第34話 宿命(三)

 紅に染まった月の光のもとで、二人の剣士は対決の時を迎えようとしていた。

 戦いの舞台は、森林のなかに開けた空き地である。もともとは伐採した木材を置いておく場所であったらしい。主人一家が住む母屋からも、使用人たちにあてがわれた小屋からも離れているため、人目をはばかる必要もない。


「ここなら邪魔も入らないはずだ――」


 李旺は張玄を見据え、独りごちるみたいに呟いた。

 相変わらず野良着姿のまま、腰には愛用の長剣を差している。

 ふだんは小屋の床下に厳重に秘匿し、けっして見つかることのないよう注意を払っていた一剣である。

 使う機会こそなかったが、日々の手入れは怠っていない。切れ味はいささかも落ちていないはずであった。

 研ぎ澄まされた刃は、これから始まる死闘にも十分耐えうるだろう。


「……本当に私と戦うつもりか、張玄」

「何度も同じことを言わせるな。俺にとって、貴様と戦うことだけが生きている理由だ」

「しかし、その目では、私に勝つことは出来まい」

「試してみるか」


 張玄は不敵に笑うと、杖を無造作に投げ捨て、左右の腰に差した双剣を抜いた。

 長短一対の剣は月明かりを照り返し、濡れたような輝きを湛えている。

 短剣を掌でくるりと回して逆手さかてに持ち替えたかと思うと、張玄はやおら腰を落とした。

 重心を低くしたのは、足腰のを最大限に活かすためだ。筋骨に溜め込んだ力を解き放つことで、一瞬のうちに凄まじい加速を得ることが出来る。

 いままさに獲物に飛びかからんとする肉食獣にも似た、それは獰猛な構えであった。


「貴様は知るまい。この二年間、俺がどんな思いで修行に励んできたか。なにもかもなげうって、ただ貴様に勝つためだけにすべてを捧げてきた……」

「そうまでして私に勝ったところで、何か得るものがあるとでも言うのか!?」

「愚問だな、李旺。――貴様も抜くがいい。戦いはもう始まっているぞ」


 張玄に促されるまま、李旺は剣柄けんぺいに手を伸ばす。

 もはや戦いから逃れることは出来ない。この局面を切り抜けるためには、張玄を倒すしかないのだ。

 胸の奥に生じた鈍い痛みを振り払うように、李旺は勢いよく剣を抜き放った。


「それでいい。俺と貴様は、生きているかぎり戦うことを宿命づけられている。どこへ逃げようと、天命に逆らうことなど出来るものか」

「張玄……もう後戻りは出来ないぞ」

「望むところだ――」


 二人のあいだで奔騰した鬼気は、あっというまに周囲の空間を飲み込んでいった。

 季節は初夏だというのに、あたりの空気は真冬みたいに冷えきっている。

 時と所を変えて、二年前のあの夜が再現されたようであった。

 先に動いたのは張玄だった。

 低い構えを保ったまま、張玄はと烈しく地を蹴り、李旺めがけて猛進する。

 その疾さは、ほとんど一陣の黒風と化したようであった。


 盲人とは思えないほど機敏で正確な動作は、想像を絶する努力の産物だ。

 この二年のあいだ、張玄はひたすら失った視覚を補うための方法を探求してきた。

 当初は残った感覚――聴覚と嗅覚、触覚を極限まで研ぎ澄まし、失った視覚を補おうとしたが、その試みはすぐに壁に突き当たった。

 人間はもともと大半の情報を視覚から得ている生物である。

 どれほど他の感覚を鍛えたところで、目の代わりはとても務まらない。人生の大部分を晴眼者として過ごしてきたならばなおのことだ。

 苦悩の末、張玄がたどり着いた結論は、ことだった。

 すなわち、それぞれの感覚器に視覚の役割を分担させようというのである。


 共感覚シナスタジア――。

 生まれ持った素養に左右されるところがおおきいとされているそれを、血の滲むような鍛錬のすえに、張玄は後天的に身につけたのだった。

 いまや張玄はことが出来るようになっている。

 敵の呼吸や衣擦れの音を映像として再構築し、正確な間合いを把握することさえ難なくやってのける。

 張玄の脳内に現出した精巧な仮想空間には、李旺の姿も、風に揺れる木々の枝葉も、現実とさほど変わらぬ姿でありありと描き出されているのだった。


「くっ……!!」

 

 夜気を裂いて走ったするどい斬撃を、李旺はすんでのところで受け止めた。

 もし一瞬でも防御が遅れていれば、喉首を逆袈裟に切り裂かれていたはずであった。

 正確無比な一撃は、李旺の心胆を寒からしめるのに十分な威力を秘めていた。

 これまで張玄とは幾度となく剣を交えてきたが、今日ほど目の前の男を恐ろしいと感じたことはない。

 光を失ったことでその剣技は衰えるどころか、目が見えていたころにも増して熟達を見せているようであった。

 身体の芯がすっと冷えていく。恐怖がじわりと背中を這い登ってくる。

 そんな李旺の心中を見透かしたように、張玄はにんまりと唇を釣り上げる。


「どうした、李旺? 姫を連れて逃げ隠れしているうちに腕が鈍ったようだな。昔の貴様なら、この程度でたじろぎはしなかった」

「なんとでも言うがいい。私が挑発に乗るとでも思っているのか」

「貴様の本気を見せてみろ――俺を失望させてくれるな」


 張玄はましらのごとく飛びずさると、ふたたび双剣を構える。

 どうやら、次は李旺に仕掛けさせるつもりらしい。


(――乗ってやる)


 李旺は右八相に構えたまま、じりじりと間合いを詰めていく。

 二人を隔てる距離は七歩にも満たない。どちらかがその気になれば、剣刃は一瞬に敵を捉えるだろう。

 それにしても奇妙なのは、張玄の佇まいに毫ほどの緊張も感じられないことだ。

 双剣を携えた両手をだらりと垂らし、茫洋と立ち尽くすその姿には、戦場には似つかわしくない呑気ささえ漂っている。一見すると戦うまえから勝負を捨てているようでもあり、またそれゆえに底知れぬものを感じさせずにおかなかった。


(奴が何を企んでいるにせよ、ここは仕掛けるしかない)


 手足に絡みつく逡巡を振り払うように、李旺は張玄に飛びかかっていった。

 月光を撥ねて銀閃が迸る。

 裂帛の気合とともに李旺が繰り出した一撃は、しかし、虚しく空を切った。

 ただ躱されたのではない。攻撃の軌道を強引に逸らされたのだ。

 張玄は両手に持った長短の剣のうち、左手の長剣で李旺の攻撃を受け止め、そのまま受け流したのだった。

 その隙を逃さず、逆手に構えた短剣が風を巻いて李旺に迫る。

 とっさに上体を反らした李旺の右頬にひとすじの朱線が浮かんだかと思うと、どっと鮮血が吹き出した。

 紙一重のところで回避したつもりが、剣尖は皮膚を抉っていたのだ。鼓動に合わせて流れ出る血もそのままに、李旺はふたたび右八相の構えを取る。


「浅かったか――」


 張玄はいかにも口惜しげに言うと、短剣を順手に持ち直す。


「だが、これで分かったはずだ。俺がめしいだからと要らぬ気を遣っていると、今度こそ死ぬことになるぞ」

「手加減をしているつもりはない」

「とぼけるな。あの夜の貴様はこんなものではなかった。それとも、姫の生命がかかっていなければ真の実力は発揮出来んか?」


 あざ笑うように言って、張玄は傍らの木立に顔を向ける。

 李旺の顔から血の気が引いていったのは、そこが夏凛が隠れている場所であったからだ。

 むろん、夏凛がそこにいることを張玄が知っているはずもない。

 葉擦れの音、かすかな呼吸音……そして、李旺がつねにを庇うように立ち回っていること。

 断片的な情報をつなぎ合わせ、姫が潜んでいるであろう位置を割り出したのだ。恐るべき洞察力と分析力であった。


「姫さまには手を出さないと約束したはずだ!!」

「そんな約束は忘れた。もっとも、貴様が俺を楽しませてくれるのであれば話は別だ。俺に勝てなければ、どのみち貴様もあの娘も死ぬことになる」

「張玄――ッ!!」


 怒声が夜気を震わせたが早いか、李旺は地を蹴っていた。

 剣柄をぴたりと脇腹に密着させ、切っ先と肩の位置はほとんど並んでいる。

 剣と身体が一体になったかのような、それは剣術の常道を外れた構えであった。

 李旺は突進の勢いもそのままに跳躍すると、空中で身体を旋回させる。


「――!!」


 李旺の振り下ろした長剣は、やはりと言うべきか、張玄の長剣に受け止められた。

 それでも、張玄が即座に反撃に転じることが出来なかったのは、短剣を握った右の手首を掴み取られたためだ。

 李旺が危険を承知で内懐に飛び込んだのは、張玄を斬り捨てるためではなかった。

 剣を身体に密着させた奇妙な構えは、剣筋をぎりぎりまで読み取らせないためだ。尋常の構えでは、刀身が風を切る音でこちらの狙いを見破られるおそれがある。

 動きを止める。ただそれだけのために、李旺は一か八かの賭けに出たのだった。


「狂ったか、李旺――」

「これで双剣は使えまい。それに、この間合なら、

「なに!?」

「私にもようやく分かりかけてきたということだ。盲目だからと迂闊に間合いを取れば、それだけ貴様を利することになる。貴様の能力ちからを封じるには、こうするのが一番効く……違うか?」

「ふ……ふふ……」


 張玄の唇から低い笑いが漏れた。


「さすがだな、李旺。それでこそ俺の宿敵だ。そうでなくては面白くない」

「こんなことはもうやめろ、張玄。俺はおまえと戦いたくない」

「言ったはずだぞ。天命からは逃れられないと――――」


 李旺はとっさに身体を離していた。

 そうしていなければ、張玄が繰り出した膝蹴りをまともに喰らっていただろう。

 張玄が立て続けに放った蹴りの連撃を捌きながら、李旺も負けじと拳打を浴びせる。互いに顔と胴をしたたかに打たれ、くぐもった呻き声を漏らしたのはほとんど同時だった。

 二人の闘争は、もはや華麗な剣技の競い合いではなく、お互いの持てる力のすべてを叩きつける泥仕合の様相を呈している。文字通りの死闘は、どちらかが力尽きるまで続くはずであった。


「うれしいぞ、李旺。俺はこの日が来るのをずっと待ちわびていた」

「これがおまえの望んだことか。こんなことのために、今日まで私たちを追っていたというのか!?」

――か。貴様にとってはそうかもしれんが、俺には唯一の生きがいだった。貴様から受けた屈辱をそそぐ方法は、ふたたび貴様と戦って勝つことだけなのだからなあ」

「それほど勝ちたいなら、勝ちなどいくらでも譲ってやる。こんな戦いの勝ち負けなど、私にとっては何の値打ちもない」

「貴様はまだ分かっていないようだな――」


 張玄の顔に怒りの色が広がっていく。

 李旺にむかって双剣を突きつけ、張玄はなおも吠え立てる。


「ただ勝つだけでは足らん。貴様も俺と同じ目に遭わせてやる」

「何を言っている……?」

「二度と剣を取れない身体にしてやるということだ。絶望のなかで、死ぬことも出来ずに苦しみ続けるがいい。俺が這いずり回ってきた苦しみに満ちた世界を、貴様にも味わわせてやる!!」


 吹き付ける怨嗟の嵐をまともに受けても、李旺は微動だにしていない。

 精悍な面差しには、すべてを受け入れながら、けっして屈することのない強靭な意志が漲っている。

 長剣を正眼に構えた李旺は、張玄にむかってゆっくりと間合いを詰めていく。


「あのとき、おまえに情けをかけたのは、私なりの友情のつもりだった。だが、どうやらそれは間違っていたようだ」

「ようやく気づいたか――貴様のしたことは、俺のすべてを踏みにじったも同然だ」

「だから、ここで決着をつけよう。おまえも私を殺すつもりで来い」

「言われるまでもない!!」


 言い捨てると同時に、張玄は黒い疾風となって李旺に殺到する。

 三条の銀光が闇夜に走り、烈しく刃花を散らした。

 忙しなく攻守を入れ替えながら、二人の剣士は息もつかせぬ剣戟の応酬を繰り広げる。

 闇空に響きわたった甲高い金属音は、寸秒も途切れることなく連鎖して、恐ろしくも美しい戦いの旋律を奏でていく。

 その音が途切れた瞬間こそ、二人の戦いの幕切れにほかならない。

 紅い月光の下、生き残るのはただひとりだけなのだ。

 

***


 木立の陰で夏凛は震えていた。

 先ほどから途切れなく聞こえてくる剣戟の音が恐ろしいのではない。

 その音がことが恐ろしいのだ。

 むろん、李旺の勝利を疑っている訳ではない。

 それでも、張玄がまとっていたただならぬ鬼気は、少女の胸に言い知れぬ不安を喚起させずにおかなかった。

 どうか無事に帰ってきて――両手を胸の前で重ね合わせ、夏凛はただそれだけを祈っている。

 と、背後でふいに気配が生じた。


「ここにいたのね、馮杏ふうきょう――」


 優しげな声で言って、翠玉すいぎょくはつかつかと夏凛に近づいてくる。


「翠玉お嬢さま……? どうしてここに?」

「あら、私はこの農場の娘なのよ。どこにいたって構わないじゃない。それに、いまさらだなんて、白々しい呼び方はやめてちょうだい」

「えっ――」


 返答の代わりに、翠玉は夏凛の顎を掴んでいた。

 もともと翠玉のほうが背が高いのである。ただでさえ体格差があるところに、明確な意志を持って身動きを封じられれば、夏凛には逃れる術はない。


「ねえ、夏凛王女?」

「違います!! 私は――――」

「とぼけても無駄よ。あんたの正体はとっくに分かっているわ」


 翠玉は夏凛の手を取ると、なにか細長いものを握らせる。

 白鞘の匕首あいくちであった。


「これで潔く自害なさい。そうすれば、李旺あのひとは助かる」

「嫌……私は――」

「捕まればどうせ死ぬことになるのよ。それとも、どこの誰ともしれない男たちに辱められるほうがいいの? あなた、顔はいいんだから、殺されるまえに自分がどういう目に遭うかくらい分かるでしょう」


 翠玉は夏凛の小さな顎を掴みながら、嬲るように言葉を継いでいく。


「さあ、どうしたの? あなた一人が死ねば、なにもかも丸く収まるのよ。成夏国はとっくに滅んで、あなたはもう王女でもなんでもないわ。今さら一人生きていたって仕方がないでしょう」

「それでも……私は……」

「グズグズしていると取り返しのつかないことになるわ。これ以上あなたのせいで不幸になる人間を増やさないためにも、さっさと楽におなりなさいな」


 次の瞬間、翠玉は勢いよく突き飛ばされていた。

 下生えの生い茂った地面に手をつきながら、翠玉はきっと夏凛を睨めつける。


「何をするの――!?」

「私は……私たちは、まだ死なない。いいえ、死ねない。自分の生命を捨てて私たちを生かしてくれた人のためにも、こんなところで死ぬ訳にはいかない」

「まだ分からないの? あなたのせいでみんなが迷惑しているのよ!!」

「そうだとしても、私は生きる。どんなに苦しくても、たとえ誰かを苦しめることになったとしても、私は生きることから逃げたりしない!!」


 先ほどまでとは別人のような夏凛の気迫に、翠玉はおもわず数歩も後じさっていた。夏凛が身にまとう雰囲気は、すでに王女のそれに戻っている。


「私たちのことを密告したのはあなたね、翠玉」


 夏凛は翠玉をまっすぐに見据えると、底冷えのする声で問うた。


「そ、そうよ……!! それのなにがいけないの!? 名前を偽って私の家に入り込んで、今日まで父さんや母さんを騙していたくせに!! あんたに文句を言われる筋合いなんてないわ!!」

「本当のことを言わなかったのは私たちが悪かったわ」

「だったら……!!」

「もうこの農場にはいられない。私と李旺はすぐに出ていくつもりよ。旦那さまとおかみさんには申し訳ないけれど、あの人たちを巻き込む訳にはいかないもの」

「ふざけないで……!! あんただけが捕まればいいじゃない!! 私の愛しい人を道連れにしないで!!」

「ごめんなさい――」


 夏凛が口にした謝罪に言葉は、誰に向けられたものか。

 翠玉はそれきり黙り込んだ。二人の少女のあいだを重い沈黙が埋めていく。

 ひっきりなしに聞こえていた剣戟の音が途切れたのはそのときだった。

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