第22話 奈落(四)

 冷え冷えとしたものが二人のあいだを充たしていた。

 李旺と張玄を隔てる間合いは、およそ四歩。

 どちらかが踏み込めば、それは一瞬のうちに消失するわずかな距離でしかない。

 すでに長剣を抜いている張玄に対して、李旺はあいかわらず剣柄に指をかけたまま、じっと息を殺している。


 後の先を取るつもりなのだ。

 あえて敵に先手を取らせ、攻撃の際に生じたわずかな隙を突いて反撃する――。

 これまでたびたび行われてきた張玄との練習試合において、李旺はそのようにして勝利を得てきた。高度に計算された反撃カウンターは、先手の有利を捨てて余りある効果を発揮する。

 先読みの正確さと、抜剣の疾さに相当の自信がなければ不可能な芸当であることは言うまでもない。

 その両方を兼ね備えた李旺の姿は、緊迫した戦場には不似合いなほど自若としていた。


――貴様の考えは読めているぞ、李旺。


 右八相に構えながら、張玄は心中でほくそ笑む。


――この俺が何度も同じ手に引っかかるとでも思っているのか?


 張玄は両足を地につけたまま、じりじりと間合いを詰める。

 一見すると奇怪な歩法は、熟達した剣士だけが使いこなせるものだ。

 下半身の筋肉を効果的に用いることで、直立の姿勢を崩すことなく、重心を安定させたまま移動することが出来る。


 二人のあいだに横たわる距離は、すでに三歩にまで縮まっている。

 張玄が動いた。

 実際には、その動作はほとんど跳躍と言うべきだろう。

 膝から下――足指と足首に溜めた力を解き放ち、張玄はおのれの全体重を前方へ

 征矢のごとく飛びかかった張玄に、さしもの李旺も動揺を隠せない。

 それも無理からぬことだ。ゆうに三歩は残っていた間合いを、まさか一瞬に詰めてくるなどとは、いかなる達人にも予想出来なかったはずであった。


――取った!!


