第47話 襲撃(三)
夏凛の手を引いて、鷹徳は廃墟のなかを無我夢中で駆け抜けていく。
角を曲がったところで、ふいに周囲の景色が変わった。
砦の中庭に出たのだ。
地面は野放図に繁茂した夏草に覆い尽くされ、ほとんど藪のような様相を呈している。
すばやく周囲に視線を走らせれば、闇中にあってなお黒々としたものがそこかしこにわだかまっているのがみえた。
半ば倒壊しかかった建物の残骸と、うず高く積み上がった瓦礫の山であった。
乱れた呼吸をようよう整えながら、夏凛は鷹徳に声をかける。
「鷹徳、怜は……」
「あの男なら心配いりません。それより、凛殿、僕のそばを離れないでください――」
廃墟から二人の男が飛び出してきたのはそのときだった。
どちらも長剣を抜き放っている。
するどい銀光を帯びた刃を見せつけるように、男たちはじりじりと距離を詰める。
「ここまでだな」
「何があろうと、おまえたちに凛殿は渡さない」
「もうその必要もなくなった。……娘とともに死ね、小僧!!」
言うが早いか、男たちはすばやく左右に分かれた。
鷹徳は左手を背中に回すと、流れるような動作で短弓に矢をつがえる。
その瞬間、にやりと酷薄な笑みを浮かべたのは、はたしたどちらの男だったのか。
どれほど熟達した弓の使い手でも、一度に一矢を射るのが精一杯なのだ。
十分な距離を隔てているならともかく、ごく近い間合いに迫った複数の敵を同時に相手取ることは、弓の構造からいって不可能なのである。
首尾よく一人を仕留めることが出来たとしても、次の矢をつがえている隙にもう一人に斬られる。
実際に戦うまでもなく、接近を許した時点ですでに勝敗は決していると言っても過言ではない。
「逃げて、鷹徳!!」
「凛殿、僕を信じてください。何人敵が来ようとも、あなたには指一本触れさせはしません」
鷹徳は深く息を吸い込むと、男たちに鋭い視線を向ける。
「――来い」
男たちはすでに攻撃態勢に入っている。
左右に回り込んで挟撃しようというのだ。正反対の方向から襲いかかることで、反撃を受ける可能性はさらに低くなる。
むろん、その場合でもどちらか一方は生命を落とすことになるが、刺客にとって最も優先すべきは任務の達成であり、みずからの生死など最初から問題ではない。目下の脅威である鷹徳を排除することさえ出来れば、武器を持たない夏凛の命運は尽きたも同然なのだ。
二人の男がぐっと腰を落としたのは、ほとんど同時だった。
やはり同じように剣を寝かせたのは、踏み込みに合わせて刺突を仕掛けるためだ。
刺し違えることも厭わず、ひたすらに標的を葬り去ることだけに特化した暗殺者の剣技。五体のすべてをバネとして放たれる捨て身の一撃は、まさしく必殺の威力を発揮する。
鬼気を帯びた剣尖が迫るなか、鷹徳は慌てる素振りもなく、悠揚と弓を右方に向ける。
「はあッ――!!」
裂帛の気合とともに、右方の男は地を蹴って襲いかかる。
その身体が空中で静止した――そのように見えたのは、あるいは錯覚であったのかもしれない。
夜の大気が金切り声を上げたとき、男は過たず胸を射抜かれ、もんどり打って草むらに倒れ込んだ後だった。
鷹徳の
断末魔さえ上げずに息絶えた仲間には一瞥もくれず、左方に回った男は猛然と突進する。
鷹徳が二の矢を放とうにも、すでに彼我の距離はあと数歩のところにまで迫っている。
背中の矢筒から矢を取り出し、弓につがえる一連の動作に取り掛かるまえに、刺客の剣は少年を斬り伏せているはずであった。
もはや勝負は決した。勇敢な弓使いは、
鷹徳は片足を軸にくるりと身体を反転させる。
刹那、男の目に飛び込んできたのは、矢がつがえられた弓であった。
いましがた飛び去ったはずの矢は、ぴんと張った弦の上で、解き放たれる
いまから身をかわそうにも、すでに遅い。
進退は窮まったのだ。
夜気を引っ切って銀光が流れた。
男の眉間を貫通した矢は、脳漿と血を振りまきながら闇の彼方に消えた。
鷹徳は敵が倒れたのを確かめると、今度こそ正真正銘、空になった弓を下げる。
射殺された二人の男は、とうとう最後まで気づくことはなかった。
矢筒に手を伸ばしたときから、少年の指には二本の矢が握られていたことを。
昼日中であれば、たちどころに敵に看破されていたにちがいない。それは咫尺を弁ぜぬ夜闇を最大限に利用した奇策であった。
「鷹徳――」
声をかけようとして、夏凛は少年の肩が震えていることに気づいた。
まだあどけなさを残す顔貌は青ざめ、浅く早い呼吸を繰り返している。
戦いの興奮のためではない。鷹徳の身体を支配するのは、あきらかに別種の緊張と戦慄であった。
「……はじめて生きている人間を射殺しました。自分でも不安でしたが、なかなかどうして、上手く出来るものですね」
ぎゅっと弓を握りしめたまま、鷹徳は震える声で呟いた。
これまでの旅でも絡んできた悪漢を撃退し、あるいは賊に襲われている人を助けたことは何度もあったが、それでも致命傷だけは頑なに避けてきたのだ。
熟練した使い手であれば、矢の当たりどころを調節するのはさほど難しくない。
正確に心臓や脳だけを破壊することも、また。
「あなたは何も悪いことなんてしてない。あの人たちを殺さなかったら、私たちが殺されてたはずよ」
「凛殿……」
「だから、お礼を言わせて――助けてくれてありがとう」
励ますように言った夏凛に、鷹徳はふっと微笑んでみせる。
ほんの一瞬前まで胸を埋めていた恐怖も罪悪感も、少女の言葉ひとつで嘘みたいに霧散している。
好むと好まざるとにかかわらず、殺意を向けられた以上は戦わなければならない。その結果として敵を殺めることになったとしても、それはなんら恥じることではないのだ。
「あなたのおかげで救われた気がします」
「鷹徳の気持ちは分かるわ。……はじめて人を斬ったときは、私も震えてしまったから」
「――――」
「でも、後悔はしてない。私自身と、大事な人を守るためにしたことだもの。だから、あなたも胸を張ってちょうだい」
はにかみながら、鷹徳はふと廃墟に目を向ける。
ひどく耳障りな金属音が夜の大気を震わせたのは次の瞬間だった。
硬質の金属同士を激しく打ち合わせる音。建物の外にまで響くほどの剣戟音は、尋常の戦いではまず生じえないものだ。
間髪を置かずに二度、三度と沸き起こったのは、なにかが砕ける世にも恐ろしげな音であった。
(怜のやつ、まさか――)
窮地を切り抜けた少女と少年の面上を、黒い不安の色が染めていった。
***
「奇術師に商売替えしたほうがいいぜ、おっさん」
剣を片手に飛び退りながら、怜は吐き捨てるように言った。
その右手に握られていた
無骨な鈍器によって力任せに廃墟の柱を打ち砕き、壁を穿ちながら、蔡破は怜を着実に追い詰めている。
「そういや、前に聞いたことがあるぜ。玄武国をずうっと南に下った果てにある国には、身体じゅうに武器を隠してる暗殺者がいると」
「……」
「まさか中原で暗器使いにお目にかかれるとはな。運がいいんだか悪いんだか――」
蔡破は鉄槌をしごくと、大上段に構える。
「貴様のほうこそ、その面妖なる剣術、どこで習得した?」
「俺は沙蘭国の生まれでね」
「蛮族の剣か。道理でまともな武芸者とは一味もふた味も違う訳だ」
「そりゃお互い様だろうがよ」
言うが早いか、怜は脱兎のごとく駆け出していた。
向かう先は蔡破ではなく、右手の壁だ。だんと床を蹴って跳躍した怜は、壁に足をつけると、そのまま壁面を疾走する。
信じがたい身体能力であった。
それでも、重力には逆らえない。怜の身体は次第に落下しつつある。
蔡破が横薙ぎの一閃を繰り出したのと、怜が壁を蹴って空中に飛んだのは、ほとんど同時だった。
白い顔をはげしく打つ壁の破片もものかは、怜は蔡破めがけて急襲をかける。
銀光が暗闇に優雅な弧を描く。
ごとん、と重厚な音を立てて落ちたのは、鉄槌の先端部であった。
怜は蔡破に斬りつけると見せかけて、鉄槌の柄を切断したのだ。
「貴様……」
「奇術のタネはまだあるんだろう。出し惜しみしてる場合じゃあるまい」
「それほど死に急ぎたいなら、望みどおりにしてくれる」
