第57話 遠路(五)

「……で、これからどうするつもりなんだよ?」


 周囲の様子を伺いつつ、怜は夏凛にむかって低い声で問うた。

 夏凛と怜、梁凱、そして鷹徳の四人は、中庭の植え込みのなかでじっと息を潜めている。

 幸い、一行の動向は見張りの兵士たちやいん兄弟にはまだ気づかれていないらしい。

 それも時間の問題だ。遠からず脱走は露見し、宿の内外にはネズミ一匹逃さぬ警戒網が敷かれるはずであった。


「まさか何も考えてないなんて言わねえだろうな」

「そ、それは……」

「あのまま逃げてりゃ、いまごろとっくにここから脱出してただろうぜ。おまえが鷹徳と話したいなんて言うからこうなって……」


 鷹徳は身を乗り出すようにして怜の言葉を遮った。


「やめろ!! 凛殿は悪くない!!」

「悪い悪くないの話はどうでもいい。問題は、どうやってここから逃げ出すかだ」

「いざとなったら、僕が王族として彼らに命令を――」

「それが通じる相手だと思うか?」


 怜はため息をつくと、腰帯に差した長剣に目を落とす。


「最悪、強行突破するしかねえな」

「戦うのか!?」

「あのクソ真面目な兄弟を黙らせるにはそれしかねえだろう。ったく、華昌国も面倒な連中をよこしやがったもんだ」


 言い終えるが早いか、怜の肩にぽんと手が置かれた。

 振り向いてみれば、例のごとく取り澄ました顔の梁凱と目が合った。


「なんだよ? センセイ?」

「あれをごらんなさい」

「あぁ?」


 次の瞬間、一行の目に飛び込んできたのは、宿の一角からもうもうと立ち昇る黒煙だった。

 火元は梁凱に割り当てられた部屋だ。障子越しにもあかあかと炎が燃え盛る様子が見て取れる。


「おい……あれ、あんたがやったのか!?」

「部屋を出るまえに、暖炉から火が出るように細工しておきました。部屋の戸は内側から閉ざしておきましたから、あれでしばらくは時間が稼げるはずです」

「あんたもなかなかワルだな、センセイよ」

「褒め言葉と思っておきます」


 兵士たちも火事の発生に気づいたのか、どこからか慌ただしい足音が聞こえてきた。

 夏凛は三人の顔をそれぞれ一瞥すると、


「行こう――」


 確固たる決意を込めて、そう言ったのだった。


***


 二つの巨躯が、旅館の廊下を風のように駆け抜けていった。

 允彪いんひょう允海いんかいの兄弟である。

 消火と宿の封鎖を部下たちに命じ、二人は別行動を取っている。


「見張りの兵どもはいったい何をしていたのだ!?」


 苛立ちを隠そうともしない允海とは対照的に、允彪はあくまで落ち着いている。

 これまで数えきれないほどの死線をくぐりぬけてきたこの男は、何があろうと動じることはない。

 弟をなだめるように、允彪は歴戦の武人らしく荘重な声で語りかける。


「若様はまだこの宿を出ていないはずだ。逃げ道もおおよその見当はつく」

「それはまことか、兄者? 玄関にも裏口にも人が通った形跡はなかったが――」

「俺を信じろ、かい


 駆けながら、允彪は顎をしゃくってみせる。

 顎先で指し示した先にあるのは、宿の厨房だ。

 兄弟は力任せに扉を蹴破ると、懐から双節棍そうせつこんを取り出す。

 はたして、無人と思われた厨房の内部には、たしかに人の気配があった。

