第54話 遠路(二)

 暦の上では夏の盛りだというのに、風は真冬の気配を忍ばせていた。

 彼方に目を向ければ、茫洋とかすむ大気のなかで、五つのするどい峰々が天に挑んでいる。

 五剣峰ごけんほう――華昌国と沙蘭国のあいだに横たわる大山脈は、中原でも屈指の難所として知られている。

 たんに標高が高く、道が険しいというだけではない。

 山中には人家はおろか山小屋さえなく、どこまでも見渡すかぎりの白く孤独な世界が広がっている。

 山裾に黒々と広がる針葉樹林タイガは、登山を始めてまもなく姿を消し、標高が上がるにつれて原始的な苔類や菌糸類さえも見かけることは少なくなっていく。

 食物連鎖の底辺に位置する植物が乏しいということは、植物を餌とする小動物や鳥、それらを喰らう大型動物も乏しいということだ。

 下界で人を脅かす雪熊やヒョウといった猛獣さえ、およそ生命の気配のない世界では、見る者にひとときの心の安らぎを与えるほどだった。

 ひとたび五剣峰に足を踏み入れた者は、いつ果てるともしれない荒涼たる峠道を越えていかなければならない。

 極限の環境は、山に挑む者の肉体だけでなく、精神をも責め苛む。

 屈強な男でさえ音を上げ、悪くすれば狂気を発するとは、けっして大げさな話ではないのだ。

 その五剣峰をめざして、夏凛たちは北方への旅を続けている。

 

 梁凱が仲間に加わってから、すでに十日。

 そのあいだ昼夜の別なく警戒を怠らなかったのは言うまでもないが、おおかたの予想に反して、敵が目立った動きを見せることはなかった。

 おそらく現在いまも尾行は続けているのだろう。ここまでの道行きですれ違った多くの旅人や行商人のなかにも、あるいは敵の密偵が紛れていたかもしれない。

 一日また一日と平穏に過ぎても、一行の誰ひとりとして安堵に胸をなでおろす者はいなかった。

 敵が仕掛けてこないことに拍子抜けするよりも、沈黙を保ち続けている不気味さのほうが先に立ったのである。

 つねに緊張を強いることで、夏凛たちの心身を消耗させようというのか。それとも、襲撃に最適な状況が訪れるのを待っているのか。

 どちらにせよ、見えない敵との戦いほど神経をすり減らすものもない。


――どうしたものか……。


 夜ごと焚き火を囲み、意見を突き合わせたすえに四人が至った結論は、


――敵が襲ってこないなら、このまま先を急ごう。


 というものであった。

 もちろん、それしきのことで暗殺者の追撃を振り切れるとは誰も思っていない。

 敵襲を恐れて荏苒じんぜんと時を過ごすよりは、すこしでも目的地に近づくほうが得策と判断したまでのことだ。

 かくして夏凛たちは街道を北へと歩き続け、ついに五剣峰の麓に至ったのだった。


***

 

 夏凛たちの一行が、五剣峰を望む小都市・祥譲しょうじょうに入ったのは、日も暮れかけたころだった。

 小都市とはいうものの、この近辺では最大の人口をほこる都市である。

 ここまでいくつもの村落を通過してきた夏凛たちだが、全周を隙間なく囲繞いにょうする本格的な城壁を持つ城市まちは、呂江ろこう以来だった。 

 国境にほど近い立地ということもあり、つねに千人からの部隊が駐屯するこの城市は、軍事要塞としての側面も持っているのだ。


 城門をくぐった夏凛たちは、そのまま市街地の中心部に足を向ける。

 大通りにはさまざまな商店が軒を連ね、日没が迫っても人の往来が絶える兆しはない。

 これほど賑わっている場所であれば、敵もうかつに襲撃を仕掛けることは出来ないはずだった。ボウ帝国と華昌国かしょうこくは建前の上では相互不可侵の約定を交わした同盟国であり、皇帝・朱鉄の命を帯びた刺客が町中で騒動を起こしたとなれば、両国の関係にも亀裂が入りかねない。