 張玄は空中で剣刃をわずかに寝かせると、逆袈裟に斬りかかる。

 足を地につけていない分、斬撃の威力は落ちている。

 それで何の問題もなかった。

 右上方にむかって鋭い斬線を描く一閃は、対手の利き腕を断つためだけに放たれたものだ。

 いかに李旺の抜き打ちが神速の域にあろうとも、剣を抜く一連の動作を経なければ反撃に移ることは不可能である。

 いま張玄が断ち切ろうとしているのは、現実の李旺の腕だけではない。これから彼が行おうとしている反撃の動作そのものであった。

 たとえ一撃で息の根を止めることが出来なかったとしても構いはしない。

 李旺の初動を挫くことに成功すれば、あとはどうとでもなる。二の手、三の手で確実に仕留めればよいだけのことだ。


 迫りくる剣刃をまえに、李旺はわずかに身を低くした。

 その程度で回避出来るはずもない――それは、ほかならぬ李旺自身が誰よりもよく分かっているはずであった。 

 おのれの勝利を確信した瞬間、張玄は剣先に奇妙な感覚を覚えた。

 錯覚などではない。刃がなにか硬質のものに接触し、押し返されたのだ。


「なに――」


 張玄はほとんど転がるように李旺の傍らをすり抜けると、すばやく姿勢を立て直す。

 愕然と振り返った視界に飛び込んできたのは、李旺の右手に握られた長剣だった。

 張玄がかっと目を見開いたのは、長剣がであったからだ。

 あの瞬間、李旺は鞘から剣を抜くことなく、鍔の部分で張玄の攻撃を受け止めたのだった。

 いかにも実戦向きの飾り気のない鍔は、刃をまともに受け止めるだけの強度がある。

 もし抜き打ちに拘っていれば、李旺の手首はあっけなく切断されていただろう。

 それにつけても、剣を迎え撃つのに剣を抜くこともしないとは、みずからの技量に揺るぎない誇りと自信を持つ張玄には考えもつかない戦術であった。

 必要とあれば剣士の矜持もためらいなく捨て去る……それこそが李旺の巧者たる所以であり、張玄にとっての誤算でもあった。


「これで終わりか、張玄」


 片膝を突いた張玄に、李旺は底冷えのする声で呼びかける。


「やるな、李旺。そうでなければ面白くない」

「試合ではない真剣勝負がしたいと言っていたな。まだ続けるつもりか」

「あんたがその気になったなら、止める理由はないだろう」


 張玄は不敵な笑みを浮かべ、ゆらりと立ち上がる。


「さあ、まだ勝負は始まったばかりだ。心ゆくまで楽しもうじゃないか」

「……これ以上貴様に付き合っているいとまはない」

「そう思うのなら、本気でかかってこい。俺は最初からそのつもりだ」


 張玄は正眼に構えながら、深く息を吸い込む。

 松明の火が揺らぎ、隧道ずいどうにふたたび静寂が戻っていく。

 一瞬の熱はすでに過ぎ去り、次の激突にむけて、二人は内なる鬼気を昂ぶらせていく。


「いままでの試合、あんたはずっと手加減をしていただろう。俺がそのことに気づいていなかったとでも思っているのか?」

「……」

「あんたとの試合のたびに俺がどんな思いをしていたと思う。勝ちを譲られる者の気持ちを一度でも考えたことがあるか。それがどれだけ残酷な仕打ちだったか、あんたには分からないだろう」


 李旺を睨めつけながら、張玄は血を吐くような声で叫ぶ。


「成夏国も王族もどうなろうと知ったことか。だが、李旺、あんたに勝ち逃げされることだけは許せん」

「それが私に決闘を挑んだ理由か、張玄」

「そうだ――あんたにとってはそれだけの理由かもしれないが、俺にとっては生命を懸ける値打ちがある」

「……いいだろう」


 言って、李旺は剣を抜く。

 鞘を腰帯に戻すと、張玄と同様に正眼の構えを取った。

 その行為が意味するところはあきらかだった。後の先を取るのではなく、真っ向勝負で雌雄を決しようというのだ。


「それでいい。あんたがその気になってくれたなら、俺も心置きなく戦える」

「来い――」

「言われるまでもない」


 言い終わるが早いか、張玄は猛然と斬りかかっていた。

 小手先の技巧に背を向けた、それはあくまで愚直な攻め口であった。

 李旺もすかさず剣を突き出し、張玄の打ち込みを捌いていく。剣脊や剣背で受け止めているのは、刃を潰さぬためだ。

 張玄が繰り出す斬撃は、かつてないほどの重さと鋭さを帯びていた。

 その威力は、大力で知られた近衛隊長の范良はんりょうに勝るとも劣らない。

 ほんのわずかでも気を抜けば、李旺の五体はたちどころに斬り刻まれるだろう。


 隧道内に澄んだ刃音が幾重にも反響し、無数の剣閃が闇中に交錯する。

 須臾しゅゆのあいだに咲いては散る儚い銀華は、死闘の当事者たちにしか見えないものだ。

 二人の剣士の実力は伯仲している。どちらが勝ったとしても不思議はない。

 それでも、形勢はすこしずつ張玄の側に傾きはじめている。

 攻め手の有利を最大限に発揮し、一撃ごとに李旺の体力を削り取っているのだ。

 李旺は刺客たちとの死闘で消耗しているということもある。このまま決着がつかなければ、張玄よりも先に限界を迎えるのは必定であった。


 は、意外なほど早く訪れた。

 上方から振り下ろされた刃を受け止めながら、李旺はたたらを踏むように後じさった。

 その隙を張玄は見逃さなかった。

 呼吸を止め、丹田に力を込めたのは、必殺の一撃を繰り出すための予備動作だ。

 いったん下方から逆流れに斬り上げたあと、すばやく手首を返し、目にも留まらぬ疾さの突きを見舞う……。

 張玄の読みは完璧だった。李旺は太刀筋を見切ることも出来ず、あえなく斬死を遂げるはずであった。


「おおッ!!」


 張玄は裂帛の気合とともに踏み込んでいく。

 李旺の剣が奇妙な動きをみせたのはそのときだった。

 剣先を胸の高さまで持ち上げたかと思うと、そのまま横に滑らせていく。

 急迫する張玄の剣に対して、李旺の胸と胴はがら空きになっている。

 殺してくれと言わんばかりの不可解な構え。張玄の知るいかなる流派にもない、それは剣の常道を外れた所作であった。


――狂ったか、李旺!?