 四人――とっさに物陰に身を隠しても、体温や息遣いまで消し去ることは出来ない。


「若様、観念して出てこられよ。もはや逃げ場はございませんぞ」


 允彪の呼びかけに、鷹徳はゆらりと立ち上がった。

 未来の貴公子は、兄弟の顔を交互に見つめ、切々たる声で懇願したのだった。


「たのむ――このまま僕たちを行かせてほしい」

「聞けませぬ。我らはあなたのお父上と、国王陛下の命を受けていることをお忘れか」

「無理は承知の上だ。それでも、僕はどうしても行かなければならない」

「あくまでわがままを通されるつもりならば、力ずくでお戻りいただくまでのこと。多少手荒な真似をしても構わないとのお許しは受けておりますゆえ」


 允彪と允海は、双節棍を手にじわじわと間合いを詰めていく。

 その動きに合わせるように、怜と梁凱、夏凛は、鷹徳を庇うように前に進み出る。


「うぬら、若様にいったい何を吹き込んだ!?」

「べつに俺たちは何も吹き込んじゃいねえよ――なあ、凛?」


 怜に水を向けられ、夏凛は何度も肯んずる。


「さあて……このまま逃げきれるかと思ったが、見つかっちまった以上はやるしかねえな」

「このような真似をして、もはや生きて帰れると思うなよ!!」

「まるで何もしなけりゃような口ぶりだな?」


 飄然と言って、怜は腰の長剣を抜き放つ。

 その隣では、梁凱が極細の針を袖口から左右の指へと移している。


「最初から俺たちを始末するつもりだったことくらい、とっくにお見通しなんだぜ」

「戯れ言を――」

「おまえらも汚れ仕事を押し付けられて災難だが、あいにくこっちもこんなところで殺されてやる訳にはいかないんでね」


 怜と梁凱はどちらも十分な間合いを取ったまま、允兄弟と対峙する。

 先に動いたのは允彪だった。

 まな板やら蒸し籠やらが載ったままの調理台を飛び越え、一気に肉薄する。

 狙いは怜だ。

 兄からやや遅れて疾駆した允海は、いったん梁凱に向かうと思わせて、にわかに方向を転じた。

 夏凛を人質に取るつもりなのだ。

 鷹徳が目の前の少女に特別な感情を抱いていることは分かっている。標的の弱みを握ってしまえば、もはや勝負はついたようなものだ。

 兄に劣らぬ武芸の達人である允海にとって、女子おなごひとりを生け捕りにする程度は造作もない。


 允海の面上をよぎった余裕の笑みは、しかし、たちまちに霧散していた。

 梁凱が投じた針が鼻先を掠めていったのだ。

 すんでのところで躱したつもりが、どうやら目算を誤ったらしい。

 ひとすじ流れた鮮血が鼻梁と上唇に朱線を結んだ。

 允海は両眼に怒りを漲らせながら、梁凱をきっと睨めつける。


「貴様、またしても我らの邪魔をするか!?」

「勘違いをされては困る。あなたの相手はこの私だ」

「おのれ――」


 怒気と殺意をまともに叩きつけられても、梁凱は動じる風もない。

 傍らに置かれていた幅広の料理刀をひょいと掴むと、掌でくるりと回転させる。

 そんな梁凱の一連の行動を目の当たりにした允海の顔に浮かんだのは、驚きでも怒りでもなく、あけすけなまでの嘲笑だった。


「そんなもので俺と戦うつもりか? 笑わせてくれる」

「あなたこそ、本来は棒術を得意としているはず。これでお互い五分と五分というものでしょう」

