第55話 遠路(三)
「若様ぁ~?」
おもわず素っ頓狂な声を出したのは怜だ。
「そうだ」
「まあ世間知らずで育ちのいいボンボンだとは思ってたが……で、いったいどこのお坊ちゃんなんだよ? こいつは?」
「口を慎め、無礼者!! こちらにおわす御方こそ、国王陛下の
野太い声を張り上げたのは弟の
思いもよらないその言葉に、夕闇迫る裏路地は一瞬に凍りついたようだった。
誰もが一様に
ややあって、夏凛がおずおずと口を開いた。
「……本当なの? 鷹徳?」
「鷹徳というのは、僕の
鷹徳はほとんど泣きそうになりながら、きゅっと唇を噛んでいる。
「昌輝。
***
華昌国王・
そのうえ、彼の兄弟は、かつての成夏国との戦でことごとく戦死を遂げている。
聖天子からおよそ七百年のあいだ受け継がれてきた華昌国の
壮年を過ぎ、もはや男児の出生は望めないと判断した昌盛は、分家筋にあたる
彼に自分の娘のひとりを娶らせ、婿養子という形で宗家の一員に迎えようと画策したのだ。
もっとも、昌盛としてはしょせん分家の子にすぎない昌輝――鷹徳に王位を譲るつもりは最初からない。
鷹徳はあくまで王位継承権を持たない王太子としたまま、将来的に王女とのあいだに生まれた子を次期国王に据えるというのが、昌盛の立てた計画だった。
もし幼くして玉座に就くことになったとしても、父親が後見人として傍らに仕えていれば問題は起こらない。そもそも政治の実際を担うのは宰相や大臣たちであり、国王があれこれと仔細に渡って指図をする機会はないのだ。
なお、七国において、一般的に同族間での婚姻はあまり好ましくないものされている。
反面、同じ一族同士であれば、にわかに権力を得た外戚が国政を壟断するといった懸念もない。おのれの寿命と周辺諸国の情勢を冷静に勘案したすえ、昌盛は建前よりも実利を取ったのだった。
それで後継者問題は片付くとして、問題は婿殿の境遇である。
王の子でありながら、永遠に玉座に就くことのない、名ばかりの王太子。
その空虚な肩書きすら、我が子が『本物』の王太子に立てられるまでのかりそめのものだ。
いずれ次期国王が即位すれば、後見人としての役割も手放し、臣下として親が子に仕えねばならない。
それだけではない。終生に渡って「
その立場がいかに無惨なものであるかは、多少なりとも宮廷の事情に通じている者であれば容易に察しがつく。
事実、かつて王家に婿入りした人物は、嫡子の誕生後まもなく、あまりの心労に耐えかねてみずから毒をあおったという。一国の王の父でありながら、彼の名前は歴史書に記録されることもなく、その遺骨は王族の墳墓に埋葬されることもなかった。婿養子とはそういうものである。
それでも、ほかならぬ国王の意向とあれば、しょせん分家の当主にすぎない昌永に断ることなど出来るはずもない。
自分のように将軍として戦場を駆け回っているうちに生涯を終えるよりは幸せだろう……そう自分自身に言い聞かせて、昌永は降って湧いた縁談話を二つ返事で引き受けたのだった。
かくして、当事者同士がろくに顔を合わせないうちに、周囲の大人たちによって結婚の準備はとんとん拍子に進められていった。
当時はどちらもまだ年少であったため、ひとまず婚約という形で棚上げとし、鷹徳の成人を待って正式な婚礼の儀を挙げることが決まった。
いまから七年ほど前のことである。
***
「なんでそんな奴がこんなところにいるんだよ!?」
「華昌国では、王族の男子は成人してから一年のあいだ、身分を隠して
「つまり、鷹徳くんはずっと俺たちに正体を隠してたって訳だな。うぶな顔して大した役者じゃねえか」
「隠したくて隠していた訳じゃない!!」
からかうように言った怜に、鷹徳は真剣な声で応じた。
「……武者修行の旅に出た者は、なにがあろうと自分から素性を明かしてはならないと決められている。皆に本当のことを伏せたまま旅をするのは辛かったが、それでも、先祖代々の掟を破る訳にはいかなかった」
沈鬱な表情でうつむいた鷹徳に、允彪は気遣わしげに声をかける。
「若様、我らとともに来ていただけますね? すでに約束の期限は過ぎております」
「まだ修行は終わっていない。私はいましばらくこの者たちと旅をするつもりだ。おまえたちは急ぎ王都に戻り、父上にそのようにお伝えしてくれ」
「お父上の昌永様だけではありません。国王陛下も、あなたが一年を過ぎてもまだお戻りにならないことを心配なさっておいでです」
「陛下が――」
鷹徳の面上をよぎったのは、隠しようもない恐怖の色だった。
帰還を望んでいるのが父だけなら、まだわがままを通す余地もある。
だが、国王の命令となれば別だ。最高権力者である王の言葉は、その支配下にあるすべての人間に対して有形無形の強制力をもつ。
正式な勅命が下った訳ではないにせよ、主君がそのように望んだとあれば、臣下としては無視する訳にはいかないのだ。
「ご帰還次第、
婚約者の名前を久しぶりに耳にして、いよいよ鷹徳の顔は青ざめていった。
昌蓉は、鷹徳より五歳年上の二十一歳。才色兼備の美姫として評判高いが、本来であればとうに他家に嫁ぎ、子を産んでいるはずの年齢である。
国王としても、訪う人とてない
女子ばかりではない。国王が鷹徳に期待するところも、やはりその一点に尽きるはずだった。
「それでも、私は……」
「何を迷われることがある。やはりこの者たちが若様をたぶらかし、こんなところまで連れ回していたのですか。帰還が大幅に遅れていることも、こやつらのせいだとすれば合点が行きます。かくなる上は、我ら兄弟がこの不埒者どもに鉄槌を……」
