第60話 死線(三)

 ふたたび部屋に戻った三人は、互いに顔を見合わせると、力なく首を横に振った。

 宿を隅々まで探しても、とうとう夏凛を見つけることは出来なかった。

 たったひとりで外に出たとも思えない。そうなれば、おのずと可能性は限られてくる。


「やはり、凛殿はどこにも……」

「あの爺さんもだ。凛を連れ去ったのは奴だろうな」

「我々はすでに敵の術中に落ちていたということですか――」


 言って、梁凱は窓の外に視線を向ける。

 やや遅れてその後を追った怜と鷹徳の視界に飛び込んできたのは、夕闇に茫と浮かんだ青白い火だった。

 ゆらゆらと揺れながら、火は村の入り口から宿にむかって少しずつ近づいてくる。その数は徐々に増えているようにもみえる。


「なんだ、あれは?」

「鷹徳、おまえ、目がいいところでちょっと様子を探ってみろ」


 言われるまま窓から身を乗り出した鷹徳は、両眼に神経を集中させる。

 幼いころから弓使いとしての鍛錬を積んできた鷹徳は、たんに動体視力に優れているだけでなく、人並み以上に夜目も利く。

 常人なら闇に紛れて見分けがつかないものでも、少年の目は正確に捉えることが出来るのだ。

 鷹徳は目をおおきく見開いたまま、まるでおこりに罹ったように身体をこわばらせている。


「おい、どうした。黙ってちゃ何も分からねえぞ」

「て、敵だ……それも、一人や二人じゃない……!!」

「どういうことだ!?」

「少なく見積もっても二十人……いや……四、五十人はいる。まっすぐにこっちに向かってくる!!」


 鷹徳の声は震えていた。

 ここまでの道中、敵は十人にも満たない少人数で襲ってくるのが常だった。

 今回もせいぜいその程度だろうと予想していたところに、まさかその倍以上の戦力を投入してくるとは。

 熟練の使い手でも、数にまさる敵との戦いは可能なかぎり避けるのである。

 まして三人で五十人もの敵を相手取るとなれば、勝敗は戦う前から分かりきっている。


「じきにこの宿は包囲されるぞ。どうする⁉」

「どうするもこうするも、まともに戦ったら死ぬだけだ。逃げるしかねえな」

「しかし、あれだけの数の敵を振り切れるだろうか。それに、凛殿を置き去りにする訳には……」

「いまそのための手立てを考えてるんだ。……なあ、センセイよ?」


 怜に水を向けられても、梁凱は答えない。

 外の景色を黙然と眺めながら、長い白髪を指先で弄っている。

 それがこの少年が思案に没頭しているときの仕草だとは、むろん二人は知る由もない。

 わずかな沈黙が流れたあと、梁凱は薄目を開けた。


「……おとなしく降参しましょう」


 怜と鷹徳が目を丸くしたのも当然だ。

 打開策を期待していた二人にとって、梁凱の言葉はまさに寝耳に水だった。


「おいセンセイ、いまは冗談を言ってる場合じゃ……」

「冗談などではありません。この状況を切り抜けるには、それが最良の策です」

「降ったところで、あいつらが俺たちを助けてくれるとは思えねえがな」


 二人の会話が終わらぬうちに、鷹徳はずいと身を乗り出していた。


「梁凱殿。僕も怜と同じ意見です。撤退ならまだしも、降参など論外だ」

「あなたが華昌国の王族であることは、敵には知られていないのですね?」

「そのはずですが……」

「私が合図を送るまで、そのことはくれぐれも伏せておきなさい。よろしいですね」


 梁凱の静かな言葉には、有無を言わせない迫力があった。

 鷹徳は喉まで出かかった「なぜ」の一語を飲み込み、ただ肯んずることしか出来ない。

 怜も話を混ぜっかえすのは得策ではないと思ったのか、神妙な面持ちで梁凱の次の言葉を待っている。


「さあ、のんびりしている暇はありません。敵がこちらに来るまでに準備をしておかなければ」


 言って、梁凱はさっさと立ち上がっていた。


***


 宿を出た三人は、またたくまに三方を取り囲まれた。

 敵の数は、ざっと五十人を下るまい。

 男もいれば女もいる。

 農民や漁師の服装をまとっているが、むろん本物の村人ではない。

 一分いちぶの隙もない佇まいと、闇中でなお炯たる光を放つ眼は、まぎれもない暗殺者のそれだった。


「ごらんのとおりだ。あんたらと戦うつもりはねえよ」


 飄然と言って、怜は長剣を腰帯から外す。

 鷹徳はわずかにためらうような素振りを見せたものの、観念したように弓と矢筒を地面に置いていた。

 二人が武装を解除したのを見届けて、梁凱も袖の奥から針を収めた木箱を取り出し、刺客たちに見えるように掲げてみせる。


「降参だ。俺たちはあんたらと戦うつもりはねえ。このまま見逃してくれるとありがたい」


 へらへらと軽薄に笑う怜の前に進み出たのは、宿屋の老主人だった。

 正確には、老主人になりすましていた者と言うべきだろう。

 曲がっていた背筋はぴんと伸び、枯木のようだった四肢には隅々まで力が漲っている。

 若々しい身体の上に鎮座するのは、しわだらけの老翁の顔であった。

 なんらかの外科手術の上に、特殊な化粧を施すことで、本来の年齢よりも五十歳は老けた顔へと作り変えたのだ。

 もはや刺客の一味であることを隠そうともしないは、まるで商品を値踏みするみたいに怜の全身を矯めつ眇めつしている。


「貴様ら……いったい何を企んでいる?」


 好々爺然とした面貌とは裏腹に、声はどこまでも冷たかった。


「べつに何も企んじゃいねえよ」

「とぼけるな。ここまでさんざん我らを手こずらせてきた貴様らが、むざむざと戦いを放棄するはずがあるまい」

「疑り深いのは結構だが、俺たちだってバカじゃない。なにしろこっちはたった三人のところに、あんたらはざっと五十人はいる。勝ち目がないことくらい分かってるさ」


 怜に合わせて、鷹徳と梁凱もこくりとうなずく。


「俺たちゃみんな生命が惜しくなったんだよ。こんな寂れたド田舎で死ぬなんて、まっぴらごめんだってな」

「それが本当だという保証はどこにある」

「信じるも信じないもあんたの勝手だがな。どうしても戦う気なら、俺たちもせいぜい悪あがきをさせてもらうまでだ。あの世への道行きは多いほうが賑やかでいいだろう」


 剽気た声で言い放つと、怜は長剣の剣柄けんぺいに指をかける。

 その動作に合わせて鷹徳は弓、梁凱は針の入った木箱に、それぞれ手を伸ばす。

 怜の言葉がたんなる脅しではないことは明白だった。

 三人が身を捨てて奮戦すれば、勝てないまでも、かなりの数の敵を道連れにすることが出来るはずだった。

 いま古塞里こざいりに集結した刺客たちは、もともとボウ帝国がひそかに華昌国に潜伏させていた間者スパイである。素性を隠したまま各地に潜伏していた彼らは、本国からの指令を受け、この地に陸続と馳せ参じたのだ。

 決死の覚悟で任務に臨んでいるとはいえ、間者は一人ひとりが国家の貴重な戦力である。

 被害は少ないに越したことはない。ただでさえ失敗が続いているところに、このうえさらに多くの人員を失えば、今後の諜報活動にも支障をきたすおそれがある。

 本来であれば刺客の頭目である蔡破さいはの指示を仰ぐべき場面だが、折悪しく彼はここにいない。

 重苦しい沈黙があたりを覆っていく。

 三対五十。

 戦力差は歴然としているが、どちらも相手の出方を伺っているのはおなじだ。

 まさしく一触即発の緊張のなかで、老人のひからびた唇が動いた。


「その言葉、本当に信じていいのだな」

「言い忘れてたが、ひとつだけ条件がある」

「なんだ?」

「あの娘には、俺の大事な持ち物を取られたままなんだ。ここで別れたら、もう一生会うこともないだろうからな。この機会に返してもらいたい」


 老人は福々しい笑みを顔面に貼り付けたまま黙りこんだ。

 努めて感情を顔に出さないようにしているのではない。度重なる施術と投薬の末に顔面が硬化し、表情を変えることが出来なくなっているのだ。

 かろうじて自由になる唇を動かし、老人は怜に問うた。


「持ち物とは……?」

「口で説明するより、俺をあの娘のところに連れて行ったほうが早いぜ。それが出来ないなら、あいつに直接聞けばすぐに分かるはずだ。たったそれだけのことで荒事が避けられるなら、あんたらにも悪い話じゃあるまい」

「すこし待て。いま確かめさせる」

「確かめさせる、か」


 怜の面上を不敵な微笑がよぎる。

 それとは対照的に、老人の笑顔は一瞬にして凍りついたようであった。


「そいつはいいことを聞いた。なにしろ死人は口が利けねえからな」

「貴様、最初からそれを聞き出すために!?」

「あいつが生きていて、しかもまだこの近くにいることが分かったなら、もうてめえらに用はねえ」


 怜が長剣を抜き放つのと前後して、鷹徳と梁凱もそれぞれの得物を構えていた。

 水面に波紋が広がるように、三人を囲んでいた刺客たちは一斉に後じさる。

 凄まじいまでの殺気が闇を満たしていく。

 肌寒いほどの夜風さえ、にわかに熱気を帯び始めたようだった。

 

「――行くぜ」


 言い終わるが早いか、怜は烈しく地を蹴っていた。

 夕闇を裂いて銀閃がほとばしる。

 ざあっと流れた赤褐色の霧は、老人の首筋から噴出した鮮血だ。

 断末魔を上げる間もなく絶命した敵には一瞥もくれず、怜は長剣を逆手に構える。

 その左右で刺客が次々と倒れていった。

 鷹徳の放った矢と、梁凱の投じた針は、怜に襲いかかろうとした敵を過たず仕留めたのだった。

 

「こやつらを皆殺しにしろ!!」

 

 悲鳴にも似た絶叫はどこから起こったのか。

 さすがに訓練された間者の集団だけあって、その動きは洗練されている。

 五十人近い刺客たちは剣を手にじりじりと間合いを詰めていく。殺意に縁取られた半円は少しずつ狭まり、三人を押し包もうとしている。

 怜と鷹徳はぴたりとそびらを合わせ、迎撃の構えを取る。

 

「鷹徳、調子に乗って矢を無駄遣いするんじゃねえぞ」

「あなたこそ、仕損じた敵をこちらに押し付けないでもらいたいな」

「生意気を言いやがる」


 悪態の応酬を遮るように、梁凱は二人の会話に割って入る。


「まずは退路を開くことが最優先です。くれぐれも戦いに熱中しすぎないよう……」

「分かってるよ。あんたの作戦のとおりに動くさ。凛を捕まえてる別働隊も見つけ出さなけりゃな」

「では――予定通り、村外れの沼のほとりで合流しましょう」

「それまでお互い生きてればの話だ」


 三人ともそれ以上何かを言おうとはしなかった。

 刺客が動いた。一糸乱れぬみごとな統率は、打ち寄せる黒い波涛を思わせた。

 沸き起こった喚声が夜気を震わせ、無数の足音が大地を揺らす。

 辺境の集落は、またたくまに腥風せいふう吹きすさぶ戦場へと様相を変えていった。


***


「もはや逃げ場はありませんぞ」


 夏凛を見据え、蔡破さいはは酷薄な微笑を浮かべる。

 無我夢中で隧道トンネルを脱出した夏凛は、はたと足を止めた。

 べつに好き好んで止まったのではない。先に進もうにも、道はそこでふっつりと途切れていた。

 ほとんど垂直に近い切り岸の下に広がるのは、葦が生い茂る弧状の沼沢だ。

 沼気しょうきが噴出しているらしく、深い緑色を湛えた水面には不気味な泡が浮かんでは消えている。

 

「さて、観念したところで教えていただきましょうか」

「いったい何の話? あなたに話すことなんて何もないわ!!」

「知れたこと――あなたの逃亡を手引きしているのがどこの国か、素直に白状していただく」


 夏凛にとっては予想もしていなかった問いであった。

 訝しげに見つめる夏凛をよそに、蔡破はなおも言葉を継いでいく。 


「あなたが他国の援助を受けていることは分かっている。そうでなければ、ここまで辿り着くことなど出来なかったはずだ」

「それは……」


 言いさして、夏凛は言葉を濁す。

 二年前に成夏国が滅び去ってから現在いままで、他国から救いの手が差し伸べられたことなど、ただ一度としてなかったのだ。

 他の国々は、成夏国王の末娘が今日まで生き残っていることさえ知らないだろう。

 本当のことを言ったところで、蔡破が納得するとは思えない。もはや有益な情報は引き出せないと判断し、この場で始末されるおそれもある。

 ならば――と、夏凛は努めて平静を装いつつ、蔡破をきっと睨めつける。


「……沙蘭国さらんこくよ」

「ほう?」

「私の母は沙蘭国の出身。国王の蘭逸らんいつ陛下は私の伯父でもあるわ」

「なるほど。あの者たちはさしづめ沙蘭国王が送り込んだ護衛ということですかな」

「そう……よ」


 すべて根も葉もない虚言だ。

 沙蘭国を目指しているのは事実だが、沙蘭国王とのあいだには何の約束もない。

 それでも、この窮地を切り抜けるためには、わずかでも相手に疑念を抱かせてはならない。

 あくまで貴人らしい尊大な態度を保ったまま、夏凛は蔡破にむかって叱声を飛ばす。


「もし私を殺せば、沙蘭国も黙ってはいないはずよ。受け入れようとした矢先に面目を潰されたことになるんですもの。そのくらいの道理はあなたにも分かるでしょう」

「なるほど。たしかに仰るとおりだ」

「だったら、すぐにこの場を立ち去りなさい!!」

「道理なればこそ、あなたを沙蘭国へと行かせる訳にはいかない」


 蔡破はそれだけ言って、右腕の義手を夏凛に突きつける。

 研ぎ上げられた鉄の爪先は、軽く触れただけで少女のはだえを無残に引き裂くだろう。

 夏凛は逃げることも出来ず、じわじわと崖っぷちに追いやられていく。


「自分が何をしているか分かっているの!?」

「むろん――」

「沙蘭国との諍いは朱鉄も望んでいないはずよ」

「あなたは道中で不幸な事故に遭って亡くなられた。どうせ世間ではとうの昔に死んだと思われている身だ。いまさらところで、誰が抗議の声を上げましょうや」


 蔡破は、ちらと下方に視線を落とす。


「あの沼の底には、古塞里の村人どもが大勢沈んでおります。あなたの亡骸も二度と浮かび上がることはないでしょうな」

「私を待ち伏せするために、関係のないあの村の人たちを殺したの……?」

「あなたが生きているかぎり、これからも犠牲は増え続ける。それが嫌だというのなら、ここですべてを終わらせることです」


 二人の距離は、五歩にも満たないところにまで迫っている。

 蔡破が猛然と飛びかかれば、その瞬間に夏凛の命運は尽きる。

 ひときわ強い風が吹いたのはそのときだった。


「――――!!」


 眼前で展開した信じがたい光景に、蔡破は言葉を失った。

 夏凛はひらりと身体を翻すと、躊躇いもなく崖っぷちから身を投げたのだった。

 下は水面とはいえ、かなりの落差があることには違いない。

 蔡破はとっさに崖下を覗き込むが、夏凛の姿はどこにも見当たらなかった。

 着水の際の衝撃は沼の水をはげしく波立たせ、波紋はまるい円を描いて拡散していく。

 そのすべてが収束すると、沼沢はふたたび静けさを取り戻した。

 凝然と水面を見つめる蔡破の面貌にありありと浮かんだのは、まぎれもない焦燥であった。

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