「その言葉、もはや取り下げることは出来んぞ!!」


 刹那、厨房を領した裂帛の雄叫びは、はたして兄弟どちらのものだったのか。

 夏凛と鷹徳の目と鼻の先で幕を開けたのは、二組の使い手による凄絶な死闘であった。

 どちらも一歩も譲らず、いつ果てるともしれない苛烈な攻防が積み上げられていく。

 加勢しようと短弓に手をかけた鷹徳にむかって、怜はするどい叱声を飛ばす。


「さっさと凛を連れて逃げろ!!」

「しかし――」

「こんな狭いところじゃおまえの弓は役に立たん!! もし俺たちに当たったらどうする!?」

「失礼な!! 僕はそんな不手際はしない!!」

「おまえらにここにいられると邪魔だってことくらい、見て分からねえか!!」


 半ば呆れたような怜の言葉に、ようやく鷹徳も自分の置かれている状況を理解したらしい。

 允兄弟にしてみれば、鷹徳を捕らえさえすればそれで事は済む。

 裏を返せば、鷹徳がここにいるかぎり、允兄弟は死に物狂いで戦うということだ。

 華昌国の精鋭である彼らは、たとえ討ち死にを遂げることになろうとも、みずからに課せられた任務を果たそうとするだろう。

 一方の怜と梁凱はといえば、どちらも生命が尽きるまで戦うつもりなど毛頭ない。

 適当なところで戦いを打ち切り、三々五々逃げ落ちるつもりであった。


「凛殿、こっちへ――」


 夏凛の返事を待たず、鷹徳は厨房の勝手口へと走り出していた。

 空の鍋をひっくり返し、厨房内に置かれた野菜や果物を派手に飛び散らせながら、二人は脇目も振らず駆けていく。


「ここは俺に任せろ!! 兄者は若様を追ってくれ!!」

「おお――」


 兄弟がそんな言葉を交わしたときには、すでに少年と少女の姿はいずこかへと消え失せたあとだった。


***


「……ここまで来ればもう大丈夫でしょう」


 荒い呼吸を整えながら、鷹徳はようよう言葉を継いでいく。

 ここまで必死に駆けてきた夏凛は、肩で息をしながらうなずくのが精一杯だった。


「ですが、まだ安心は出来ません。あの二人が時間を稼いでくれているうちに、すこしでも遠くへ行かなければ」

「怜と梁凱は……」

「彼らにかぎって、むざむざとやられるようなことはないはずです」


 言って、鷹徳は周囲を見渡す。

 宿を脱出してからどれくらい走ったのだろう。

 二人が立っているのは、どこともしれない薄暗い路地だった。

 夜闇の彼方に目を向ければ、大通りの灯がおぼろげに揺らめいている。

 祥譲の城市まちでもひときわ寂れた一角らしく、周囲には通行人はおろか、野良犬一匹見当たらない。


「行きましょう、凛殿。城外に出さえすれば、……」

「待って、鷹徳!!」

「え……?」


 路傍の家屋の陰で何かが動いた。

 足音も気配も絶ったまま、幽鬼のごとくは姿を現す。

 鷹徳は夏凛を庇いつつ、反射的に短弓に矢をつがえていた。


「見つけましたぞ、若様――」


 允彪の声は、常にも増して低く錆びていた。


「もはやここまでです」

「なんと言われようと、まだ王都に戻るつもりはない」

「私もこの期に及んであなた様の了承を得ようとは思いませぬ。たとえ手足の一、二本も折れたところで、婚儀には差し支えありますまい。昌蓉しょうよう姫には申し訳ないが、これもお家のため……」


