第36話 宿命(五)

 世界は蒼い闇の底に沈んでいた。

 いつのまにか夜空には厚い雲が垂れ込め、かそけき月光さえ地上には届かない。

 いま、山中の細い峠道を進む人影はふたつ。

 剣を杖にした青年と、その傍らに寄り添うように支える少女。

 二人の足跡を残すように点綴された黒い染みは、青年の身体から流れ出た鮮血であった。


「……なんとか追っ手は振り切ったみたい」


 注意深く背後を振り返りながら、夏凛はほっと安堵の息をつく。

 李旺は前方を見据えたまま、ちいさく頷いただけだ。

 農場を脱出してからここまで、二人は無我夢中で逃げ続けてきた。


 あの後――。

 大勢の兵士たちを相手に大立ち回りを演じたすえに、李旺は夏凛を守りながらみごとに包囲を突破してのけたのだった。

 利き腕を封じられているにもかかわらず、李旺の剣技は並み居る敵を寄せ付けなかった。

 乱戦のなかで何人斬ったかは、当の李旺も覚えていない。

 剣の至境が無我であるとするなら、まさしく李旺はその高みに至ったのだ。

 鬼神もかくやの凄まじい戦いぶりを前に、兵士たちは恐慌状態に陥り、趙宇文ちょううぶんの叱責もむなしく部隊は四分五裂していった。

 むろん、多くの敵に囲まれれば、いかに李旺といえども無傷では済まない。

 全身に無数の刺創さしきず切創きりきずを受け、衣服は元の色が分からないほど血に染まっている。

 常人であればまともに立ってはいられないほどの深手を負いながら、ここまで意識を保っているのは、ひとえに強靭な精神力の賜物だ。


「この道をまっすぐ進めば、国境くにざかいに出るのね?」

「はい……」

「もうすこしの辛抱よ。どこか身を隠せる場所を見つけて、傷の手当てを……」


 李旺は激しく咳き込むと、と血塊を吐いた。

 剣柄を左手に握ったまま、崩折れるように膝を折る。


「李旺!!」

「姫さま……申し訳ありません」

「無理にしゃべらないほうがいいわ。急ぎすぎたのよ。このあたりですこし休んでいきましょう」

「いいえ……それより、私の言うことをよくお聞きになってください」


 いまにも消え入りそうな声で言って、李旺は夏凛を見つめる。

 灯りひとつない夜闇のなか、お互いの顔はぼんやりと霞んでいる。

 それでも、李旺の顔にはっきりと死相が浮かんでいることは分かる。 

 本当はずっと前から気づいていたのだ。不吉な兆しを直視するのが恐ろしかった。現実と向き合えば、そこから一歩も進めなくなってしまうような気がして。


「残念ですが、私はここまでです。こうして話が出来るのも、あとわずかでしょう」

「やめて!! そんな話、聞きたくない!!」

「ここから先は、姫さまだけでお逃げになってください……私のことは構わず、御身おんみの安全だけを考えて……」

「バカなこと言わないで!! あなたが何と言おうと、絶対に置き去りになんてしない!!」

「私との約束をお忘れですか」


 夏凛の黒い双眸からは止めどもなく涙があふれ、頬を流れ落ちていく。

 声にならない嗚咽を漏らしながら、夏凛は血まみれの胸に顔を埋めていた。


「約束なんて、知らない。そんなの忘れてしまったわ。どうせ死んでしまうのなら、二人いっしょがいい。私を一人にしないで……!!」

「姫さま……わがままを仰らないでください……」

「ねえ、李旺。私はあなたのことが好きよ。ずっと前から愛してる。王宮を追い出されても、王女でなくなっても、あなたがいたから耐えてこられた。私一人じゃ一日だって生きていけない。あなたのいない世界で生きていたって仕方ないもの……」


 李旺は何も言わず、かろうじて動く左腕で夏凛を抱き寄せる。

 出血とともに失われつつある愛する人の体温を補うように、夏凛の鼓動は熱く高鳴っていく。


「私ごときにもったいなきお言葉。まこと身に余る光栄です――」

「だったら……」

「それでも、ここでお別れです」


 李旺はふっと微笑んでみせる。

 血にまみれた凄愴な笑み。夏凛は言葉を返すことも出来ず、ただ唇を噛むばかりだった。


「ここから山をもう二つ越えれば、零河れいがのほとりに出ます。上流に住んでいるトウという船渡しを訪ねてください。前もって話はつけてあります」

「もうすこしじゃない……そのくらいなら、二人で……」

「私を連れていては、敵に追いつかれてしまいます」


 李旺は浅く早い呼吸を繰り返しながら、噛んで含めるように言い聞かせる。


「零河を渡ったあとは、華昌国かしょうこくから沙蘭国さらんこくに向かうのです。宮廷には姫さまに拝謁したことのある者もいるはずです。遠く離れたあの国なら、朱鉄の追及の手も及ばないでしょう」


 そこまで言って、李旺は夏凛の肩にそっと手を置く。

 最後の力も尽きようとしているのだろう。頼もしかった掌は、ひどく弱々しく感じられた。


「さあ、もう時間がありません。生命あるかぎり、追っ手は私が食い止めます」

「やっぱり駄目……李旺を置いていくなんて、私には出来ない……」

「どうかお聞き分けになってください」

「薛を見捨てて、今度はあなたまで見捨てるなんて、そんなの出来るはずじゃない!!」


 遠雷のような馬蹄の音が聞こえてきたのはそのときだった。

 激しく地面を蹴立て、夜気を引っ切りながら、猛然とこちらに近づいてくる。

 正体は分かりきっている。敵が追撃のために騎兵を送り込んできたのだ。

 さほど多くはない。二、三騎ほどの小隊のようであった。

 ふいに馬蹄の音が熄んだ。

 一斉に下馬したらしい。足場の悪い峠道では、徒歩かちのほうが動きやすいのだ。

 夏凛がおそるおそる後方に目を向ければ、三つの灯りが暗闇にぼんやりと浮かんでいる。


「姫の護衛は深手を負っているとのことだ。片割れがそんな身体では、そう遠くには行けまい。草の根分けても探し出せ!!」


 隊長格の兵士が叫ぶが早いか、松明の灯はさっと左右に分かれた。

 散開した兵士たちは、それぞれ道沿いの木立や岩の陰を注意深く探っている。

 夏凛と李旺にはまだ気づいていないようだが、発見されるのは時間の問題であった。


「姫さま――お逃げください。私が時間を稼ぎます」


 李旺は剣を支えに立ち上がると、蹌踉とした足取りで兵士たちのもとへ向かう。

 全身に刻み込まれた傷は、李旺の心身をたえまなく責め苛んでいる。

 いかに剣の名手といえども、そんな状態ではまともに戦えるはずもない。

 李旺にしても、無事にこの状況を切り抜けられるとは思っていなかった。みずからの生命と引き換えに、兵士たちと刺し違える覚悟なのだ。


「いたぞ――!!」


 先頭を進んでいた兵士が上げた歓喜の声は、そのまま断末魔に変わった。

 李旺はすさまじい疾さで間合いを詰め、一刀のもとに兵士の頭蓋を叩き割ったのだ。

 瀕死の重傷を負っている身とも思えぬあざやかな一撃。

 李旺は血柱を噴き上げて倒れた兵士には目もくれず、次なる敵を仕留めるべく身体を反転させる。


「貴様、よくもッ!!」


 二人目の兵士は松明を投げ捨てると、手槍を構えて李旺に襲いかかる。

 もはや不意打ちは通じない。自在に剣を振るうだけの余力も残ってはいない。

 ここで始末にもたつけば、三人目が駆けつけてくる。

 万全の状態なら二人がかりだろうと苦もなく退けてみせるが、いまの李旺は一撃ごとに生命をすり減らしている有様なのだ。

 身体が思いのままに動くのもあとわずか――すこしでも読みを違えれば、夏凛が危険に晒されることになる。


「――!!」


 兵士が言葉を失ったのは、突き出した槍を李旺が避けなかったためだ。

 槍は脇腹に深々と突き刺さり、穂先は背中に抜けている。

 あわてて槍を引き抜こうとして、兵士はかっと目を見開いた。

 李旺が投擲した長剣は、おそるべき正確さで兵士の喉首を射抜いていた。

 あえて槍を受けることで、李旺は敵の動きを止めたのだ。みずからの生命に見切りをつけた人間だけに出来る、それは恐ろしくも冷徹な戦法だった。


「ぐっ……!!」


 脇腹に刺さっていた槍が抜けると同時に、李旺の口から血がどっと溢れ出た。

 戦いが始まってからいままで、どれほどの血がこの身体から流れ出ていっただろう。

 普通の人間であれば、とうに失血死していても不思議ではない。李旺がまだ生きているのは、ほとんど奇跡と言えた。

 風前の灯火にも等しいその命は、着実に燃え尽きようとしている。


 最後の敵を前にして、李旺はとうとう地面に倒れ伏した。

 傷口からの出血が激しくなるとともに、四肢の感覚は徐々にあいまいになっている。もはや兵士の喉首に突き刺さった長剣を拾うこともままならない。

 血色の霞がかかった意識のなかで、李旺は夏凛のことを考えつづけている。

 いまのうちにすこしでも遠くに逃げていてくれればいい。どれほど無残な最期を迎えようと、希望を繋ぐことが出来れば、自分の死は無駄ではないのだから。

 ちいさな影が視界に飛び込んできたのはそのときだった。


「李旺、大丈夫!?」


 夏凛は李旺に声をかけながら、兵士の屍体から長剣を引き抜く。


「姫さま、お逃げを……来てはなりません……」

「やっぱり、あなたを放って逃げるなんて、私には出来ない」

「しかし……このままでは……姫さまも……」

「私だって戦える――剣の扱い方を教えてくれたのはあなたよ、李旺」


 力強く言って、夏凛は長剣を構える。

 この二年間、李旺の薫陶を受けてきただけあって、よく整った美しい型であった。

 それでも、大人の男に合わせて作られた長剣は、小柄な少女に不釣り合いであることは否めない。

 ずっしりとした重量は、早くも夏凛の細腕を震えさせている。

 まともに敵と打ち合えば、たちまちに斬り伏せられてしまうだろう。


「いったいなにごとだ!?」


 闇のむこうから駆けてきた隊長格の兵士は、部下の屍体を一瞥すると、


「……夏凛王女とその護衛だな。ここで出会えるとは、運がいい」


 手にしていた松明を放り捨て、腰の佩剣はいけんに手を伸ばす。


「おとなしく投降するならよし。歯向かうつもりならこの場で斬り捨てるまでだ。殺しても構わんと太守様も仰せである」

「黙りなさい、逆賊。これ以上の狼藉はこの私が許しません!!」

「勇ましいのは結構だが、腕も声も震えておるぞ。しょせんか弱き姫君よ」


 嘲笑うように言って、隊長格の兵士はいかにも愉快そうに肩をゆする。


「まったく、天佑とはこのことだな。わざわざケチな太守などにくれてやることもない。王女の首級くびを皇帝陛下のもとに直接持参すれば、俺は列候にも取り立ててもらえよう。千金の手柄首、この禅康ぜんこうが頂戴する‼」


 禅康は剣を目線の高さに持ち上げると、これみよがしに舌なめずりをしてみせる。

 その構えを目の当たりにして、対峙している夏凛以上の危惧を覚えたのは李旺だった。

 さすがに騎兵の小隊を率いるだけあって、部下二人とはあきらかに格が違う。

 李旺には遠く及ばないにせよ、とても夏凛の手に負える相手ではない。初めて真剣で立ち会う相手としては荷が勝ちすぎる。

 もしこのまま剣を交えたなら――剣士としての直感が、これまで培ってきた経験が、李旺の眼裏に勝負の行く末をありありと描き出す。


「姫さま……やはり……」

「李旺、ここは私に任せなさい」


 夏凛は静かに息を吸い込むと、禅康をきつく睨めつける。

 誰もがおもわず後じさるような視線をまともに受けても、禅広は酷薄な笑みを浮かべるだけだった。


「見よう見真似の娘子じょうし剣法が通用するとでも思っているのか? 粋がって男の真似事をしたところで、女の剣などたかが知れておるわ」

「……」

「せめてもの情けだ。一撃で楽にしてやろう」


 言うが早いか、禅康は大股で一歩を踏みだしていた。

 闇を裂いてするどい銀光が流れた。

 先ほどの宣言どおり、一撃のもとに首を斬り落とそうというのだ。

 初撃の踏み込みに全力を傾けた、それはあくまで強引な力技であった。

 夏凛が防御の構えを取ろうとも、力任せに打ち破る自信が禅広にはある。夏凛との膂力の差はそれほどまでに大きいのである。

 刹那、闇夜に走った流星のごときもうひとつの剣閃を、李旺はたしかに見た。


「お……ぉ……う」


 呻吟する禅康の顔を、ひとすじ赤いものが流れ落ちていく。

 夏凛の剣は、禅康の眉間を過たず貫いていた。迫りくる刃を真正面から受けるのではなく、相手の力を逆用して軌道をそらし、一瞬の隙を作り出したのだ。

 敵の鋭気を避け、その惰帰だきを撃つ――夏凛の身体は、李旺の教えに従って動き、みごとに勝利を収めたのだった。

 脳髄を破壊されては、どんな屈強な男でもひとたまりもない。

 禅康の眉間から鮮血が吹き上げたのと、その体躯がどうと仰向けに倒れたのは、ほとんど同時であった。

 もう二度と起き上がることのない敵には一瞥もくれず、夏凛は李旺のもとに駆け寄る。


「李旺っ!!」

「姫さま……見事な剣さばきでした……」

「李旺……私、初めて人を……」

「何も気に病むことはありません。これからは御自身を守るために敵を斬らねばならないときもあるはずです……私がいなくても、あなたは立派に生きていけるでしょう……」


 失血によって李旺の顔はほとんど白蝋と化したようだった。鼓動は弱まり、呼吸の間隔は次第に短くなっている。


「どうやらここでお別れのようです……」

「いや……!! 行かないで……私をひとりぼっちにしないで……!!」

「姫さまに隠していたことがございます……」

「李旺……?」

「私も、あなたのことをずっとお慕い申し上げておりました……」

「どうして言ってくれなかったの? 私は李旺とだったら――」

「私はあくまで臣下にすぎない身です……あなたの気持ちにずっと気づかぬふりをしていたのは……私自身の心を欺くためでもありました……」

 

 李旺の言葉に耳を傾けながら、夏凛はただ涙のあふれるに任せている。

 二人の想いは通じていた。愛を確かめることも出来た。

 心からの幸せを噛みしめているこの瞬間にも、永遠の別離わかれは近づいている。

 二人にとって最初で最後の、それはあまりにも短い逢瀬だった。

 

「……私は精一杯生き抜いたつもりです。姫さまも、どうか最後までお命を全うしてください」

「ねえ、李旺……私たち、また会えるかしら?」

「たとえ今生こんじょうでは結ばれない宿命さだめだとしても……もし生まれ変われたなら……そのときは……」


 李旺はそこで言葉を切り、やさしく微笑んでみせる。

 夏凛は李旺の頭を抱き寄せると、ほとんど無意識のうちに唇を重ねていた。

 口中いっぱいに血の味が広がっていく。錆びた鉄みたいなその味を、夏凛はたまらなく愛おしく感じていた。

 周囲には茫洋たる闇だけがある。二人を包み込んだまま、天も地も時を止めたようであった。

 やがて、永遠のような時間が過ぎ去ったあと、夏凛はゆっくりと顔を離す。

 名残りを惜しむように、ふたつの唇を真紅の糸が繋いでいた。


「……さよなら。また、ね」

  

 ちいさく呟いて、夏凛はそっと李旺の瞼に手を置いた。

 鞘に収めた長剣を腰帯に差し、夏凛はふたたび闇の彼方に顔を向ける。

 迷いを振り切るように駆け出した姫君は、二度と振り返ることはなかった。

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