 心中に疑念が沸き起こっても、張玄の剣には一片の躊躇いもない。

 いまや張玄の心と手は完全に分離している。剣は逡巡することなく、あくまで機械的に動くのだ。

 そうするあいだにも、李旺の剣はほとんど壁に触れようとしている。


 刹那、張玄の視界をあざやかな色が覆い尽くした。

 焼けるような痛みと熱を感じて、張玄はとっさに瞼を閉じた。

 好き好んでそうした訳ではない。真剣勝負の最中に目を閉じることがどのような結果を招くかは、張玄もよくよく承知している。

 それでも、眼球を守ろうとする無意識の反射までは、いかに強靭な意志の持ち主であろうと制御することは出来ないのだ。


「な……っ!?」


 ここに至って、張玄はようやくすべてを理解した。

 李旺は壁に立てかけた松明に剣を伸ばし、燃えさかる破片を張玄の顔面にむかって弾き飛ばしたのだ。

 薄く開いた瞼のあわいに、張玄は炎の色に染め上げられた剣を認めた。

 互いに溶け合った銀と紅は、どこまでも美しく、ひどく残酷な輝きを放っていた。


 それが張玄が見た最後の光景だった。


***


「……望みどおり、勝負はついたぞ」


 剣を鞘に納めながら、李旺はひとりごちるみたいに呟いた。

 そのすぐ後ろでは、両手で顔を覆った張玄が、みずからの血の海のなかでのたうち回っている。

 李旺の剣は、張玄の両目を真一文字に切り裂き、その視力を完全に奪い去った。

 溢れ出る血はやがて止まり、傷口も塞がるだろう。

 それでも、無残に打ち砕かれた瞳に光が戻ることは、もう二度とない。


「なぜだ……? なぜ、俺を殺さない……!?」

「貴様の両目はもう使い物にならない。剣士としての貴様はもう死んだも同然だ」

「ふざけるな!! この期に及んで、俺に情けをかけるというのか!?」


 張玄は手さぐりで剣を掴むと、虚空にむかって振り上げる。


「勝負はまだ終わっていない!! 剣を抜け、李旺!!」

「終わりだ、張玄」

「俺はまだ生きている。決着がついたというのなら、ここでひと思いに殺せ!!」


 李旺は返答の代わりに、長剣を抜き放つ。

 からん――と乾いた音を立てて、張玄の手から剣が落ちた。

 剣脊で親指の付け根を軽く叩かれ、おもわず取り落としてしまったのだ。

 万全の状態なら、絶対にありえないぶざまな失態。

 剣士としての前途が完全に閉ざされた事実をあらためて突きつけられ、張玄は虚脱したようにその場にへたりこむ。


「これで分かっただろう。いまの貴様では、私と戦うことは出来ない」

「俺から剣を奪って、それでもまだ生きろと言うのか!?」

「勘違いをするな、張玄」


 絶望のあまり自暴自棄になった張玄に、李旺はあくまで冷厳に言い放つ。


「近衛兵でありながら私闘に走り、あろうことか姫さまに剣を向けた罪は万死に値する。それでも貴様を殺さないのは、これ以上貴様のような男にかかずらっている時間が惜しいからだ」

「李旺……」

「さらばだ、張玄。もう会うこともないだろう――」


 それだけ言って、李旺はさっと踵を返す。

 張玄は傷ついた身体を引きずりながら、必死に追いすがる。


「待て……!! 本当は、あんただって分かっているんだろう? いまさらどこへ行っても無駄だ。何もかも終わりなんだ。あんたも、王女も、みんな死ぬんだ!!」

「……」

「李旺、あんたほどの使い手を有象無象の雑兵なぞに殺させたくなかった。あんたを殺すのはこの俺でなければならないんだ。それが叶わないなら、せめてあんたの手で俺を殺してくれ。たのむ……」


 李旺はふいに足を止めると、張玄から顔を背けたまま、


「せっかく拾った生命、無駄にするな――張玄」


 感情を押し殺した声で言い放った。

 それきり、どちらも言葉を失ったようであった。

 すすり泣く声をせなで聞きながら、李旺は黙々と先をいそぐ。

 張玄のめしいた目は、ついに見ることはなかった。

 足早に遠ざかっていく李旺の頬を、ひとすじ光るものが伝い落ちていったことを。

 松明の灯りが失せた隧道をふたたび闇が埋めていく。冷たく濃い闇に呑まれ、張玄の姿も見えなくなった。

 聞く者とていない真夜中の隧道に、獣じみた慟哭だけがいつまでも響きわたっていた。

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