 允彪は双節棍を構えたまま、じりじりと間合いを詰める。


「若様、お覚悟あそばされよ――」

「やめろ。おまえは我が華昌国の宝だ。傷つけたくない」

「ご冗談を……武門の家の長子として、王族がたのに遅れを取るような鍛え方はしておりませぬ」


 武芸者にとって、みずからの技量を公然と侮辱されるほど耐えがたいことはない。

 允彪が悪気なく口にした一言は、鷹徳の闘争心に静かな火をつけた。


「凛殿、下がっていてください!!」


 叫ぶが早いか、少年は弓を携えたまま、横っ飛びに飛んでいた。

 澱んだ夜気を灼いて銀光が閃く。

 鷹徳が放った矢は、允彪にむかって一直線に飛翔する。

 小柄な体躯に似合わず、鷹徳は分厚い木板を一矢のもとに貫く強弓ごうきゅうの持ち主である。

 当然、命中すれば人間などはひとたまりもない。この至近距離であればなおさらだ。

 恐るべき威力を秘めた矢に襲われたにもかかわらず、允彪は取り乱す様子もない。

 わずかに上体を逸し、何事もなかったみたいにふたたび双節棍を構えなおす。

 骨ばった頬にぷっくらと血の珠が盛り上がる。

 薄笑いを浮かべながら、允彪は指で血を弾き飛ばす。


「まだ矢筋に甘さが残っておりますぞ。殺す気で参られい」

「そのつもりだ!!」


 飛び退きざま、鷹徳は息つく暇も与えずに二の矢、三の矢を放つ。

 二度、三度と乾いた音が立て続けに鳴り渡る。

 鷹徳の矢は、允彪の操る双節棍によってことごとく叩き落とされていった。


「――!!」


 第四の矢に備えて姿勢を立て直した允彪は、そのまま硬直した。

 さもあらん。鷹徳は、弓をに構えていた。

 新たにつがえた矢は、允彪ではなく、自分自身の喉元に向けられている。

 不自然な姿勢のために十全の威力にはほど遠いが、自殺には十分だ。


「若様、何を!?」

「手足の一本や二本は折れても構わない……そう言ったな」


 狼狽を隠せない允彪にむかって、鷹徳はにやりと不敵な笑みを浮かべる。


「だが……喉首を射抜いたのでは、おまえも父上や国王陛下に申し開き出来まい?」

「愚かな真似を!! おやめください、若様!!」

「やめてやってもよい。ただし、ひとつだけ条件がある」


 鷹徳はなおも矢を自分の喉に向けたまま、決然と言葉を紡いでいく。


「あと一月ひとつき、僕に時間をくれないか」

「何を言って……」

「一月経ったら、僕はかならずこの祥譲に戻ってくる。その後は王都に連行するなり何なり好きにしろ。僕は逃げも隠れもしない」

「我らがそのような脅しに屈するとお思いか?」

「これは脅しではなく、取り引きだ。国王陛下の勘気を被ればどうなるか、おまえたちもよく知っているはずだ」


 鷹徳はちらと夏凛を見やる。


「あと一月あれば、僕はこの方との約束を果たすことが出来る。それ以上のことは何も望まない。だから、たのむ、允彪――」


 それきりどちらも押し黙ったまま、時間だけが流れた。

 夏凛は鷹徳を見つめたまま、やはり言葉をぐっと飲み込んで立ち尽くしている。

 やがて、允彪は苦々しげに両眼を閉ざした。


「一月で戻ると、本当に約束していただけるのですね」

「この生命と先祖の名誉にかけて誓おう」

「まったく、困った若様だ。しかし、王族の男子が一度誓ったことであれば、よもや約束を違えることはありますまい」


 允彪は双節棍を懐に仕舞い込むと、さっと踵を返す。

 先ほどまでとは打って変わって、鷹徳への言葉にはあたたかな優しさと信頼が充ちている。

 そのまましばらく進んだところで、允彪は首だけで背後を振り返った。


以前まえよりも強くなられましたな、昌輝しょうき様。これも武者修行の賜物か。それとも……」


 夏凛を一瞥して、允彪はふっと相好を崩す。

 

「……今回の一件、昌蓉姫には伏せておきましょう。どうかお気をつけて。我ら兄弟、この城市まちであなたが戻られるのをお待ちしております」

「ありがとう、允彪……」

「ゆくゆくは王太子となられる尊貴な御方が、臣下にいちいち礼など申されるな。そのような惰弱な心構えでは、とても国王陛下の追及には耐えられませんぞ」


 国王陛下の追及という言葉に、鷹徳はびくりと肩を震わせる。

 呵呵と豪放な笑い声を上げながら、広く逞しい背中は、次第に遠ざかっていった。

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