「違う!! ここまで旅をしてきたのは、私自身の意志だ。彼らは関係ない!!」
双節棍を取り出そうと懐に手を入れた允彪と允海にむかって、鷹徳は自分でも意外なほどの大声で叫んでいた。
「……私はまだ王都には戻らない。国王陛下と父上には、おまえたちからよく取りなしてくれ」
「本気で仰っておいでか!?」
「私は皆と北の
「年甲斐もないわがままを申されるな。すでに婚礼の準備は始まっているのですぞ。もしあなたがお戻りにならなければ、どれほどの迷惑をかけることになるか……」
鷹徳はちらと夏凛のほうを見やる。
あまりのことに理解が追いついていないのか、少女は呆然と立ち尽すばかりだった。
そんな夏凛に何か言葉をかけようとして、鷹徳は唇を固く結ぶ。
やがて、鷹徳は覚悟を決めたように允兄弟を見据えると、
「私はこの方と添い遂げると決めた――昌蓉殿との婚約は白紙に戻す。国王陛下には、そのようにお伝えしてほしい」
夏凛の肩をずいと抱き寄せながら、高らかに宣言したのだった。
***
寝台に身体を横たえた夏凛は、あたりを見回してため息をついた。
広い室内は清々として、各所に配置された調度品はどれも上質なものばかり。
それもそのはずだ。允兄弟が夏凛たちの宿として手配したのは、
宿泊の世話をしたといえば聞こえはいいが、実際は体のいい軟禁である。
部屋の外には長剣を佩いた兵士が立ち、夏凛たちが逃げ出すことのないように見張っている。
それぞれの部屋に備わっているテラスを通って中庭に出ることは可能だが、旅館の建物自体が壁となって四方を囲っているため、いずれにせよこの場所から出ることは叶わない。
――いまの言葉は聞かなかったことにします。若様、今夜ひと晩、よく頭を冷やしてお考えになられませい。
その場に取り残される格好になった夏凛と怜、梁凱も、
逃げ出そうにも、相手が華昌王家の関係者だと判明した以上、もはや祥譲の
おとなしく従っておくのが賢明であることは、あえて意見を戦わせるまでもなく分かっている。
――いいんじゃねえか? 俺たちの宿賃はあいつらが出してくれるっていうんだし、おかげで上等な宿に泊まれるんだ。いやはや、まったく若様さまさまだね。
この状況に危機感を抱く風もなく、怜はあっけらかんと言うと、さっさと自分の部屋に引っ込んでしまった。
梁凱は夏凛の隣の部屋を指定し、
――何かあれば、すぐに私を呼んでください。
囁くような声で言って、音もなく部屋のなかに消えていった。
いまのところ、允兄弟は夏凛たちに危害を加えるつもりはないらしい。
もちろんそれも理由あってのことだ。迂闊な真似をすれば、鷹徳の心はますます頑なになる。彼らの任務は『若様』を無事に王都に連れ帰ることであり、そのためであれば殺人も辞さない一方、態度と手段の硬軟を使い分ける必要があることも心得ている。
夏凛はごろんと寝返りを打ちながら、ぼんやりと天井を見つめている。
すこし眠ろうとまぶたを閉じても、さまざまな考えが次から次へと浮かんでくる。
無理もないことだ。
今日一日であまりにも多くのことに見舞われたのだから。
目を瞬かせるたび、
(まさか、鷹徳が……)
華昌国王である昌盛は、たびたび軍を送って国境を侵したということもあり、成夏国の人間からは蛇蝎のごとく嫌悪されている。
その性格は残忍にして徳は
夏凛にしても、実際に華昌国を旅するうちに一般の人々への先入観はすっかり払拭されているが、華昌国王への悪感情はいまなお心の奥底にわだかまっている。
それは昌盛だけにとどまらず、華昌国の王族すべてに当てはまることだ。
……正しくは、だった、と言うべきかもしれない。
鷹徳の素性を知ったいまでは、かつてのような嫌悪感を抱き続けるほうが難しい。
どこか空想上の
すくなくとも、生命がけで自分を守ってくれたあの少年は、誰よりも人間らしい顔をしている。
(さっき言ってたこと、もしかして本気だったのかな――)
心のなかで呟きながら、夏凛は頬が火照っていくのを自覚していた。
正直なところ、夏凛としては、鷹徳が本心から自分との結婚を望んでいるとは思っていなかった。
ただ実家に帰りたくない一心で適当な出まかせを言っているのだと、そう判断したのだ。
出自に衝撃を受けてそれどころではなかったが、そうでなければ適当に口裏を合わせてやったかもしれない。
しかし、いまになってよくよく思い返してみると、ただの出まかせにしてはあまりに真に迫りすぎていたような気もする。
軽薄な怜ならともかく、生真面目を絵に描いたような鷹徳である。とてもではないが、好きでもない女を抱き寄せ、歯の浮くような台詞を吐ける器ではない。
胸騒ぎがするような、背中がむず痒いような、いわく言いがたい感覚が夏凛を戸惑わせた。
初対面のときから好感を持ってはいたが、それは無法者に立ち向かう彼の勇気と義侠心に感じ入ったからだ。
明確に異性として意識したことは一度もなかった。手を握られてもなんとも思わなかったし、それは隣で寝ていたときも同じだ。
しかし、彼のほうはそうでなかったとしたら?
自分が成夏国の王女だと知っても、鷹徳は好きだと言ってくれるだろうか?
夏凛は寝台にうつぶせになりながら、とりとめもない考えが湧き起こるに任せている。
こつこつと戸を叩く音が聞こえたのはそのときだった。
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