第44話 邂逅(四)

 北の果てへと至る道は、大地に伸びたひとすじの黒い帯を思わせた。

 七月の空は蒼く高く、日差しは燦々と降り注いでいるが、風はどこかに冬の気配を忍ばせている。

 やがてくる夏の盛りにおいてさえ、この国に吹く風から冬の色が消えることはないのだろう。

 夏凛と怜、鷹徳ようとくの三人は、人もまばらな辺境の道を黙々と進んでいる。

 呂江ろこうを後にしてから二日目の昼であった。


「凛殿、お疲れではありませんか。今朝から歩きづめですし、そろそろ小休止を挟んだほうが……」


 鷹徳は夏凛に歩調を合わせると、心配そうに顔を覗き込む。


「ありがとう。でも、平気よ。日が高いうちにちょっとでも先へ進まなくちゃ」

「そうですか……」

「本人が大丈夫と言ってるんだから放っておきゃいいんだよ。お節介焼きもほどほどにしときな」


 ぶっきらぼうに言い放った怜に、鷹徳は責めるような視線を向ける。


「怜殿、もうすこし言い方というものがあるのではないか」

「口が悪いのは生まれつきでね。それと、その殿どのってのはやめろよ。むず痒くていけねえ」

「ならば言わせてもらうが、怜――あなたはあまりにも凛殿への気遣いがなさすぎる。案内人だというなら、同行者のことをもうすこし労るべきだ」

「べつに俺が急かしてる訳じゃない。一日でも早く沙蘭国に入りたいと言い出したのはそいつなんだぜ」


 怜は飄然と言って、夏凛のほうに顎を向ける。


「それにな、いまだって夏のあいだに華昌国を抜けられるかギリギリなんだ。モタモタしてると、あっというまに冬が来ちまう」

「まだ七月だ。いくら華昌国が雪国といっても、九月いっぱいは雪が降る心配もない。そこまで焦る必要は――」

五剣峰ごけんほうでも同じことが言えるか?」


 鷹徳は何かを言おうとして、それきり二の句を継げなくなった。


 五剣峰は、華昌国かしょうこく沙蘭国さらんこく国境くにざかいに横たわる大山脈である。

 はるか北方から押し寄せる低気圧は、そびえたつ山塊に衝突することで急速に冷却される。そうして生まれた雪雲はやがて華昌国の全域に拡がり、毎年のように豪雪を降らせるのだ。


 当然、五剣峰は他のどの地方よりも早く雪に見舞われることになる。

 その名が示すとおり、天に突きつけられた五本の剣を思わせる連峰は、早ければ九月を待たずして白雪に覆われるのである。

 山中の峠道を通り抜けられるのは、夏のわずかな期間だけに限られる。

 かつて成夏国の大将軍・柳機りゅうきが華昌国に攻め入った際、五剣峰のふもとで引き返したことは、峠越えがいかに難しいかを物語っている。

 

「あそこがどんな場所か知っているのか」

「もちろん知っているさ。俺もあの峠を通って中原まで来たんだからな。もっとも、そのときも危うく凍え死ぬところだったが……」

「だったら、なおさら止めるべきだ。もし峠を越えるまえに雪に降られでもしたら、行くも戻るも出来なくなるんだぞ。あなただけならまだしも、凛殿を巻き込むなど言語道断――」


 鷹徳の言葉を遮るように、夏凛は二人のあいだに割って入った。


「いいの――鷹徳。ぜんぶ承知の上で、最短の道を案内してくれるように私から頼んだんだから」

「凛殿、どうか考え直してください。かなり遠回りにはなりますが、もっと安全で確実な道もあります。わざわざ危険な道を選ばなくても、沙蘭国に行くことは出来るのですよ」


 夏凛は何も言わず、ただ首を横に振っただけだ。

 鷹徳は少女の意志ひとつ変えられない自分の無力さを恨むように、固く拳を握りしめる。

 怜は口元に意味ありげな微笑を漂わせながら、そんな鷹徳をちらと一瞥する。

 

「……と、まあ、そういうことだ。べつにおまえはここで引き返してもいいんだぜ」

「僕が怖気づいたとでも言いたいのか!?」

「誰もそんなことは言ってねえよ。俺と違って、おまえは無理に付き合う理由もないだろうからな」

「あなたには、あえて自分を危険に晒すだけの理由がある……と?」

「そうでなけりゃ、こんな割に合わない仕事引き受けるかよ」


 怜は不機嫌そうに言うと、ふんと鼻を鳴らしてみせる。

 鷹徳はしばらく考え込んだあと、決然と顔を上げた。


「私は、凛殿に国境くにざかいまで同行すると約束した。華昌国の男子たる者、たとえどれほどの困難が待ち受けていようとも、一度口にしたことを覆すつもりはない」

「意地を張らなくてもいいんだぜ」

「これは私の信念の問題だ。ここでおめおめと逃げたのでは、これまでの武者修行の旅も無駄になる」

「本当にいいの?」

「もちろんです、凛殿。それに、この男とあなたを二人きりにするのは心配ですから」

「ちょっと待て!! それはいったいどういう意味――」


 言いさして、怜は抗議の言葉を飲み込んだ。

 道の前方から奇妙な集団が歩いてくるのを認めたためだ。

 七、八人ほどの男たちである。

 いずれもぼろぼろの編笠を被り、白い旅装束を身につけている。

 近づくにつれて、聞き慣れない言葉が風に乗って流れてきた。男たちが声を合わせて祭文さいもんを口誦しているのだ。

 現代の七国の言語とはあきらかに趣を異にするそれは、聖天子せいてんしの時代に用いられていた古典語であった。

 

「……巡礼か。このあたりで見かけるのは珍しいな」

「巡礼って?」

「大昔、聖天子が九人の息子たちを連れてあちこちを旅したって伝説があるのさ。聖天子を崇拝してる連中は、いまでもああやって当時とおなじ道順を辿って旅をしているんだ」

「ふうん――私、はじめて見たわ」

「最近じゃ巡礼の数もめっきり減っちまってるみたいだからな。もっとも、北は沙蘭国さらんこくから南は玄武国げんぶこくまで何年もかけて旅をするんだから、最後までやり遂げるのはよっぽど根性が座った奴だけだ」


 興味深げに巡礼者たちを遠望する夏凛の傍らで、鷹徳は怜の顔をまじまじと見つめている。


「なんだよ鷹徳、俺の顔に何かついてるか?」

「べつに――ただ、意外と教養があるのだなと感心していただけだ」

「てめえ、喧嘩売ってんのか!?」

「僕は純粋に褒めているだけだ。妙な勘ぐりはやめてもらいたい」


 二人が丁々発止のやりあいを演じているあいだにも、巡礼者たちは足を止めることなく近づいてくる。

 だからといって、べつに何が起こる訳でもない。巡礼中の人間は、必要に迫られないかぎり他人とは関わらないのが常である。他の旅人と行きあったとしても、互いにあいさつを交わすことはないのだ。

 三人の存在などまるで眼中にないというように、白装束の一団は足早に通り過ぎていった。

 やがて、祭文を暗誦する声がふたたび遠くなったころ、怜は夏凛の異変に気づいた。


「おい、どうした? 顔色が悪いぞ」

「ううん……なんでもない。さ、それより先を急ぎましょう!! 日が暮れる前にどこか泊まれるところを見つけなくちゃ」


 夏凛はぶんぶんと首を振ると、二人を先導するように駆け出していた。

 巡礼の一団とすれちがった瞬間、意図せず最後尾のひとりと目が合った。

 編笠の下に隠された血走った瞳。

 思い出すだけでも背筋が寒くなるようなその目は、夏凛をたしかに見据えていた。

 気のせいに決まっている――自分自身に言い聞かせても、ひとたび芽生えた胸のざわめきはいっかな過ぎ去ろうとはしなかった。


***


 一行が燕津えんしんの村に入ったのは、日も暮れかけたころだった。

 華昌国の北部を流れる燕河えんがに面した半農半漁の集落である。

 その規模は呂江ろこうには遠く及ばないが、それでも、この辺りに点在する村々のなかでは最も大きな部類に入る。

 村の中心部には、数軒の商店と工房、そして酒場を兼ねた一軒の宿屋がある。

 夏凛は村に到着するなり、迷うことなく宿屋に向かった。

 ただでさえ野宿続きで疲労が溜まっているところに、呂江を出てからここまで日中はほとんど休みなしの強行軍を続けてきたのである。いくら気丈に振る舞ったところで、肉体の消耗は誤魔化しきれるものではない。

 干し草が敷かれただけの粗末な寝床も、いまの夏凛には天蓋付きの寝台よりもずっと魅力的に見える。

 三人が一部屋に押し込まれたことには多少面食らいもしたが、眠気の前には些細な問題だった。


「ちょっと休むだけ……しばらくしたら……起こして……」


 怜と鷹徳にそれだけ言って、夏凛はすやすやとやすらかな寝息を立てはじめたのだった。


「口ではああ言っておられたが、やはりお疲れだったのだ」

「しかし、男の前でこうもあっさり寝入っちまうとは、こいつ警戒心ってもんがねえのか?」

「怜、よからぬ考えを起こすなよ。凛殿に指一本でも触れたら、僕が許さん」

「冗談じゃねえ。こんな童女ガキみたいに背が低いうえに胸もちいさい女、誰が襲うかよ。金積まれたって断るね」

「凛殿に失礼だぞ!! 訂正しろ!!」

「おまえはこいつが襲われてほしいのかほしくないのか、どっちなんだよ!?」


 呆れたように言って、怜はため息をつく。


「そっちこそ、同じ部屋で女が寝てるからっておかしな気を起こすんじゃねえぞ。すっきりさせようにも、こんな辺鄙な村には遊郭もないしなあ」

「あろうがなかろうが、僕には関係のないことだ」

「なんだ、鷹徳、おまえはに行かないのか」

「当たり前だ。修行中に女色に走るなどもってのほかだ」

「ははあ――童貞だな、おまえ」

「う、うるさいっ!! その軽薄な口をいますぐ閉じろ!!」


 二人が取っ組み合いを始めたのと、夏凛が寝返りを打ったのは、ほとんど同時だった。

 ぴたりと動きを止めた怜と鷹徳の目の前で、夏凛はもごもごと唇を動かす。


「……お父様……」


 消え入りそうな声で呟いた少女の頬を、ひとすじ光るものが流れ落ちていった。

 夏凛の意識がふたたび深い夢の底に落ちていったのを確かめて、怜と鷹徳はすばやくお互いの身体を離していた。


「お父様、か――」

「危険な道を選んでまで沙蘭国に向かおうとしているのも、きっとご両親に会うためなのだろうな」

「さあて、どうだかなあ……」

「案内人のあなたも、凛殿が沙蘭国を目指している理由を知らないのか?」

「こいつは旅の目的について何も話さねえんだ。話したくないってんなら、俺も無理に詮索はしない。ただそれだけだ」


 怜は突き放すように言って、藁の寝床にごろんと長身を横たえる。 


「鷹徳、おまえも特に用事がないならさっさと寝とけ。明日もだいぶ歩くことになるだろうからな。次いつ屋根のあるところで眠れるか分からん」

「言われなくても分かっている……」

「ああ、それと――俺の隣ですんなよ、少年。コソコソしてても臭いでバレるからな」

「あなたのような下品な男、凛殿がいなければこの場で永遠に眠らせてやるところだ!!」


 ふざけあっていたのもつかの間、怜と鷹徳も眠りに落ちたようだった。

 数奇な巡り合わせの旅人たちを抱いたまま、夏の夜は更けていく。

 息が触れ合いそうなほど寄り合い、それぞれに異なる夢を見る三人は、ついに気づくことはなかった。

 夜闇に乗じて、不吉な影が迫りつつあることを。

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