第56話 遠路(四)

 戸を叩く音は二度続けて起こり、それきり静寂が戻った。

 夏凛はおそるおそる戸口に近づいていく。


「誰……?」


 わずかな沈黙のあと、引き戸の向こうで忍び声が応じた。


「俺だ――」

「怜!?」

「しっ、声がでけえ。……早くここを開けてくれ。物音を立てないようにな」


 怜に催促され、夏凛はあわてて戸を開け放つ。

 戸が開いたとたん、怜は室内にむけて「よいせ」となにかを放り投げた。

 次の瞬間、夏凛の足元に転がったのは、部屋の前に立っていた兵士であった。

 死体かと思って肝を冷やしたが、よく見ればまぶたが小刻みに痙攣している。どうやら気を失っているだけらしい。


「華昌国の兵士も案外ちょろいもんだ。腹が痛いと騒いだら、あっさり騙されやがった」


 呆然と見つめる夏凛を尻目に、怜は兵士の手足を手際よく縛り上げていく。


「なにボーッとしてんだ? 梁凱センセイを連れてとっととズラかるぞ。こんなところに長居は無用だ」

「でも……あの人たちは鷹徳を連れ戻すことが目的だったんだし、私たちはもう関係ないんじゃ……」

「甘いな。あいつらが俺たちを無事に解放してくれると思うのか」

「どういうこと?」

「考えてもみろ。未来の王太子サマが素性の怪しい連中と旅をしてたなんぞ、華昌国にしてみれば醜聞もいいところだ。……特におまえ。あいつにあんなことを言われたんじゃ、お坊ちゃんが旅の途中で作った愛人だと思われてるぞ。故郷で待ってる婚約者を放り出して駆け落ちなんてのはよくある話だ」

「私と鷹徳はそんな関係じゃない!!」

「でかい声を出すなと言っただろうが。他の兵士どもに気づかれたらどうする?」


 怜はあわてて夏凛の口に掌を当てる。


「とにかく、王侯貴族ってのは自分たちのメンツだの家名を守るためならどんなことでもする。俺たちもここに残ってたら、鷹徳の目の届かないところで始末されるだろうな」

「まさか――」

「確実に醜聞をもみ消したいなら、事情を知ってる人間ごと消しちまうのが一番確実だ。鷹徳自身が望まなくても、周りの連中が気を利かせて口封じをしてくれる。どこの国でも王宮ってのはそういうところさ」


 まるで見てきたかのように語りながら、怜はすばやく廊下に視線を巡らせる。

 いまのところ周囲に人の気配はない。見張りの兵士が目を覚ますまで、夏凛たちの脱走が気取られることはないはずであった。


「行くぞ、凛。あのいん兄弟もまだこの宿のどこかにいるはずだ。あいつらと出くわすと面倒なことになる」

「怜……私、ここを出ていくまえに鷹徳と話がしたい」

「正気か!?」


 心底から魂消えた声で問うた怜に、夏凛はこくりと頷く。


「おまえ、さっきの俺の話を聞いてなかったのか? いまはそんな悠長なことをやってる場合じゃ……」

「わがままを言ってるのは分かってる。だけど、こんな形で鷹徳と別れるのは嫌なの。もう二度と会えないならなおさらよ」

「あのなあ――」


 無理だ。諦めろ。

 途中まで喉を出かかった言葉を、怜はそのまま飲み込んだ。

 夏凛の黒い瞳がまっすぐに怜を見据えている。

 少女の視線には、何者にも屈しない力強さと、いまにも泣き出してしまいそうな危うさが同居していた。

 怜はふっとため息をつくと、薄目を開けて夏凛を見やる。


「……仕方ねえな」

「いいの!?」

「いいのも何も、おまえが言い出したことだろうが。もし俺たちまで逃げ遅れたら、そのときは責任取れよ」


 努めてぶっきらぼうに言い捨てた怜にむかって、夏凛は何度も何度も首を縦に振ったのだった。


***


 寝台にうつ伏せになったまま、鷹徳はさめざめと泣いていた。

 なすすべもなく王都に連れ戻される我が身を嘆いているのではない。

 いまの鷹徳にとって、そんなことは些事にすぎない。

 結婚話も、自分の帰還を待っている父と国王のことも、いまや思考の片隅に追いやられている。


――あんなことをして、僕は最低だ……。


 凛殿に嫌われた。

 はっきりとそう言われた訳ではないが、そんなことはわざわざ当人に尋ねるまでもない。

 当たり前だ。恋人でもないくせに、馴れ馴れしく抱き寄せたうえ、「この方と添い遂げる」などと声高に宣言するとは。自分で口にした言葉だというのに、思い出すだけで肌が粟立ってくるようだった。


 恥知らず――。

 思い上がった勘違い男――。

 これだから女心の分からない童貞は――。


 自分自身への罵倒の文句なら、際限なく浮かんでくる。

 いくら混乱していたからといって、許されることと許されないことがある。

 どさくさに紛れの一言で状況が好転するはずもなく、結局あとに残ったのは強烈な自己嫌悪と後悔の念だけだ。


「うわああああぁぁぁぁ~~~~……!!」


 鷹徳は両手で顔を覆ったまま、ごろごろと寝台の上で転がりまわる。

 もし時間が戻るのであれば、自分で自分を射殺してやりたい。

 同じ死ぬにしても、意中の相手に嫌われたまま死ぬよりは幾分マシなはずだ。

 鷹徳が頭を抱えてダンゴムシみたいに丸まっていると、こつこつと何かを叩く音が聞こえた。

 ふと目を上げれば、音は中庭に面した雨戸のあたりから聞こえてきている。

 やがて、雨戸を叩く音は人の囁き声に変わった。


「鷹徳、いる? ここを開けてちょうだい」

「凛殿っ!!」


 半死人のようだった鷹徳の顔に明るい色が差した。

 とっさに雨戸を開け放とうとして、少年ははたと手を止める。


「だ、駄目です……来てはいけません」

「なぜ? 私、鷹徳と話がしたくて……」

「僕にはあなたとお話する資格がないからです!!」


 鷹徳はうつむいたまま、一語一語を絞り出すように言った。


「僕は最低最悪の男です。凛殿にむかって破廉恥きわまりないことを口にしてしまいました。なんとお詫びすればいいのか、見当もつきません」

「さっきのこと? べつに私は気にしてないけど……」

「僕は自分で自分が許せないのです」


 鷹徳は苦しげな声でようよう答えると、ふたたび寝台にうつぶせになった。


「もう二度と会うこともないでしょう。沙蘭国との国境くにざかいまでご一緒出来ないのは残念ですが、僕のことは忘れてください。遠くから凛殿の旅のご無事を祈っていますみんなにもよろしく――」


 顔を伏せたまま、鷹徳は早口でまくし立てる。

 それきり沈黙が降りた。

 いきなり求婚したかと思えば、今度はにべもなく突き放す。

 あまりの自分勝手さに愛想を尽かして、彼女は早々に立ち去ったのかもしれない。――そうであってほしい。

 そんなことを思いながら、鷹徳が顔を上げようとしたときだった。


「本当にそれでいいの?」

「え……?」

「ここでお別れで、鷹徳は本当にいいの?」


 夏凛の問いかけを否定することも、あるいは肯定することも、鷹徳には出来なかった。

 

「私はここまで何度も鷹徳に危ないところを助けてもらった。それなのに何も言わずに別れてしまうのが嫌で、こうして会いに来たの」

「凛殿……」

「鷹徳が自分の意志で選んだことなら、私は何も言わない。部外者の私には何かを言う資格なんてないもの。だけど……」


 夏凛はそこでいったん言葉を切り、深く息を吸い込む。


「もしあなたが無理をしているのなら――そして、私に何か出来ることがあるのなら、遠慮なく言ってほしい。お別れの前に、すこしでもあなたに恩返しがしたいから」


 ややあって、鷹徳はちいさく「はい」と呟いた。

 涙混じりの声であった。

 こみ上げる嗚咽を隠そうともせず、少年はなおも言葉を継いでいく。


「僕は、自分の生き方というものに疑問を抱いたことはありませんでした。国王陛下や父上の言いつけを守り、言われるがままに婚約して、王族の慣習ならわしに従って武者修行の旅にも出ました。僕自身の意志で何かを決めたことなど、一度もなかった。……あなたに出会うまでは」


 雨戸に額を押し付けながら、鷹徳は赤裸々な胸のうちをさらけ出していく。


「僕は、あなたと出会って、生まれてはじめて心から誰かを愛しいと思ったのです。あなたと一緒にいられるのなら、決められた道を外れてもいいとさえ思いました」

「――」

「この思いが通じなくてもいい。嫌われてもかまわない。僕は、一日でも長く凛殿あなたのそばにいたい。この生命に代えても、あなたを守りたい」


 ほとんど血を吐くような声音で、鷹徳は思いの丈を叩きつける。

 すべてを語り終えた少年は、長い長い息を吐く。

 わずかな時間が流れた後、夏凛はためらいがちに言葉を返していった。


「私は鷹徳の気持ちに応えられるかどうか分からない」

「では、やはり、ここで……」

「それでも、私は鷹徳と一緒に旅がしたいよ。もしあなたが道に迷っているのなら、手を差し伸べてあげたいとおもう」


 雨戸はいつのまにか開いていた。

 木板の間隙から仄白い月明かりが差し込み、部屋を照らし出す。

 鷹徳の目の前には、思い焦がれてやまなかった少女のかんばせがある。


「凛殿――どうか、僕をここから連れ出してください」


 夏凛は何も言わず、ただ力強くうなずいただけだった。

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