第53話 遠路(一)
「凛っ!!」
木立の合間に人影を認めて、怜はほとんど反射的に叫んでいた。
あたりの空気には、血の匂いが濃く混じっている。
遅かった――最悪の想像が脳裏を駆け巡る。
「怜、凛殿を見つけたのか!?」
「分からん。分からんが、戦いがあったのはまちがいない」
「凛殿は無事でいるだろうか……」
「それをいまから確かめに行くんだろうが。おまえも男なら、メソメソするな!!」
いまにも泣き出しそうな鷹徳を叱りつけるように言って、怜は駆け出した。
動くたびに腹の傷がちくりと痛む。体内に残った毒のせいで、手足の感覚はまだあいまいなままだ。
それでも、足を止めるつもりはなかった。
なぜ傷ついた身体に鞭打ってまで少女のもとに急ぐのか、怜は自問する。
――あの娘を助けたいのか?
――それとも、首飾りを無事に取り戻したいだけか?
その答えはどちらでもあり、どちらでもないはずだった。
いまの怜を衝き動かしているのは、身体を動かしていなければどうにかなってしまいそうな焦燥感だった。
きっと、あんな夢を見たせいで。
いまはなにかを失うことがただただ怖い。ほんとうに泣いてしまいそうになっているのは、鷹徳ではなく自分のほうだ。
と、ふいに木立が途切れた。緑色に閉ざされていた視界に空の青がまぶしい。
濃密な血の匂いに満たされたそこは、森のなかにぽっかりと口を開けた広場だった。
視線を巡らせるまでもなく、広場の一角に佇んでいる凛と梁凱が目に入った。
「あの男――」
とっさに長剣を抜こうとした怜を、鷹徳はほとんど背後から抱きとめるように制止していた。
「あの人は敵じゃない!! あなたを助けてくれた
「医師?」
「ええ、名前はたしか梁凱と……」
そのあいだにも、梁凱は二人にむかってゆっくりと近づいてくる。
「驚きました――たった半日で起き出したうえに野山を走り回るとは、ずいぶん元気な患者もいたものです」
「……あんたが俺を手当てしてくれたのか?」
「ええ。あと数刻遅れていればいまごろ冷たくなっていたでしょうから、運がよかったですね」
「そのことには、礼を言っておく。だが……」
梁凱はあくまで飄々と言って、広場から立ち去ろうとする。
遠ざかりつつあるその肩を怜の手が掴んだ。
「待て。ここで何があった?」
「何を……と言われても、いったい何のお話をしているのやら」
「とぼけるなよ。俺たちが来る前にこの場所で戦いがあった。違うか、センセイよ?」
梁凱は怜の手を払いつつ、ふうとため息をつく。
この男には、下手な言い訳ではとても誤魔化しきれないと思ったのだろう。
わずかな沈黙のあと、梁凱は怜に背を向けたまま語りはじめた。
「このあたりをうろついていた不埒者に絡まれただけです。多少の血は流れましたが、私も彼女もご覧のとおり無事ですよ」
「あんたが敵を片付けたのか?」
「そう思っていただいて構いません。こう見えて、多少の護身術の心得はありますので」
「護身術ね……」
怜は訝しげに言って、夏凛に視線を向ける。
一瞬びくりと肩を震わせた夏凛は、ためらいがちに口を開いた。
「怜、あのね、私――」
「怪我はないか?」
「私は平気だけど……怜のほうこそ、傷は大丈夫?」
「見てのとおりだ。大したことはない」
言い終わるが早いか、怜は脇腹を抑えてうずくまった。
額には脂汗が浮かんでいる。薬の鎮痛効果が切れたのか、緊張が途切れたことで痛覚がよみがえったのか。
じわじわとこみ上げてくる痛みと熱に耐えかねて、怜はちいさく呻いた。
「なるほど――見てのとおりですね。完治するまでくれぐれも無理はしないことです。長生きしたければ、医者の忠告は守るものですよ」
梁凱はちらと怜を一瞥すると、さっさと歩き出していた。
鷹徳と夏凛に両脇を支えられた怜は、唇を噛んでその背中を見送ることしか出来なかった。
***
結局、その日は何事もなく暮れていった。
戦いに敗れ、ほうほうの体で逃げ帰った三人の刺客は、梁凱が延髄に刺した針の作用によって、いまごろは森のどこかで深い眠りについているはずだった。
敵の本隊にこちらの居場所を知らせていないとすれば、すくなくとも一両日中は追っ手がかかる心配はない。
怜と鷹徳が眠ったのを確かめたあと、夏凛はひそかに梁凱の私室を訪ねた。
他の部屋と同様、清潔だが飾り気のない室内に、白髪の医師はぽつねんと佇んでいる。
座卓の上でしきりに手を動かしているのは、武器であり治療器具でもある針の手入れをしているのだ。
広げた麻布の上にそっと針を置き、梁凱は夏凛に顔を向ける。
「……うら若い女性がこんな夜更けに男の部屋を訪ねるとは、誤解されても文句は言えませんよ」
「わ、私べつにそんなつもりじゃ――」
「もちろん冗談です。それで、私に御用ですか?」
わずかな逡巡のあと、夏凛はぽつりぽつりと語りはじめた。
「昼間のこと……老師の慧眼がどうこうって、あれはどういう意味だったの?」
「ああ、そのことですか」
梁凱はふっと微笑を浮かべると、両眼を閉じて語りはじめた。
「
「老師は、私がここに来ることを知っていたの!?」
「いいえ。いくら我が師が天下に並ぶ者なき賢才といっても、そこまでは見通していなかったはずです。かく言う私も、成夏国の末裔が立つのは、早くともあなたの子供や孫の代だとばかり思っておりました」
梁凱は薄く目を開くと、夏凛をまっすぐに見据えたまま、なおも言葉を続ける。
「医術を修めても、不老不死になれる訳ではありません。私もいずれは老いる。この身体も思うとおりに動かなくなる。自分が動けるうちに成夏国の後継者が現れそうにないときに備えて、そろそろ子供でも作ろうかと考えていたところでした」
「奥さんがいるの?」
「いいえ。ただ、頭数は多いほうが好都合でしょうから、元気なうちになるべく色々な女性とのあいだに多くの子を作ろうかと――」
ふと夏凛が耳まで赤くなっていることに気づいて、梁凱は首をかしげる。
「どうしました? まさか熱でも?」
「な、なんでもないっ!!」
「まあ、それもしょせん机上の空論です。あなたが成夏国を再興なさるというのであれば、子供を作るまでもありません。老師の直弟子であるこの私が力を貸せばいいだけのことです」
「私が……って、それじゃ、一緒に旅をしてくれるの!?」
「そういうことです」
梁凱はこともなげに言うと、背後の棚から竹編みの行李を引っ張り出す。
すっかり黒ずみ、大小の傷が目立つ外観は、主人とともに過酷な旅路を乗り越えてきた証だ。
「たしか怜といいましたか。彼が動けるようになり次第、この庵を出ます。ここには二度と戻ることはないでしょう」
「本当にいいの? 旅に出るなら、持っていくものもいろいろあるんじゃ……」
「もともと大したものは持ち込んでいません。それに、我が師の蔵書は一冊残らずここに入っております」
言って、梁凱はこつこつと白髪頭を叩いてみせる。
冗談とも思えないその口ぶりに、夏凛はただうなずくことしか出来なかった。
「もうひとつだけ、聞いてもいい?」
「私に答えられることなら、何なりとお尋ねください」
「どうして私が王女だと分かったの? 私はあなたと会ったことはないはずだけど」
腑に落ちない様子の夏凛にむかって、梁凱は懐かしげに語りはじめた。
「あなたは、昔よく老師の講義中に居眠りをなさっていましたね」
「……」
「おなじくらいの年頃の侍女に起こされては、ばつが悪そうに笑っておられた」
「どうして、それを――」
よどみなく過ぎ去った日々を語る梁凱に、夏凛はすっかり目を丸くしていた。
どれも紛れもない事実だ。居眠りをしていたことも、そのたびに
しかし、なぜあの教室にいた人間しか知らない出来事を梁凱が知っているのか。
そんな夏凛の疑問を見透かしたみたいに、梁凱は試すように問いを投げた。
「あのころ、老師の傍らに童子がひとり付き従っていたのを覚えておいでですか?」
「そういえば、いつも老師のそばに男の子がいたような……」
「私もあなたのそばで老師の講義を聴いていたからです。もっとも、私は学生としてではなく、自分が他の弟子に教えるために老師の講義のやり方を教わっていたのですが。王女であるあなたと言葉を交わすことは許されていませんでしたが、それでも、私はあなたのことをよく覚えております」
おぼろな記憶を探っていた夏凛のなかで、遠い日の情景が像を結んだ。
点と点を結ぶように、教室の片隅でじっと端座していた少年と、目の前の医師とが結ばれていく。
「あなたにしてみれば、ひと目で分からないのも無理はありません。髪もすっかり白くなってしまいましたし」
