第33話 宿命(ニ)

 薄い雲が陽を遮っていた。

 かんかん照りという訳でもなく、雨が降る訳でもないこんな薄曇りの日は、野良仕事にはうってつけだった。

 荘家の農場内に拓かれた広大な畑では、数十人の農夫たちがせっせと鍬を振るっている。

 そのなかには馮克ふうこく――李旺の姿もある。

 この農場にやってきてから早一年、畑仕事にもすっかり慣れた。

 幼いころから武の道だけに邁進してきた李旺である。剣を鍬に持ち替えた当初こそぎこちない動きが失笑を買ったが、それもつかの間のことだ。

 鍛え抜かれた肉体は、どんな過酷な労働にも音を上げることはなかった。働き始めてから二月ふたつきと経たないうちに、李旺の仕事ぶりは熟練の農夫も舌を巻くほどの上達を示したのである。

 いつぞや怠け癖にある同僚から三人分の仕事を押し付けられたときも、苦もなく片付けてしまったほどだ。

 なるべく目立たぬように心がけてはいたが、疲れ知らずの熱心な働きぶりは、いやでも注目を集めずにはおかない。

 生来の飾り気のない人柄とあいまって、いつしか農場の誰もが一目置く存在になっていた。


「あっ、旦那さま――」


 農夫の一人が驚いたように声を上げた。

 李旺が顔を上げると、畦道を歩いてくる中年男の姿が目に入った。

 農場主の荘融そうゆうであった。

 予期せぬ雇い主の登場に、農夫たちは一様に平伏している。

 彼が畑の見回りに来るのは、いつも昼食の後と決まっている。今日はだいぶ早い。

 こんなときは、よほどいいことがあったか、よほど悪いことがあったかのどちらかなのだ。

 荘融は畑のそばで足を止め、不安げに見つめる農夫たちを一瞥すると、


「馮克はいるか」


 威厳のある声で問うたのだった。


「私はここにおります。なにかご用でしょうか、旦那さま」

「おまえにすこし話がある」


 立ち上がった李旺にむかって、荘融は重々しく首を縦に振る。


「すぐ戻ります」


 傍らの農夫たちに頭を下げ、李旺は小走りに畑を出る。

 荘融は、畑を一望する丘の上で待っていた。

 大樹の根本に腰を下ろしたまま、早く来いと手招きをする。


「来たか、馮克」

「はい……」

「立ち話も何だろう。そこに座るがいい」


 李旺は勧められるがまま、荘融からわずかな距離を置いて胡座をかいた。

 けっして表情には出さないが、内心は穏やかではない。

 逃亡者である李旺にとって、信頼に値する人間は、この世で夏凛ただひとりである。

 いまのところ荘融との関係はいたって良好だが、しかし、不用意に気を許していい相手ではない。

 自分たちの正体が露見したのではないか――。

 もしそうであれば、ただちに次の手を打たねばならない。

 七月まであと一月ひとつきたらずというところで計画を変更しなければならないのは不本意だが、背に腹は代えられないのだ。

 農場からの逃走経路や今後の計画……あらかじめ用意していたものも含めて、さまざまな考えが李旺の頭を埋め尽くしていく。

 それが杞憂に終わるかどうかは、荘融が次に発する一言にかかっている。


「……相変わらずよく働いてくれているようだな」


 荘融は口髭をなでつけながら、すっと目を細める。


「いままで大勢の人間を使ってきたが、おまえほど真面目な男は見たことがない。他の者にもいい影響を与えてくれているようだ」

「過分なお褒めにあずかり恐縮です――」

「じつは折り入って話があるのだがな」


 荘融はごほんと咳払いをすると、李旺をまっすぐに見据える。

 李旺の背中から冷たい汗が吹き出す。


「おまえさえよければ、この先もずっと我が家で働いてほしいのだ」

「……」

「もちろん、働きに見合うだけの待遇は用意するつもりだ。妹の馮杏ふうきょうも一緒に暮らせるよう取り計らおう。この沢鹿たくろくに一家を構え、骨を埋めるつもりはないか」

「旦那さま、私は……」

「みなまで言うな――過去のことなど気にしてはおらん」


 李旺の胸の烙印のことは、荘融も知っている。

 出自を偽るためにみずからの手でつけたものだが、荘融は疑いもしていない。

 当然だ。好き好んで自分の身体に奴隷の烙印を押すなど、正気の沙汰ではないのだから。

 たとえ自由の身になったとしても、烙印があるかぎりまっとうな人生を送ることは出来ない。それが七国における常識であった。


「私も若いころに柳機りゅうき将軍に従っていくさに出たことがある。無事に故郷ふるさとに帰ることが出来たのは、たまたま運がよかったからだ。すこし運命が違っていれば、おまえと同じように敵に捕らえられ、奴隷として他国に売り飛ばされていたかもしれん。結局は天運に身を任せるしかないことを、どうしておまえが負い目に感じる必要がある?」


 荘融の言葉には、心底からの同情の響きがある。

 真実を話したとしても、この男ならあるいは受け入れてくれるのではないか……。

 一瞬よぎったうす甘い考えを、李旺は即座に噛み潰す。

 安息も平穏もとうに捨て去った。そのどちらも、いまの李旺には無用のものであった。


翠玉すいぎょくにはいずれ相応しい婿を取らせるつもりだが、良家の子息だからといって能力が伴っているとはかぎらん。おまえのような者が家にいてくれれば、私も安心して後事を託すことが出来るというものだ」

「私のような流れ者にはもったいないお話でございます。ですが……」

「突然のことで戸惑うのも無理はないだろう。今日のところは考えておいてくれればいい」


 李旺がそれ以上なにかを言うまえに、荘融はさっさと歩き出していた。


「あちこちに流れ流れる人生も悪くはないだろうが、それが出来るのも若いうちだけだ。おまえもいずれ一所ひとところに腰を落ち着けなければならない日が来る。……色よい返事を待っているぞ、馮克」


 荘融は一度だけ振り返ると、念を押すように深く頷く。

 次第に遠ざかっていくその背中を、李旺は黙念と見つめていた。


***


 一日の仕事を終えた兄妹きょうだいは、いつものように家路についた。

 薄暗い道を歩きながら、李旺は夏凛をちらと見やる。

 わずかな逡巡のあと、李旺ははたと足を止め、


「じつは――」


 意を決したように口を開いたのだった。


「旦那さまから、この農場でずっと働いてくれないかと言われた。待遇は保証するから、これからもここで暮らさないか……と」

「本当?」

「過去のことは気にしないとも言ってくれた」


 夏凛は喜びに顔を綻ばせたかと思うと、そのまま足元に視線を落とす。


「見た目はちょっと怖いけど、荘融さんはいい人だわ。おかみさんもなんだかんだ私のことを気にかけてくれるし」

「ああ……」

「出来ることなら、私もずっとここで働きたい」


 訥々と紡ぎ出した言葉には、隠しようのない悲しみがこもっている。

 夏凛にも分かっているのだ。

 この世のどこにも自分たちの安住の地など存在しないことを。

 成夏国を再興する日まで、いつ終わるともしれない漂泊を宿命づけられていることを。

 波間にたゆたう一片ひとひらの木の葉のように、二人が生きていくためには、不確かで危うい旅を続けていくしかないのだ。


「もしかしたら、予定を早めることになるかもしれない」

「ちょっとだけ寂しいけど、仕方ないわね」

「すまない……」

が謝ることじゃないわ」


 夏凛は微笑んでみせる。

 それから数歩も進まぬうちに、二人は示し合わせたみたいに足を止めていた。

 李旺がふいに夏凛の前に出たのだ。身体全体で進路を遮るような、それは目にも留まらぬ素早い挙措であった。

 薄闇に閉ざされた世界に、もうひとつの気配が生じた。

 路傍の木々の合間から幽鬼のごとく現れたのは、ひとりの男であった。


「久しぶりだな――」


 愕然と立ち尽くす李旺に、男は懐かしげに声をかける。

 ともすれば旧友同士の再会のようだが、二人のあいだに漂う雰囲気は、久闊を叙するにはあまりにも剣呑だった。

 目に見えない針がばらまかれでもしたように、一帯の空気はにわかに刺々しさを帯びはじめている。


「この日を待ちわびたぞ、李旺」

「張玄……どうしてここに……!?」

「たかが両目を潰された程度で、この俺が諦めるとでも思ったのか? あの夜、俺にとどめを刺さなかった自分の甘さを恨むがいい」


 張玄は薄笑いを顔に貼り付けたまま、李旺と夏凛にむかって歩を進めていく。

 足を動かすたび、腰に差した双剣が乾いた音を立てる。


「剣は持っていないのか、李旺。丸腰の貴様を斬るのはたやすいが、そんなことをしたところで俺の気は晴れん」

「何が望みだ、張玄」

「知れたこと――いま一度貴様と戦い、倒す。今日までの二年間、俺はそれだけを夢見て生きてきた」

「おまえとの決着はもうついている。これ以上の戦いは無意味だ」

「ほざくな、李旺ッ!!」


 すさまじい怒声が宵闇を震わせた。

 張玄はめしいた目を夏凛に向ける。見えずとも、音と気配によってそこにいることは分かっているのだ。

 その気になれば、双剣を抜き放って肉薄することも可能だろう。


「どうしても嫌だというなら、そのときは姫を殺すまでだ。貴様にとっては自分の生命よりそいつのほうが大切だろうからな」

「張玄、貴様……!!」

「安心しろ。貴様が俺の相手をするというなら、姫に危害を加えるつもりはない」


 張玄の言葉に偽りは感じられなかった。

 全身から立ちのぼる禍々しいまでの殺意はもっぱら李旺だけに向けられ、夏凛の存在はもとより関心の埒外にある。

 李旺を本気にさせるとしての価値しか認めていないということだ。


 二人の男のあいだに凄絶な鬼気が張り詰めていく。

 夏凛は李旺の背後に隠れたまま、袖をぎゅっと握りしめる。


「李旺……」

「姫さま、心配はいりません。何があろうと私がお守りいたします」

「もちろん信じてる――でも、気をつけて」


 力強く頷いた李旺は、決然と張玄に向き合う。


「覚悟は決まったか、李旺」

「張玄、けっして姫さまを巻き込まないと約束できるか」

「むろんだ――もとより俺が興味があるのは貴様だけだ。貴様と戦えるのであれば、他に望むものはなにもない」


 張玄はいかにも愉快げに唇を歪めると、くいと顎で二人が寝起きしている小屋を示す。


「さっさと支度をするがいい。言っておくが、逃げられるなどと思うなよ」

「おまえだけではないのか?」

「さてな――どのみち、ここで俺を倒せなければ貴様も姫も終わりだ。貴様らを匿っていたこの農場の連中もただでは済むまい」


 張玄が言い終わるが早いか、李旺は夏凛の手を引いて、脱兎のごとく駆け出していた。

 逃走を企てたのではない。それは張玄にも分かっている。

 よしんばこの場を逃げおおせたところで、状況が好転する保証はどこにもないのだ。

 夏凛を守り、この窮地を切り抜けるために、李旺が取りうる道はただひとつしかない。

 死力を尽くして戦い――そして、勝つ。

 夜空を見上げれば、雲間から細い三日月が覗いている。

 戦場に降り注ぐさやけき月光は、美しくも無惨な血の色を湛えていた。

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