第43話 邂逅(三)

 夏凛と怜は急いで支払いを済ませると、呂江ろこうの大通りに出た。

 周囲にすばやく視線を巡らせれば、食堂からさほど遠くない場所に黒山の人だかりが出来ている。

 二人が顔を見合わせたまさにその瞬間、またしても耳障りな音が響きわたった。

 男の怒声であった。

 何を言っているかまでは分からないが、どうやら何者かが激しく言い争っているらしい。

 人の波を押しのけて前進するうちに、夏凛はふいに背後から呼び止められた。

 振り返ると、老人が心配そうな面持ちでこちらを見つめている。


「娘さん、いまは近づかないほうがいいよ」

「なにかあったんですか?」

「詳しいことは分からんが、このあたりでも札付きの悪党どもが集まってきておる。何をしたのかしらないが、も可哀想に……」


 夏凛は老人に一礼すると、怜の手を引いて足早に歩き出していた。


「おい!! なんで近づいていくんだよ!? あの爺さんも近づかないほうがいいって言ってただろ!?」

「だって、気になるじゃない」

「見ず知らずの他人の喧嘩なんか見たって面白くねえぞ。だいたい、俺たちまでとばっちりを喰ったらどうするんだ」

「それはそうだけど――なんだか胸騒ぎがするの!!」


 ほどなくして、夏凛と怜は群衆の最前列に出た。

 大通りの一角に、野次馬に縁取られた円形の空間がぽっかりと口を開けている。

 その中心で対峙するのは、十人ほどの男たちと、ひとりの少年だった。

 馬にこそ乗っていないが、少年はあのときの騎手であった。


***


の親分、こいつですぜ――」


 摩那羅まだらは、白い布に包まれた右手を振り回して絶叫する。

 尖端には赤いシミが浮かんでいる。ちょうど少年の矢に射抜かれた掌のあたりであった。

 ただでさえ傷がまだ塞がりきっていないところに、興奮のあまり出血が激しくなっているのだ。


「このガキが俺と舎弟をこんな目に遭わせやがったんだ。もう逃がしゃしねえぞ!!」 

「……貴様、まだ捕まっていなかったのか」

「うるせえ!! 親分、この生意気な小童になんとか言ってやってくだせえ」


 男たちのなかから進み出たのは、岩石に手足が生えたような四十がらみの巨漢だった。

 大柄な摩那羅も、この男と並ぶと子供みたいに見える。

 逞しい右腕がすさまじい速さで動いた。

 張り手を繰り出したのだと周囲の人間が理解したときには、摩那羅の身体はみたいに地面に叩きつけられていた。


「お……親分、何するんだ!?」

「黙らんか、この恥さらしめが。よりによってこんな青二才にやられるとは、泣く子も黙る呉一家の看板に泥を塗りおって。貴様は今日かぎりで追放だ!!」

「ひでえや、親分。あんまりだ――」

「それはそれとして、子分が恥をかかされた落とし前は、しっかりとつけさせてもらう」


 巨漢はのっそりと少年のまえに進み出ると、分厚い唇を歪めてみせる。

 見る者すべてに嫌悪感を喚起させずにはおかない、ひどく醜怪でうそ寒い微笑であった。


「俺は呉元龍ごげんりゅう。この呂江一帯を取り仕切っている顔役とでも思ってもらおうか」

「そんなことはどうでもいいが、落とし前とはなんのことだ」

「言ったとおりの意味さ。俺の子分に怪我を負わせた責任を取ってもらうのよ」

「私はその男が馬車を襲っていたのを止めただけだ。くだらん逆恨みはやめてもらおう」

「そりゃあ結構……しかし、?」


 呉元龍は得意げに言い放つと、愕然と見つめる少年を見下ろしてくっくと哄笑する。


「証拠はあるのか、と聞いとるんだ。こいつは舎弟と二人で街道を歩いていたら、あんたに突然襲われたと言っているんだぜ。こっちの証人は二人だが、あんたは一人だ。どっちの話を信じるかは、言わなくても分かるよな」

「バカな――」

「小僧っ子に腕っぷしで負けたのは情けないかぎりだが、しかし、喧嘩は先に仕掛けたほうが罪が重いというのが昔からの決まりごとだ。つまり、この件はあんたが悪いということになる……」

「そんな理屈があってたまるか。馬車に乗っていた婦人は一部始終を見ていたはずだ!!」

「だったら、その婦人とやらの首根っこを掴んで引っ張ってこようか? ええ、どうなんだい、兄さんよ?」


 少年はそれきりなにも言えなくなった。

 呉元龍がほんとうに一帯の顔役だというなら、呂江の市場から農婦を探し出してこの場に連れてくることも、あるいは可能だろう。

 それにしても、この連中のことだ。どんな手荒な真似をするか知れたものではない。

 自分たちに有利な証言をさせるためなら、無抵抗の人間の耳や鼻を削ぎ落とすくらいは平然とやってのけるはずだった。


「さ――分かったなら、まずは地面に頭こすりつけて非礼を詫びてもらおうかい。治療費や慰謝料の話はそのあとだ。持ち合わせがないってんなら、親兄弟に頼んで工面してもらうんだな。なんでも立派な馬に乗ってたそうじゃねえか? この辺りじゃ見ない顔といい、いいところのお坊ちゃんとお見受けしたぜ」

「そんな要求を私が受け入れるとでも思うのか?」

「嫌だってんなら、力ずくで従ってもらうまでだ。言っとくが、役人に泣きつこうたって無駄だぜ。呂江の役人は上から下までみいんな俺の息がかかってるんだ。てめえの訴えなんぞ誰も耳を傾けやしねえ」


 呉元龍が言い終わるが早いか、周囲の手下たちからどっと笑い声が起こった。

 心ない嘲笑を浴びても、少年はうろたえる素振りもない。手下たちが示し合わせたみたいに後じさったのは、歳に似合わないその気迫に圧倒されたためだ。

 あくまで対決の姿勢を崩そうとしない少年に、呉元龍は先ほどとは打って変わって、いかにも気遣わしげに語りかける。


「なあ、ここは高い授業料だと思って諦めることだ。これに懲りたら、つまらん正義感で揉め事に首を突っ込むのはよすんだな」

「私は自分のしたことが間違っていたとは思わない。貴様らのような腐った悪党に詫びることなど何もない」

「分からねえガキだな――」


 呉元龍が顎をしゃくったのを合図に、数人の手下がすばやく少年の背後に回り込んだ。

 少年は四方を取り囲まれ、完全に退路を断たれた格好になる。

 前後左右から同時に襲いかかられては、いかな弓の名手でも迎え撃つのは不可能であった。


「いいかげんに分かっただろう。これだけの人間がいても、お前さんの味方はひとりもいねえ。だあれも助けちゃくれねえ。観念して……」


 呉元龍はそこで言葉を切った。

 手下たちの脇をすり抜けてきたひとりの少女に気づいたためだ。


「そんなことないっ!!」

「あなたは――」


 夏凛は少年に目配せをすると、呉元龍に射るような視線を向ける。


「私はその人が盗賊に襲われた馬車を助けるところを見てたわ。先に手を出したのは、そこに転がってる男のほうよ。その人は殺されそうになっていた人を守っただけ――あんたたちの言ってることは、ぜんぶでっち上げよ!!」

「お嬢ちゃん、めったなことは言わんほうがいいぜ。このガキの肩を持っても一文の得にもなりゃせんのだからな」

「損得なんて関係ない。その人は正しいことをした。私はそれをこの目で見た。ただそれだけよ」

「やれやれ、今日は道理の分からん愚か者が多いことだ」


 呉元龍の立ち振る舞いはあくまで落ち着いているが、その声音には静かな怒りが漲っている。

 それも当然だ。公衆の面前で身のほど知らずの少年をねじ伏せ、おのれの権力をあらためて町衆に示すつもりが、夏凛の乱入によって台無しになったのだ。

 この種のごろつきにとって、メンツを潰されることは最大の恥辱である。

 そして、ひとたび損なわれたメンツを回復するためには、メンツを潰した張本人を血祭りに上げるのが最も手早い手段であった。


「ちょ、ちょっと待った!!」


 素っ頓狂な声を上げて、怜は夏凛と呉元龍のあいだにまろび出る。


「すまんね、顔役の旦那。俺のツレが妙なことを口走っちまって……」

「なんだ、てめぇは?」

「分別のつかないガキの言うことだ。ここは大物らしく、寛大な心で許してやってくれないか? なあ?」


 べつに夏凛の身を案じている訳ではない。

 乱闘の最中に大事な首飾りが破壊されることを恐れているのだ。

 それさえなければ、わざわざ自分から面倒ごとに関わろうとも思わなかったはずだった。

 へりくだった怜の態度は、しかし、呉元龍の怒りの火にますます油を注いだようであった。


「部外者の出る幕じゃねえ。おとなしくすっこんでろ!!」

「もちろん無理は百も承知だが、そこをなんとか。ほら、俺からもこのとおり!」

「だいたい、なんだその髪の毛は。卵の黄身みたいなふざけた色をしやがってからに」

「……た、卵の黄身?」

「よく見れば、目の色も妙だな。おまえ、さては混血まざりか? どこの雌犬のはらから産まれたかしらんが、とっとと消え失せろ。薄汚い半蛮族が――」


 呉元龍はそれきり言葉を継げなかった。

 無理もない。下顎がほとんど真横を向いた状態では、呻き声すら満足に立てられないのだから。

 怜が繰り出した右の拳は、呉元龍の顎先をしたたかに打ち、顎関節と靭帯とを力任せに破壊していた。

 見上げるほどの巨体は、背骨を抜かれたみたいにふらふらと数歩ばかり後じさったあと、どうと仰向けに倒れ込んだ。

 顎の痛みもさることながら、脳震盪のためにまともに立っていられなくなったのだ。

 怜は拳についた血を振り払い、苦しげに上下する厚い胸を容赦なく踏みつける。


「おい――おっさん、いまなんて言った?」

「ひゃ……ひゃめへ……」

「たしか雌犬がどうとか、半蛮族がどうとか言ってたよなあ」


 口中を埋める折れた歯と血糊に窒息しそうになりながら、呉元龍はもごもごと言葉にならない謝罪を繰り返す。

 怜はぺっと唾を吐き捨てると、額と額がふれあいそうな距離にまで顔を近づける。

 冷えびえと澄みわたる藍青色の瞳とは対照的に、白皙の肌はうっすらと上気している。ほんの数瞬前までの飄然とした佇まいはすっかり霧散し、整った面貌はいまや妖魔のごとき形相に変じていた。

 怯えきった呉元龍の瞳に映じたのは、世にも恐ろしい白面の鬼にほかならなかった。


「クソ親父のほうはどうでもいいが、母親おふくろの血を悪く言われるのは我慢ならん。――殺す」


 予想だにしていなかった展開に、周囲の手下たちだけでなく、少年と夏凛もすっかり面食らった様子だった。

 わずかな沈黙のあと、我に返ったように大音声を張り上げたのは摩那羅だった。


「おめえら、何してんだ!! さっさと親分を助けろっ!!」


 少年はすでに短弓に矢をつがえている。

 夏凛は背中の長剣を抜き、手下たちを威嚇するように構えを取る。

 怜はといえば、丸腰のまま、氷の視線を四囲に走らせただけであった。

 立て続けに怒号が上がり、耳を聾する悲鳴がすぐ後に続いた。

 うららかな日差しの下で、午後の往来はまたたくまに血風吹きすさぶ戦場と化していった。


***


「ここまで来ればもう大丈夫ね――」


 夏凛は小川のほとりで足を止めると、力尽きたように倒れ込んだ。

 少年と怜もそれぞれ川べりに腰を下ろし、呼吸を整えている。

 呂江ろこうを脱出してからここまで、三人は無我夢中で駆け抜けてきた。

 呉元龍の手下たちは、あの場で全員叩きのめしたことは言うまでもない。必死の思いで逃げてきたのは、乱闘を聞きつけてやってきた警吏けいりからであった。


 詮無きことと知りながら、夏凛は今さらながらに自分の軽率さを悔やまずにはいられなかった。

 市中で派手な乱闘騒ぎを起こすなど、逃亡中の人間にあるまじき行為である。

 逮捕されなかったのは、たんに運がよかっただけのことだ。

 それでも、窮地に陥った少年を見捨てることは夏凛には出来なかった。

 正しいことをしている人間が苦しめられ、理不尽な目に遭っているなら、力になってあげたい。

 成夏国だろうと華昌国だろうと、人の善意や正義の尊さにはなんら変わりはないのだから。


「あなたには、今日だけで二度も助けていただきました。本当にありがとう」


 少年は夏凛のすぐそばまで近づくと、深々と頭を垂れる。


「そういえば、今度会ったら名前を教える約束だったわね。……私は凛。あなたは?」

「いまだ武者修行中の身分ゆえ、氏名は明かせませんが――生家では、鷹徳ようとくと呼ばれておりました。そのようにお呼びいただければ幸いです」

「よろしくね、鷹徳」


 鷹徳は照れくさそうに頬をかきながら、ちらと怜のほうを見やる。


「……ところで、あちらの方は?」

「私の連れよ。と言っても、さっきの城市まちで知り合ったばかりなんだけど」

「凛殿は旅をなさっているのですか」

「ええ――これから沙蘭国へ行くつもり。あの人はその案内人ってところ」


 鷹徳はしばらく考え込んだあと、意を決したように切り出した。


「その旅、私……いえ、僕も同行して構わないでしょうか」

「あなたも沙蘭国に行く用事があるの?」

「そういう訳ではありませんが、もともと今回の旅では華昌国の全土を巡るつもりでした。北部に向かうのなら、いまの時期のほうがいいだろうと思いまして。国境くにざかいまでご一緒させていただければと……」


 鷹徳の声があきらかに上ずっていることに、夏凛は気付いていなかった。

 会話の途中で小川のほとりまで進み出た少年は、両手で流水を掬い取ると、念入りに顔を洗う。

 同じ動作を二度繰り返しても、頬の火照りを鎮めるにはまだ不十分だった。


「私はべつにいいけど……」

「な、なにか気がかりなことでも?」

「あなたが乗ってた馬はどうするのかなって」

「そのことでしたら、ご心配なく。呂江に来てすぐに信頼出来る馬屋に預けました。僕だけが楽をする訳にはいきませんし、馬を置いてきたのは好都合でした」


 夏凛に拒否されたのでないと知った鷹徳は、安堵の笑みを浮かべながら、ふたたび怜に視線を向ける。

 白皙の美青年は、適当な木の幹に背中をもたせかけ、いかにも呑気げに大あくびを放っている。

 先ほど見せた鬼神のごとき戦いぶりが嘘のような、緊張感の欠片もない佇まい。


 それでも、とても心を許すつもりにはなれなかった。

 乱闘が始まる直前、鷹徳は怜の豹変をすぐ近くで目撃していた。

 激しい怒りに駆られていたにせよ、大男を一撃で昏倒させた強さは、どう見ても常軌を逸している。

 あの男は尋常ではない――なにか暗く凄惨なものを心の奥底に隠している。

 風変わりな外見など、それに較べれば些細なことだ。


(……僕が凛殿を守らなければならない)


 鷹徳は心のなかで呟いて、いまだ水の滴る顔を袖口で拭う。

 少年の胸に澎湃と沸き起こったのは、身も引き締まるような強い使命感。

 そして、生まれてはじめて抱いた甘い恋心だった。

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