「それは、あちこちを放浪しているあいだに……?」
「それより前です。老師が朱鉄に召し出されたとき、私はそのまま殺されてしまうものとばかり思っていました。結局一週間と経たずに老師は戻ってきましたが、私の髪はそのあいだに色が抜けてしまい、ずっとそのままなのです」
長い白髪を手に取りながら、梁凱はどこか自嘲するように言った。
「そういえば、あの二人とは、どこかで別れるつもりだとおっしゃっていましたね」
「ええ……」
「彼らがついきてくれるあいだは、ぜひともお連れになったほうがよい」
「なぜ? あなたが一緒に来てくれるなら、怜や鷹徳とはもう……」
「彼らは私にはない
「でも……」
「成夏国の再興を目指すのなら、掌中の宝玉はけっして放さぬことです。もし彼らが傷を負ったときは、私が手当てをいたします」
梁凱は座卓の上で手を動かす。
細い針をことごとく袖の内側に収め、白髪の医師はすっくと立ち上がった。
「さて――夜も遅いことです。今日のところはゆっくりと休まれるといい」
***
薄紅色の朝焼けが天地を染めていた。
まだ闇の色を残した空を見上げれば、細長い雲が幾筋も流れている。
庵の外に出た四人は、それぞれ自分の荷物を点検している。
あれからさらに一日怜の全快を待って、一行はいよいよ出立の時を迎えようとしていた。
「しかし、本当にいいのか?」
怜は梁凱に顔を向けると、怪訝そうに問うた。
「まさかあんたまで一緒についてくるとはな。医者がいるのは心強いが……」
「この土地や家に執着はありません。ちょうど旅に出ようと思っていたところでもあります」
「澄ました顔して、じつは何か企んでるんじゃねえか?」
二人のあいだを遮るように進み出たのは鷹徳だった。
「梁
「べつに気にしていませんよ。それと、私のことは呼び捨てで構いません」
「では、梁凱殿――」
なおも堅苦しさの抜けない鷹徳に苦笑いで応じつつ、梁凱は夏凛を見やる。
早暁の風に黒髪をなびかせながら、夏凛は遠い空の果てをじっと見つめている。
目指す
何があろうと、かならず辿り着いてみせる。
少女の細い身体には、揺るぎない意志が確かに息づいている。
詳しい事情を知らない怜と鷹徳も、この数日のあいだに夏凛の心におおきな変化が生じたことはそれとなく察している。
「さて……と。支度も終わったところで、そろそろ行くか?」
怜の言葉に、夏凛は力強くうなずく。
「あのね。私、出発する前に、みんなに言っておきたいことがあるの」
夏凛は一同を見渡し、喉を震わせながら、ゆっくりと言葉を紡いでいく。
誰もが押し黙ったまま、息を呑んで少女の言葉を待っている。
「もしかしたら、この先も敵が襲ってくるかもしれない。もし危ないと思ったら、私を置いて逃げてもいい。自分の生命を大事にしてほしいの」
「もったいぶってなにを言い出すかとおもえば、そんなことか」
「え?」
「自分の生命が大事だなんてこと、おまえに言われなくても分かってる。今回は不覚を取ったが、心配しなくても、おまえのために生命を捨てるつもりはねえよ。そして、あの連中にむざむざおまえを殺させるつもりもない。お互い無事に沙蘭国まで行かなけりゃ意味がないだろ?」
「怜……」
言うなり、怜はくるりと踵を返していた。
その広い背中は、確かな信頼を無言のうちに語っていた。
怜と入れ替わりに進み出た鷹徳は、夏凛の手を取り、ためらいがちに口を開いた。
「凛殿のおっしゃること、もっともだと思います」
「鷹徳……」
「これまでそれなりに修行を積んできたつもりですが、今回の一件で自分の未熟さを思い知らされました。僕は自分の生命も、仲間の生命も、等しく守れる男になりたい。僕自身がもっと強くなるためにも、どうかこれからも一緒に旅をさせてください」
夏凛は両眼に熱いものがこみ上げてくるのを感じていた。
梁凱はそんな三人を横目に見つつ、ただこくりとうなずいただけだ。
「みんな、ありがとう――」
頬を伝った涙は、自分でも驚くほど熱かった。
誰ともなく声をかけあって、四人はあらたな旅路へと踏み出す。
黎明の空はまだ暗く、風は冷たい。それでも、たしかに夜明けは近づいている。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます