第45話 襲撃(一)

 澄みきった川面が空の色を映していた。

 燕津えんしんの集落を後にした夏凛たちは、北に向かって川沿いの道を歩き続けている。

 三人がそれぞれ背負った革袋には、村で買い込んだ数日分の食料とさまざまな日用品が詰め込まれている。村の商店はお世辞にも品揃えがいいとは言えなかったが、ともかくもこれからの旅に必要なものはひと通り揃えたのだった。


「ふわあ――」


 まばゆい陽光に目を細めながら、怜はおおきな欠伸あくびをひとつ空にむかって放つ。


「あー、くそねみい……」

「そんなに寝ていたかったのなら、あのままにしておいてもよかったんだぞ」

「案内人のこの俺を置いてどこへ行こうってんだよ? 下心が見え見えだぜ、鷹徳ようとくくんよ――」

「……寝言だと思って聞き流しておいてやる」


 飽きもせずに言い争いを始めた怜と鷹徳をよそに、夏凛は黙々と足を動かしている。

 怜はなおも食ってかかろうとする鷹徳を手で制すると、夏凛の顔を覗き込んだ。


「なあ、おまえ、腹減ってるんじゃないか?」

「べつに――」

「本当か? おまえ、昨日からろくにメシも食ってねえだろう」

「私は平気よ。そんなことより、先を急がなくちゃ。モタモタしてると間に合わなくなるって言ったのは怜じゃない」


 きゅう、と奇妙な音が鳴ったのはそのときだった。

 怜の視線から逃れるように顔を背けながら、夏凛の頬は朱を注いだようになっている。


「ほれみろ、言わんこっちゃない」

「本当に何でもないわ。余計なお世話よ!!」

「いくら強がっても、腹の虫までは誤魔化せなかったな。あんまり無茶してると、そのうちぶっ倒れるぞ」


 なだめるように言った怜に、夏凛は恨めしげな視線を向ける。


「昨日は私の好きにさせてくれたのに……」

「動けるうちは何も言わねえさ。動けるうちは、な」


 言って、怜はさりげなく夏凛の行く手を遮る。


「のんびりもしていられないが、人間は飲まず食わずでいつまでも動ける訳じゃない。倒れでもしたら、その分足止めを喰うことになる。なあ、鷹徳?」

「凛殿、ここは怜の言うとおりです。お恥ずかしながら、私も何か口に入れたいと思っていたところで――」


 二人が同意見と知って、夏凛はそれきり黙り込んだ。

 いくら強がったところで、彼らがすんなりと言うことを聞くとも思えない。

 それに、耐えがたいほどの空腹感を覚えていたのはまぎれもない事実なのだ。

 そんな夏凛の心中を察したのか、怜はふっと相好を崩してみせる。


「決まりだな。ここらでメシにしよう」


***


 川風が吹くたび、白い湯気が帯みたいにくうにたなびいた。

 くつくつと快い音を立てる鍋を見つめて、夏凛はほうとため息をつく。

 鍋のなかでは、水鳥みずどりの肉と、野蒜のびるを始めとする数種類の野草が煮えている。

 水鳥は、つい先ほど鷹徳が獲ってきたものだ。岸辺で羽を休めていたところを、気取られないほどの遠距離からただ一矢で仕留めたのである。

 水鳥を調理したのは怜だ。

 鷹徳から借りた小刀を用いて、青年は器用に下ごしらえを済ませていった。

 沸騰した湯に浸けて羽毛をむしったあと、食べやすいように切った鳥肉と、あらかじめ採取しておいた野草とを、あらたに水を張った鍋に投じていく。

 味付けは岩塩だけだが、素朴な塩気が野草の荒々しくも清冽な風味を引き立て、鍋の周りはえも言われぬ香気に満たされている。


「……慣れたものだな」


 鷹徳は感心したように言って、怜をちらと見やる。

 卓越した射術によって獲物を仕留めることは出来ても、それを料理するとなるとなのだ。

 怜が手際よく料理を仕上げていく過程に、鷹徳は文字通り見惚れているのだった。


「捌き方はずいぶん前に友達に教えてもらった。このくらいの小刀なら、羊や子豚くらいまでならイケるぜ。旅をするなら、男でもこのくらいは出来なくちゃな。もしかして、おまえ料理出来ねえのか?」

「……男子はみだりに厨房に近寄らないものだと教えられた」

「どこの誰が言い出したか知らねえが、忘れちまえ、そんなくだらねえ教えは――」


 話しながら、怜は透き通ったスープを手の甲に一滴垂らし、ぺろりと舐め取る。


「ま、急いで作ったにしては上出来ってとこだな」


 鍋の中身を木の椀に手早く取り分けると、夏凛のほうにずいと突き出す。


「ほら、出来たぞ」

「いいの? 私は何もしてないんだし、二人が先に食べたほうが……」

「おまえが一番腹を空かせてるんだろうが。人にここまでやらせといて今さら遠慮するんじゃねえよ」

「そうですよ、凛殿。私もあなたのために獲物を仕留めてきたのです」


 二人に勧められるがまま、夏凛は遠慮がちに椀を受け取る。

 椀に唇をつけた瞬間、あたたかく、滋味深い味わいが口いっぱいに広がっていった。

 空腹であるということを差し引いても、その味は王宮にいたころ食べていた宮廷料理に引けを取らないように感じられた。


「どうだ?」

「すごく美味しい――塩だけで味付けしたなんて信じられない」

「骨やあぶらも一緒に煮込んであるからだ。本当は半日くらいかけるんだが、今日はそこまで時間をかけてもいられねえ」


 怜はその場にどっかりと腰を下ろすと、藍青色ラピスラズリの瞳を夏凛に向ける。


「なあ、凛。おまえ、あんまり旅に慣れてないだろう」

「なによ、急に。どうしてそう思うの?」

「徒歩の旅人にとって一番怖いのは、歩いてる途中でバテちまうことなんだよ。多少なりとも旅慣れた人間だったら、メシもろくに食わずにしゃにむに進んでいくような無謀な真似は絶対にしない。もし誰も通らないような人里離れた山奥でぶっ倒れてみろ。よくて盗賊の餌食、悪くすりゃ獣の胃袋に収まることになるぞ」


 ほどよい塩味がついた水鳥の肉を嚥下して、夏凛は怜をあらためて見つめる。

 図星だった。これまでの旅では、李旺がどんなときも傍らに寄り添っていたのだ。

 身辺警護から食事の世話まで、すべて李旺に頼りきっていたと言っても過言ではない。

 不自由な逃亡生活を送りながら、たったひとりの忠臣は、夏凛が病や飢えに苦しむことがないように配慮を欠かさなかった。

 その李旺も、いまはもう、いない。

 夏凛だけでは、自分の体調を適切に管理することさえままらないのだ。

 空腹は肉体が発する危険信号であり、それを無視してまで先を急ぐのは、自殺行為にほかならない。そんな当たり前のことさえ、こうして誰かに言われなければ分からなかった。


「もしかして、いままでそのことを確かめるために、わざと私の好きなようにさせてたの?」

「まあ、そんなところだ。俺はおまえの素性も旅の目的も知らん。いままでどんな風に生きてきたのかもな。悪いとは思ったが、ちょいとカマをかけさせてもらった」


 言葉とは裏腹に、怜は悪びれた様子もなく言うと、自分の椀に料理をよそい始める。


「おまえにどんな事情があるのか知らないし、あれこれ詮索しようとも思わない。だが、一緒に旅をすると決めたからには、最後まできっちりやり遂げてほしいと思ってる。これは俺の性分の問題だ。旅慣れてないならないでべつに構わないが、これからは人の言うことにもすこしは耳を傾けるんだな」

「ごめん……私、ひとりで先走ってばかりだった」

「分かりゃいいさ」


 安堵の表情で二人のやり取りを眺めていた鷹徳だが、ふと自分の椀がからであることに気づいて、怜に椀を差し出す。


「怜、僕の分は?」

「自分の食う分くらい自分で勝手に取り分けな。俺はおまえの召使いじゃねえんだぞ」

「水鳥を獲ってきたのは僕だぞ」

「俺が料理しなけりゃただの矢がぶっ刺さった鳥の死骸だろうが」

「そういう言い方はやめろ!! まだ一口も食べてないのに食欲がなくなる!!」

 

 子供じみた言い合いを始めた二人を見て、夏凛はくすくすと笑う。

 空を見上げれば、日は早くも中天を過ぎようとしている。

 

***


「この分だと、今夜は野宿かもな――」


 怜は西の空に目を向け、忌々しげに舌打ちをした。

 すでに日は沈みかけている。この辺りはちょうど村と村の中間地点にあたり、周囲には人家どころか、他の旅人の姿も見当たらない。

 人口密度の低い田舎にはさほど珍しくもない、ただ山野だけが茫漠と広がる地図上の空白地帯なのだ。

 黄昏の色に染まった道には、三人の影だけが奇妙に長く伸びている。


「日が沈んでから雨に降られると厄介だ。明るいうちに雨風を凌げそうな場所を探すぞ」

「もし見つからなかったらどうする?」

「そのときはそのときだな」

「料理の件ではすこし見直したが、あなたはやはりいい加減な男だ」


 仮宿を見つけるべく、きょろきょろと視線を巡らせていた夏凛は、ある一点を見つめたまま動きを止めた。


「ねえ、二人とも、あれ見て!!」


 怜と鷹徳は、反射的に夏凛が指さした方角に目を向ける。

 見れば、道を外れた森林のなかに黒々とわだかまっているものがある。

 木立の合間を縫って近づいてみれば、それは古びた城壁であった。

 もはや防御機構としての用をなさないほどに朽ち果ててはいるが、城塞の一部であることは間違いない。


「なにかしら、これ?」

「城か? それにしちゃ、どうも妙だな。廃墟みたいに見えるが……」 

「……砦です」


 鷹徳は城壁に触れながら、普段とは別人みたいに冷えきった声で呟いた。


「以前これと同じものを見たことがあります。……かつて成夏国が華昌国に攻め込んできた際、人々はこのような砦に籠もり、果敢に抵抗を試みたと聞いています。おそらく、これもそうした砦のひとつなのでしょう」


 籠城した人々がどのような結末を迎えたかは、あえて問うまでもない。

 無惨に打ち砕かれた城壁の内側には、建物の残骸がいくつも横たわっている。

 かそけき残光に照らし出された無人の砦は、陥落の瞬間をありありと留めていた。

 歳月が血を洗い流しても、かつて吹き荒れた凄惨な殺戮と破壊の爪痕は、砦のそこかしこに刻み込まれている。

 はるかな未来、この場所のすべてが自然に呑まれるそのときまで、物言わぬ廃墟は悲劇を語り続けるだろう。


 どれほどの人命が失われたのかは、いまとなっては知る術もない。

 確実に言えるのは、この地に眠るいくさの犠牲者たちは成夏国を恨みながら死んでいったということだけだ。

 すくなくとも、成夏国の王族が軽率に足を踏み入れていい場所ではないはずだった。

 夏凛はいますぐにでもこの場を立ち去りたい衝動を抑えながら、鷹徳を瞥見する。


「……凛殿、今夜はここで休みましょう」


 言い終わるが早いか、鷹徳は二人を先導するみたいに歩き出していた。

 城壁の裂け目をくぐり、瓦礫の山を越えて前進するうちに、ほどなく砦の中心部と思しき場所に辿り着いた。


「見たところ、人が出入りした形跡もないようです。多少崩れてはいますが、ここなら雨に濡れる心配もない」

「いいの? だって、華昌国の人にとって、この場所は……」

「お気になさらないでください。勇敢に戦った先人たちの霊魂も、きっと私たちを受け入れてくれるはずです」


 鷹徳はかろうじて原型を留めている建物に足を踏み入れると、怜のほうを振り返る。


「あなたはどうだ、怜?」

「俺はべつに構わないぜ。木の洞で寝るよりは快適だろうからな」

「夜のあいだは僕とあなたが交代で見張りに立てば、盗賊に寝込みを襲われる心配もないだろう」

「こんな荒れ放題の砦にわざわざやってくる奇特な盗賊がいりゃあな」

「凛殿の身の安全を考えてのことだ。焚き火をするなら、誰かが火の番をする必要もある」


 何かにつけて鷹徳を茶化したがる怜も、いまは軽口を叩くつもりになれなかった。 

 そうするあいだにも、三人は建物の奥へと足を踏み入れていた。

 めぼしい家具や内装品はとうの昔に持ち去られたのだろう。建物の内部はがらんとして、元々の用途を偲ばせるものはひとつとして残されていない。

 一息つく間もなく、三人は焚き火を起こすための準備に取り掛かる。

 砦が咫尺を弁ぜぬ闇の底に沈んだのは、それから一時間と経たないうちだった。

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