 もっとも、そのことを知っているのは、一行のなかでも夏凛と梁凱だけだ。

 怜と鷹徳はいまだ敵の正体を知らずにいる。夏凛の素性も、また。


「久しぶりにちゃんとした寝床で眠れそうね!」


 道沿いに宿屋の看板を認めて、夏凛は弾むような声で言った。

 梁凱の庵を出てからここ祥譲しょうじょうに辿り着くまで、あるときは夜露にそぼ濡れ、あるときは農家の納屋を借り受けて、一夜の仮宿としてきたのである。

 そんな日々が続いていただけに、まともな寝床で眠ることが出来る喜びはひとしおだった。


「油断するなよ。どこに敵が潜んでいるか分からねえんだぞ」

「もちろん分かってるわよ。――ここまで急いできたから、みんなも疲れてるでしょう。やっと五剣峰も見えてきたことだし、今夜はゆっくり身体を休めたほうがいいわ」

「そうさせてくれりゃいいんだがなあ……」


 言って、怜は鼻をすする。

 それに釣られたように、鷹徳もくしゃみをしていた。


「さすがに北の国境の近くだ。夏だってのに冷えてきやがった」

「この辺りを旅するのは初めてだが、とても八月とは思えないな……」

「五剣峰とその麓は一年じゅう冬みたいなものだ。街を出るまえにいろいろ買い揃えておかないと、山越えのまえに凍え死にする羽目になるぞ」


 怜が足を止めたのはそのときだった。

 すばやく周囲に視線を巡らせたあと、梁凱に目配せする。


「どうしたの? 怜?」

「……ちょっと野暮用を思い出した。凛、おまえは鷹徳とその辺の飯屋にでも入ってろ。なるべく人の多いところにしろよ。俺とお医者のセンセイは、後から合流する」

「梁凱も一緒になんて、珍しいわね」

「まあな。たまには男同士で話したいこともあるんだよ」


 首をかしげる夏凛をよそに、怜と梁凱は互いにうなずき合う。


「鷹徳、凛を頼んだぞ」

「分かっている。あなたと梁凱殿が戻るまで、僕が凛殿を守ってみせる」

「二人きりになるからって、妙な気を起こすなよ」


 耳の先まで真っ赤になった鷹徳にむかってひらひらと手を振ると、怜は梁凱を伴って雑踏のなかに消えていった。


***


「奴らはちゃんとついてきてるか、センセイ」

「ええ。……二人。巧妙に気配を殺していますが、尾行されているのは間違いないでしょう」

「さすがだな。見込んだ甲斐があったぜ」


 低い声で話しながら、怜と梁凱は裏路地に入っていった。

 表通りの賑わいとは打って変わって、薄暗い裏路地には人気もなく、空気には胸の悪くなるような臭いが充満している。

 二人は一定の距離を保ったまま、細い路地を奥へ奥へと進んでいく。

 がさり――と物音が生じた。

 突然の足音に驚いたのか、前方の暗がりから野良猫が飛び出したのだ。

 茶と黒が混じった毛の色が闇に溶け切るまえに、怜と梁凱は揃って身体を翻していた。


「出てこいよ。いるのは分かってんだぜ」


 しばらく待っても、言葉は返ってこなかった。

 その代わりと言うように、ゆらりと黒い影が動いた。

 どこからともなく裏路地に現れたのは、はたして二人の壮漢だった。

 一見すると、何の変哲もない町人のようでもある。

 それでも、ごつごつと節くれだった拳と、長袍の上からでも容易に見て取れるほどに盛り上がった筋肉は、彼らがただの町人ではないことを物語っている。


「今回の奴らはいままでの連中とはだいぶ雰囲気が違うな」

「敵の実力が分からない以上、慎重に動くべきです」

「分かってるさ。センセイこそ、怪我するなよ」


 怜は半身になりながら、長剣の剣柄けんぺいに手をかける。

 剣呑な空気が裏路地を満たしていく。二人と二人のあいだに奔騰したのは、静かな殺気だった。


「おまえら、凛を狙ってるんだろう」

「違う――」


 答えたのは、二人のうち背の高いほうの男だった。

 ただ長身というだけではない。腕は丸太みたいに太く、がっしりとした腰回りは大樹の幹を彷彿させた。

 武人らしく短く刈り上げた頭に縦横に走る傷痕は、彼がこれまで潜り抜けてきた修羅場の数を教えている。

 この男がその気になれば、家の一軒くらいは素手であっさりと解体してみせるだろう。


「違う?」

「我々が追っているのは、あの娘ではない」

「ちょっと待て。話が見えねえ」

「我々もおまえたちには聞きたいことが山ほどある。すこし付き合ってもらおうか」


 その言葉が合図だったのか、二人の男はずいと間合いを詰める。

 傷の男ほどではないが、もうひとりの男も、堂々たる体格の持ち主であった。

 細面である分、眼光のするどさではいくらか勝っている。


「断ったら?」

「力ずくで連行する」

「なるほどな。見た目通りわかりやすい野郎だ――」


 にやりと笑って、怜は長剣を抜き放つ。


「手向かうつもりか?」

「まあな。美人ならともかく、むさ苦しい男に囲まれちゃ、どんな美味い酒も不味くなる」

「抵抗は身のためにならないぞ」

「そこまで言うなら、ひとつ試してみるか」


 長剣の刃を寝かせながら、怜は横目で梁凱を流し見る。

 銀髪の少年医師の手のなかで冷たく輝くのは、極細の針であった。


「センセイ――」

「分かっています。トドメを刺さないよう善処しましょう」

「奴ら、どうも気になる。凛を狙ってこないなら、このあいだの連中とは別かもしれん」


 そうするあいだにも、男たちは懐に手を差し込み、棒状のものを取り出していた。

 薄闇のなかにあって黒光りするそれは、まさしく双節棍そうせつこんであった。

 二つの棍を紐で結んだ攻防一体の武器は、衣服や荷物への隠匿が容易であるため、表立って武器を携行出来ない用心棒や刺客に愛好されている。

 長身の男が「はっ」と短く叫ぶや、双節棍がすえた空気を引き裂いた。

 もちろん、闇雲に振り回して威嚇している訳ではない。

 周囲の空間にどれほどの余裕があるかを計測しているのだ。


「覚悟は出来ているな」

「さっさと来いよ。こっちも人を待たせてるんだ」

「忠告はしたぞ……」


 四本の足は、ほとんど同時に地面を蹴っていた。

 男たちは互いに絶妙な距離を取りつつ、つねに位置を入れ替えながら怜と梁凱に迫る。

 一分の隙もない、それはみごとな連携であった。

 感心する間もなく、双方向から二本の双節棍が襲いかかる。

 まともに喰らえば骨も砕ける猛撃を、怜は軽やかな身のこなしで躱していた。

 鈍い音が夕刻の路地に響いた。退きざま、怜が傷の男へと送った斬撃は、すんでのところで双節棍に受け止められていた。

 棍の表面には獣皮が幾重にも巻かれているらしい。弾力性に飛んだ皮は、十分な厚みがあれば、長剣の刃を通さないほどの防御力を発揮する。 

 好機と見たか、二人の男は怜ひとりに狙いを定め、巨体を踊らせていた。 


「伏せなさい!!」


 言うが早いか、梁凱の手から数条の銀光が迸った。

 髪の毛ほどの細さの針だ。一つひとつは細く弱いが、経絡ツボに刺されば神経を麻痺させ、眼球に当たれば視覚を奪う。それを可能たらしめているのは、梁凱の卓抜した技量であった。

 間一髪のところで身を屈めた怜の頭上すれすれをかすめた針は、男たちの顔面へと殺到する。

 音もなく銀閃が周囲に散った。

 双節棍を正確に操る技術と、針の軌道を見切る眼力。そのどちらかが欠けても成り立たない神技を、男たちは二人が二人ともやってのけたのだった。


「何者だ、てめえら? ただの殺し屋じゃあるまい」


 剣を構えたまま、怜は心底からの驚嘆を込めて言った。


「おまえたちに答える義理はない」

「そう言うと思ったぜ」


 梁凱はあらたな針を指に挟みつつ、二人の顔をまじまじと見つめている。

 ややあって、ひとりごちるみたいに呟いた。


「そういえば、聞いたことがあります。――華昌国軍には、棍と棒の扱いにかけては天下無双の二人の猛者がいると。名前は、たしかいん兄弟……」

「いかにも。私が長兄の允彪いんひょう。そして……」

允海いんかいだ」


 名乗りながら、二人の戦士はふたたび構えを取る。


「その允兄弟とやらがなぜ俺たちを狙う!? それも凛が狙いじゃねえとは、いったい誰の差し金だ!!」

「言ったはずだ。おまえは知る必要がないと……」

「そんな答えで納得出来ると思ってんのか」

「何も心配することはない。……


 允彪は双節棍を両手に構えると、力強く前方に突き出す。

 允海もやや遅れて兄の動作をなぞる。

 二人の兄弟が醸し出す鬼気は激しく渦を巻き、怜と梁凱へと吹き付ける。

 四人のあいだに張り詰めた緊張によって、時間さえも凝結したようであった。


「行くぞ――」


 ふいに允兄弟の背後に気配が生じたのはそのときだった。 

 

「怜!! 梁凱殿!! 無事だったか!?」


 声の主は鷹徳だった。

 夏凛を背中に隠しながら、少年は一目散に裏路地を駆けてくる。


「このバカ!! なんで追いかけてきたんだ!!」

「そんな言い方はないだろう。僕と凛殿はあなたたちが心配で……」

「おまえは引っ込んでろ!! いまその連中とやりあってる最中だ」

「その連中……?」


 允兄弟は臨戦態勢を取ったまま、片目だけで背後を見やる。

 

「……!!」


 鷹徳の顔を認めたとたん、二人の顔に驚きとも焦りともつかない色が浮かんだ。

 次の瞬間、二人の巨漢は双節棍をすばやく懐に収め、示し合わせたみたいに膝を折っていた。

 そして、あっけに取られたように立ち尽くす怜と梁凱に背を向けたまま、やはり二人同時にうやうやしく拱手の礼を取る。

 わずかに顔を上げた兄弟は、鷹徳にむかって朗々たる声で言ったのだった。


「お久しうございます」


 先ほどまでとはまるで別人みたいに礼儀正しく、優しげな声音であった。

 二人の言葉には害意など欠片も含まれていないにもかかわらず、鷹徳の顔はみるみる青ざめていく。


「お父上の命により、あなた様をお迎えに参上いたしました。このままご同行願えますね――

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