もはや武器として用をなさなくなった鉄槌を無造作に投げ捨てるなり、蔡破の右手から長い爪が伸びた。
そう見えたのは、袖口に仕込んでいた仕込み刀だ。
もし鉄槌ではなく蔡破本人に攻撃を仕掛けていたなら、この武器がたちどころに怜の心臓を貫いていたはずであった。
「やっぱり暗殺者より芸人のほうが向いてるぜ、あんた」
「……だまれ」
「いやだね。黙らせたかったら、力ずくでやってみな」
音もなく蔡破の身体が動いた。
それも、直立不動の姿勢を保ったまま、水面を滑るように怜に向かってくる。
一切の足音を立てず、最小限の関節の動きだけで肉体を駆動させるそれは、まさしく暗器使いの歩法にほかならない。
奇怪きわまりない動作を目の当たりにしても、怜は取り乱す様子もない。
いつのまにか順手に持ち替えた剣を正眼に構え、その瞬間を待っている。
二人の戦士のあいだを充たした凄絶な鬼気は、静かに奔騰しつつある。
「はッ――!!」
低い雄叫びを上げたかと思うと、蔡破の輪郭がぐにゃりと歪んだ。
揃えた両足を軸として、身体全体を駒みたいに回転させはじめたのだ。
おそるべき速度によって五体は漆黒の旋風と化し、傍目にはもはや人間とも見えない。
手足が絶えまなく位置を変えているということは、どこから攻撃を仕掛けてくるかも予測出来ないということだ。
轟然と吹き付ける剣風に耐えかねたように、怜は数歩後じさる。
その動きに怯懦を見出したのか、蔡破はなおも回転の速度を上げ、怜にむかって急迫する。
ひとたび嵐のごとき剣刃に触れたが最期、蜂蜜色の髪の青年はたちまちに切り刻まれ、原型も留めぬ無惨な肉塊に成り果てるはずだった。
あわや接触という瞬間、怜の右足があらぬ方向に伸びた。
「――!?」
怜の足が蹴り上げた何かを避けることもなく、蔡破は敢然と突進する。
その判断が誤りだったと理解したのは、数瞬ののちだった。
飛来した棒状の物体は、歯車に挟まった異物みたいに、蔡破の動きに一瞬の停滞をもたらした。
それがつい先ほど自分が投げ捨てた鉄槌の柄だと気づいたときには、すでに手遅れだ。
柄そのものはたやすく切り刻むことが出来ても、細かな断片は身体に絡みつき、動きを鈍らせる。
実時間にして数分の一秒。
暗闇に美しくも残酷な輝きがほとばしった。
「う、ぬ――ッ!!」
蔡破は回転を止めると、たたらを踏むようにしてすばやく後退する。
つつと床に引かれたひとすじの朱線は、左手へと繋がっていた。
より正確に言うなら、左手があるはずの場所へと。
蔡破の左手は肘の先から失われていた。
「まだやるかい、おっさん」
怜は掌でくるりと剣を回しながら、不敵に問うた。
白皙の面貌に鮮血の色があざやかに映える。
あの瞬間、蔡破の剣もまた、怜の右頬を切り裂いていたのだ。
怜は舌を出して血を舐め取ると、ぺっと床に吐き出す。
「悪いことは言わん。この辺にしておいたほうが利口だぜ」
「情けをかけるつもりか?」
「勘違いするなよ。まだやり合うつもりなら、ケリがつくまで付き合ってやる。だが、それより雇い主に伝えてもらいたいのさ」
「なに……?」
「どんな事情があるのか知らんが、あの娘に手を出すのはやめておけ――とな。あんたの部下も今ごろは生きちゃいまい。
怜は蔡破をまっすぐに見据えると、あくまで冷厳に言い放つ。
美しい
その眼力に圧倒されたように、蔡破は無意識のうちに数歩ばかり後じさっていた。
「さあ、どっちだ?
「……今日のところは、いったん退くとしよう」
「それがいいだろう」
「だが、これで終わりと思うな。貴様らのほうこそ、あの娘から早々に離れることだ。あれと一緒にいれば、いずれ無惨な最期を迎えることになる」
「わざわざ親切にご忠告ありがとうよ」
怜が言い終えるまえに、蔡破の姿は闇に溶けていた。
周囲の地形を利用した
点々と床に落ちていた血痕さえ、ある地点を境にぷっつりと途切れている。
闇の奥から二人分の足音が聞こえてきたのはそのときだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます