第35話 宿命(四)

 夜の森に静寂が降りた。

 先ほどまでひっきりなしに鳴り渡っていた剣戟の音はすでに熄み、虫の声さえ絶えている。

 それだけに、下草を踏む音はいやに大きく響いた。


「俺の勝ちだな、李旺――」


 張玄は勝ち誇ったように言って、見えぬ目で李旺を見下ろす。

 ほんの数瞬前まで繰り広げられていた激しい競り合いを制したのは張玄だった。

 李旺の上衣は鮮血に染まっている。張玄の短剣は右の肩口を深々とえぐり、いまも鼓動にあわせて血はとめどもなく溢れ出ている。

 その目で確かめることは出来なくとも、あたりに漂った濃厚な血の匂いから、李旺が深手を負ったことは張玄にも分かっている。


「この二年間、俺は貴様に勝つことだけを夢見て生きてきた。それも終わってしまえばあっけないものだ」

「まだだ……」

「往生際が悪いな。どうあがいたところで、貴様に勝ち目はない」

「私は、まだ死ぬ訳にはいかない――」


 李旺はようよう立ち上がると、蹌踉たる足取りで長剣を拾い上げようとする。


「そんな身体で何が出来る?」

「この程度で決着がつかないことは、おまえが誰よりもよく分かっているはずだ」

「ならば、貴様の望みどおりにしてやる」


 冷たく言い放って、張玄は双剣を構える。

 李旺が長剣を拾うまで攻撃を仕掛けなかったのは、温情をかけた訳でもなければ、正々堂々の勝負を望んだからでもない。

 剣士としての矜持プライドを打ち砕き、完膚なきまでの敗北を味わわせるためだ。

 剣技において李旺を圧倒する自信が張玄にはある。まして手負いとなれば、戦う前から勝負は見えている。

 ただ勝つだけでは、張玄の心はけっして満たされはしないのだ。


「どこからでも来い」

「おお――」


 刹那、張玄の身体は夜空に高々と舞い上がっていた。

 双剣を構え、紅い月を背負ったそのさまは、翼を広げた怪鳥けちょうのよう。

 この二年のあいだ、張玄が鍛え上げてきたのは感覚だけではない。身体能力もまた、盲目という不利を補って余りあるほどに向上している。

 それにしても、戦いのさなかに跳躍するとは、まともな剣士の行動とも思えない。

 両足をけっして大地から離さないことは、流派を問わず剣術の基本中の基本とされている。

 打ち込みの威力の大半は、実際には下半身と体幹部の筋肉群から生じているのである。腕はあくまで剣を保持し、駆動力トルクを伝達しているにすぎない。

 土台である下半身が安定していなければ、体幹筋も十分な働きは出来ず、当然ながら打ち込みの威力は激減する。腕の力だけで放たれた斬撃は軽く、たやすく敵に押し返されてしまう。そのうえ空中に身を置いて逃げ場もないとなれば、あとは斬られるのを待つしかないのだ。

 それが多くの流派において戦闘中の跳躍が禁忌とされている理由だった。

 剣術は敵に勝つことを目的としている以上、必勝ならぬの行動が忌避されるのは当然でもある。

 昨日きょう剣に触れたばかりの童子でさえ分かっている道理を、張玄ほどの剣士が忘れたというのか?


 否――盲目の剣士は、すべてを承知の上で、あえて禁忌を犯しているのだ。

 張玄が用いるのは双剣である。もともと打ち込みの威力は一般的な両手剣におおきく劣っている。

 そして、威力を捨て、あくまで斬撃の疾さだけを求めるなら、軽量な短剣はまさしくおあつらえ向きの武器だった。

 銀光一閃、剣士としての李旺の生涯に終止符を打つ。

 ただその一念だけを胸に、張玄はひたすらに殺意を研ぎ澄ます。


(今度こそ終わりにしてやる……)


 共感覚によって、いまや張玄は自分の周囲に広がる世界のことごとくを擬似的に視覚化している。

 李旺がどのような体勢で自分を迎え撃つのか。

 手にした長剣がいかなる軌道を描くのか。

 何もかもが、張玄には手に取るように分かる。

 音と匂いによって描き出された世界は、余計な情報が削ぎ落とされている分、目が見えていたときよりも鮮明なほどだ。


 血のような月の光が三本の剣をきらめかせた。

 金属と金属を打ち合わせる澄んだ響きが夜闇を震わせる。

 李旺の長剣をずいと押し出しながら、張玄は内心でほくそ笑む。

 高く跳躍したのは、この一瞬を作り出す下準備だった。全体重を乗せた一撃を受ければ、いやでも剣を下げざるを得なくなる。

 防御に生じたわずかな空隙に短剣をねじこむのは、張玄の技量を以ってすればさほど難しいことではない。


(俺の勝ちだ――)


 張玄が着地したのと、短剣を繰り出したのは、ほとんど同時だった。

 手応えはすぐに返ってきた。

 皮膚と肉を裂き、骨を砕く重い感触。

 短剣の刃は、李旺の右肘に食い込んでいた。

 かろうじて切断こそ免れたものの、いまや李旺の右腕は皮一枚で繋がっているにすぎない。傷が癒えたところで、神経と筋を断たれた腕は二度とは使い物にならないはずであった。

 この瞬間、まさしく勝負は決したのだった。

 張玄が快哉を叫ぶ間もなく、長剣に感じていた手応えがふっと消失した。


「ぐ……あ――ッ」


 次の瞬間、月夜の森を領した絶叫は張玄のものだ。

 剣尖に深々と胸を貫かれ、張玄はどす黒い血塊を吐き出す。


「李旺……貴様……」 

「私の勝ちだ――張玄」


 糸が切れた人形みたいに崩折れた張玄を見下ろして、李旺はぽつりと呟く。

 剣士の生命ともいえる右腕と引き換えに、李旺は張玄に一矢報いる機会を得たのだった。

 盲目を補うためには、つねに神経を極限まで研ぎ澄ませる必要がある。勝利を確信し、張り詰めていた緊張がふいに弛緩したことで、李旺の剣筋を読みきれなくなったのだ。

 血色の月明かりは蕭々と降り注ぎ、死闘を終えた二人の剣士を照らし出す。


「やはり、こうなったか……」


 口の端から血泡を溢れさせながら、張玄は呵々と笑い声を上げる。


「最初からこうなることは分かっていた――」

「どういうことだ……?」

「結局、俺は貴様には追いつけなかったということだ。この二年間、俺は貴様と戦うためだけにすべてを捧げてきた。貴様に勝つことが、俺のたったひとつの生きがいだった……」

「張玄……」

「それでも、心の何処かでは、貴様には決して勝てないと分かっていた。それを確かめるために、俺は貴様を追い求めていたのかもしれん」


 張玄は自嘲するみたいに言って、閉ざされた両目を李旺に向ける。


「なあ、李旺――ようやくの手にかかって死ぬことが出来る。これでなにも思い残すことはない……」

「本当にそう思っているのか、張玄」

「いや……まだやり残したこともある……」


 言い終わるが早いか、張玄はゆらりと立ち上がっていた。

 胸の傷口からの出血は止まるどころか、さらに激しくなっている。

 剣を杖にしていなければ、風が吹いただけで倒れてしまうだろう。

 一歩一歩、地面の感触を確かめるように、張玄は李旺に近づいていく。


「もう勝負はついている。やめろ、張玄!!」

「分かっているさ」


 闇の彼方で風切り音が立て続けに生じたのはそのときだった。

 張玄の胸と腹から突き出たものを認めて、李旺は「あっ」と驚愕の声を漏らす。

 血に濡れたそれは、するどいやじりであった。


「逃げろ、李旺――」


 肺腑から逆流した血に激しく咳き込みながら、張玄は声を張り上げる。


「益城の太守があんたと夏凛を狙っている。一刻も早くこの農場から離れろ」

「なぜ私にそのことを……」

「勘違いするな。あんたが俺以外の手にかかって死ぬのは我慢ならないというだけだ」


 張玄は李旺の襟首を掴むと、力強く突き放す。


「何をグズグズしている……!? 早くしないと、本当に手遅れになるぞ!!」

「すまん――」

「何を謝ることがある? もう行け、俺になど構うな!!」


 そうするあいだにも矢は次々に飛来し、周囲の地面に突き立っていく。

 李旺はもはや何も言わず、その場でさっと身体を翻していた。

 次第に遠ざかっていく足音を聞きながら、張玄は深く息を吸い込む。


「死ぬなよ、李旺――」


 ややあって、趙宇文ちょううぶんの命令を受けた兵士たちが駆けつけたとき、張玄はすでに事切れていた。

 血溜まりに横たわった屍体を前にして、兵士たちはおもわず足を止めた。

 耐えがたい苦痛の痕跡が刻まれているはずのその顔容は、しかし、この上なく安らかだった。


***


「李旺!!」


 木立のあいだから飛び出してきた人影を認めて、夏凛は感極まったように叫んでいた。


「李旺、その腕はどうしたの!?」

「私なら心配ありません。それより姫さま、ここは危険です。早々に脱出を」

「ええ、急ぎましょう!!」


 翠玉はあっけにとられた様子で二人を見つめている。

 わずかな沈黙のあと、口を開いたのは李旺だった。


「翠玉お嬢さま――」

「ち、違うの……私はあなたのために……」

「いままで長らくお世話になりました。旦那さまと奥様にもよろしくお伝えください」


 それだけ言って、李旺は頭を下げる。

 今生の別れであることを即座に理解して、翠玉の双眸から大粒の涙がこぼれ落ちる。

 次の瞬間、翠玉はおおきく両手を広げると、二人のまえに立ち塞がっていた。


「待って!!」

「邪魔をしないでください――」

「いいえ、絶対にどかないわ。ねえ、あなただって分かっているんでしょう? あいつらが探しているのはその子だけなのよ。その子を引き渡せば、あなたは助かるわ」

「私は姫さまの臣下です。たとえこの生命が尽きようと、最期まで姫さまをお守りするのが私の役目です」

「そんなのおかしいわ。もう成夏国は滅んだのよ。王女でもなんでもないその子のために死ぬなんて、絶対に間違ってる!!」


 翠玉は心底から忌々しげに吐き捨てると、きっと夏凛を睨めつける。

 凄まじいまでの憎悪を真っ向から叩きつけられて、さしもの夏凛も怖気づいたようであった。

 そんな主君の心中を察知してか、李旺は震える肩をそっと抱き寄せる。


「李旺――」

「姫さま、耳をお貸しになりませんよう。どんなときも私はあなたの味方です」


 それだけ言って、李旺は翠玉を押しのけるように前へと進む。


「……死んじゃえ」


 通り過ぎざま、夏凛はその声をたしかに聞いた。

 地の底から沸き起こるような、それは怨念に満ちた呪詛であった。

 おもわず振り返って、夏凛はちいさく悲鳴を漏らした。

 夏凛を睨みつける翠玉の面貌は、恐るべき悪鬼のそれにほかならなかった。


「あんたなんか死んじゃえばいいんだ!! あんたのせいでみんなが不幸になるのよ。あんたなんかこの世に生まれてこなければよかった。どこへでも行って、一人で死になさい、この疫病神!!」

「翠玉……」

「あんたなんか大嫌い。さっさと出ていってちょうだい。二度と私の前に現れないで!!」


 かすれた声で叫ぶと、翠玉はぐったりとその場に倒れ込んだ。

 夏凛は何かを言おうとして、強く唇を噛むばかりだった。

 疫病神――確かにその通りかもしれない。せつ夏氏かしの一族も、自分を生かすために死んでいった。自分がいなければ、死ななくても済んだはずの者も大勢いたはずだ。いままでも、そしてこの先も、誰かを犠牲にしなければ生きていけないのか。

 自問するたび、夏凛は張り裂けそうな胸の痛みに苛まれるのだった。

 李旺は相変わらず押し黙ったまま、夏凛の手を引いて闇の森をひた走る。

 しゃにむに身体を動かし続けることこそが、やり場のない苦悩を紛らわせる最善の手段であることを知っているのだ。

 荘家の農場の敷地を出るかというところで、李旺はふいに足を止めた。


「どうしたの? 李旺?」

「姫さま、どうかお静かに――」


 ふいにあたりが明るくなった。

 周囲に潜んでいた兵士たちが一斉に松明に点火したのだ。

 精確な人数は定かではないが、ざっと五十人は下らないはずであった。


「どこへ行かれるおつもりですかな、夏凛王女」


 兵士たちが左右に分かれるのと同時に、いかにも神経質そうな声が二人に投げかけられた。

 悠然と歩み出てきたのは、官服をまとった壮年の男だった。


「私は益城の太守、趙宇文ちょううぶんと申します。王女殿下をお迎えに参上しました。おとなしくご同行願えれば、手荒な真似はいたしませぬ」

「私たちをどうするつもり?」

「もちろん王族に相応しい処遇を約束しましょう。貴女様は私どもにとって大事な御方ですからな」

「私の首が、の間違いではなくて?」


 夏凛にすげなくあしらわれ、趙宇文は苛立たしげに親指の爪を噛む。


「己の立場をわきまえぬ小娘め、優しくしてやればつけあがりおって。皆の者、こやつを力づくで捕らえよ。殺してもかまわぬ!!」


 趙宇文の号令一下、盾と手戟しゅげきを構えた兵士が進み出る。

 郡の正規兵だけあって、雑兵といえども無骨な甲冑に身を固めている。

 円陣を組んだまま、兵士たちはじりじりと間合いを詰めてくる。


「姫さま、私のおそばをけっして離れませぬよう」

「でも、李旺、その腕じゃ……」

「左腕だけで十分です」


 李旺は左腕だけで抜剣すると、剣尖を兵士たちに向ける。

 王女の護衛について何の説明も受けていない兵士たちだが、達人を相手にしていることは直感的に察せられたらしい。

 ひとたび芽生えた恐怖はまたたくまに集団全体に伝染していく。

 数の上では有利でも、戦闘になれば少なくない犠牲が出る。そのなかに自分が入ってしまうのではないかという危惧が兵士たちの足に絡みつき、武器を持つ手を震わせている。

 こうなっては、緻密に見えた陣形にほころびが生じるのも時間の問題だ。


「何をしている!? 敵はたかが小僧と小娘だけだ。そのまま押し包んでしまえ!!」


 趙宇文の甲走った怒声が、萎縮しつつあった兵士たちの心を奮い立たせた。

 そうだ――敵はたかが二人。姫がまともに戦えないことを考えれば、脅威となりうるのは李旺ただひとりなのだ。

 世に名高い剣の達人だろうと、大勢の敵に囲まれては勝ち目はない。


「殺せいっ!!」


 趙宇文の絶叫に呼応するように、兵士たちは喚声を上げて突き進む。

 夜更けの静寂を破り、ふたたび血戦の幕が上がろうとしている。

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