けるから、鼻がひん曲がるくらい生臭せえんだよ。俺が前にここらを通ったときは、村の外まで臭いが漂ってきたくらいだ」

「よく分からないけど……今年はたまたま不漁だったとか?」

「そんなことはねえはずだが……」

 

 怜はしばらく考え込んだあと、釈然としない面持ちで歩き出していた。

 漁獲量が多かろうが少なかろうが、冬のあいだの貴重な保存食である醢を作らないということは考えにくい。

 畑は凍りつき、猟に出ることもままならない厳冬期の蛋白源を確保することは、雪国の人間にとって死活問題なのである。

 あるいは今年は例年より雪解けが早く、早い時期から漁に出られたのかもしれない。

 覚悟してきた身としては肩透かしを食らった気分だが、あの臭いのなかで一晩過ごさずに済むのであれば、それに越したことはないのだ。

 

 探すまでもなく、目当ての宿はすぐに見つかった。

 宿と言っても、酒場と食堂と雑貨屋が一体となったである。そのどれもが中途半端であることは、この種の店のいわば宿命だ。

 お世辞にもきれいとは言えないが、それでも最低限の手入れは行き届いているらしく、辺境の安宿にありがちな近づきがたい雰囲気はない。


「四人様でしゅね――」


 夏凛たちを出迎えたのは、腰の曲がった老人だった。

 久しぶりに迎えた宿泊客だったのだろう。

 ただでさえしわだらけの顔をますますしわくちゃにしながら、老人は四人を部屋へと案内する。


「どうぞごゆっくりなしゃいまし……」


 ひとり部屋に入った夏凛は、ほっと安堵の息をつく。

 しばらく敵襲は絶えているとはいえ、道中ではつねに気を張ってきた。

 ただでさえ長旅で疲労が溜まっているところに、神経までもすり減らしてきたのである。

 緊張から解放された反動か、部屋の壁に上体をもたせかかったまま、夏凛はうとうとと寝入ってしまった。

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