第23話 浄火(一)
もうどれくらい走っただろう。
ひたすらに走り続けていた夏凛と薛は、どちらともなく足を止めた。
周囲は闇に閉ざされている。ここまで迷うことなく進んでこられたのは、隧道が一本道であったからだ。
夏凛が一度も足をもつれさせなかったのは幸運と言うべきだろう。日ごろから走り慣れていない普通の貴婦人であったなら、とうに息を切らし、あるいは転んで動けなくなっていたにちがいない。
荒い呼吸を整えながら、二人の少女は互いに手を握りあう。
「ねえ、薛、李旺は大丈夫かしら……」
問いかけた夏凛の声には、隠しきれない不安が滲んでいる。
けっして李旺を信頼していない訳ではない。こと剣に関して李旺が人後に落ちない技量を持っていることは、夏凛もよく知悉している。
それでも、ひとたび心の奥に兆した不安は、そう簡単に拭い去れるものではない。
もしやと不吉な想像が瞼の裏をよぎるたびに、夏凛は胸が締め付けられるような痛みを覚えるのだった。
「心配ありません、姫さま。兄上はきっと無事に戻ってきます」
「……本当?」
「もちろんです。私も、兄上も、誓って姫さまに嘘を申し上げることはありません」
薛の声は揺るぎない自信に満ち溢れていた。
むろん、薛もまったく不安を抱いていない訳ではない。
不安に苛まれている主人を落ち着かせるためには、兄の勝利を確信しているように振る舞わねばならないのだ。
そんな薛の心などつゆ知らぬ夏凛は、暗闇のなかでぱっと顔を明るくした。
「そうね……李旺なら、きっと大丈夫よね」
「はい。だから、どうか姫さまもご安心なさってください」
「薛にそんなふうに言われると、私もそんな気がしてくるから不思議だわ」
二人のはるか後方で足音が生じたのはそのときだった。
足音が少しずつ大きくなっているのは、駆け足でこちらに近づいてきているためだ。
おそるおそる振り返ってみれば、彼方の闇にぼんやりと浮かび上がった松明の灯りがみえた。
はたしてどちらなのか――。
李旺であればよい。夏凛も薛も彼であることを祈っている。
だが、もし張玄であったなら、そのときは二人の命運も尽きるはずであった。
そうするあいだにも二人と一人を隔てる距離は縮まり、松明に照らし出された顔をはっきりと識別出来るほどになった。
「李旺!!」
夏凛は欣然と叫んで、愁眉を開いた。
そのまま薛の手を引いて、李旺のもとへ駆け寄っていく。
「無事だったのね。よかった……」
「姫さまにはご心配をおかけしました」
「私は心配なんてしてないわ。李旺ならきっと大丈夫だと信じていたもの。ねえ、薛?」
ふいに水を向けられ、薛は苦笑いを浮かべる。
「さあ、先を急ぎましょう。思わぬことで時を費やしてしまいましたが、いつまでもここに留まっている訳には参りません」
「そのことなんだけど……」
夏凛はためらいがちに李旺に視線を送る。
「さっきあの男が言ってたこと、どうしても気になって」
「と、申されますと――」
「お父様がどうなったのか……それに、成夏国がもうおしまいって、どういうことなの?」
「そのことについては、あとでお話します。どうかいまはご容赦を……」
「はぐらかさないでちょうだい」
夏凛は李旺を真正面から見据え、切々と訴えかける。
「ここまで何がなんだかさっぱり分からずに来たけど、そろそろ我慢の限界よ。目隠しをされたまま連れ回されているみたいで、こんなの耐えられない」
「姫さま……」
「だから、話してほしいの。あなたが知っているすべてを」
李旺は夏凛から視線を外し、薛にちらと目配せをする。
薛はその一瞬に兄の逡巡と葛藤を察したのか、ちいさく首肯する。
それは薛なりの意思表示であった。どれほど残酷な真実が待ち受けていたとしても、近習として夏凛を支える覚悟があることを、あらためて兄に伝えたのだ。
李旺は意を決したように居住まいを正すと、努めて冷静な声音で語りはじめた。
「朱鉄と朱英が謀反を起こしたのです。国王陛下は弑逆され、王太子殿下と王妃殿下も運命を共になされたとの
「嘘よ!! そんなはずないわ!! お父様が死んだなんて、そんなの嘘に決まってる……」
「お気持ちはお察しいたします。ですが、すべて事実です。どれほど辛くても、目を背けてはなりません」
夏凛は何も言わなかった。
言いたくても、何も言うことが出来なかったと言うべきであろう。
黒い瞳からは大粒の涙がこぼれ、母譲りの美しい顔立ちは見る影もない。
自分が王女であることも忘れ、恥も外聞もなくしゃくりあげるたび、可憐な唇を割って声にならぬ嗚咽が漏れる。
李旺は膝から崩折れそうになった夏凛を抱きとめながら、なおも語りつづける。
「王宮が完全に敵の手に落ちるのも時間の問題でしょう。姫さまには一刻も早く間道を抜け、安全な場所まで避難していただかなければなりません」
「逃げてどうなるの……? もうお父様もお兄様もいないのよ。私一人だけ生き残ったって、どうにもならないわ……」
「いいえ――姫さま。あなたには大事なお役目がございます」
「役目……?」
「姫さまがご無事であれば、成夏王室の血はこの世に残ります。たとえ国が滅んだとしても、王の血を引く者がいるかぎり、希望が絶えることはありません。いつの日か王家を再興することも出来るのです」
「無理よ、李旺。出来るはずないわ……私にそんなこと……」
「出来る出来ないは後で考えればよろしい。いまは、ただ生き延びることだけを考えてください」
言いざま、李旺はふたたび薛を見やる。
夏凛ほどではないにせよ、”
それでも、近習の少女は毫ほども取り乱すことなく、固く唇を結んだままじっと佇立している。
自分がすこしでも動揺しているところを見せれば、夏凛をさらなる不安に陥れてしまうことを知っているのだ。
従者の役割は杖に似ている。どれほど強い風が吹こうとも、杖が主人より先に揺らぐことは許されない。いかなるときも黙々と主人の歩みを支えてこそ、杖は杖としての役目を全うすることが出来る。
「姫さま――」
薛はゆっくりと夏凛に近づいていく。
「私と兄がおそばにおります。どうかお顔を上げてください」
「薛……でも、私……」
「たとえ何があろうと、姫さまをけっしてお一人にはいたしません」
そう言って、薛は夏凛をやさしく抱きしめた。
貴人に対してあるまじき非礼であることは承知している。それでも、夏凛をなだめるためには、こうするほかになかったのだ。
夏凛は相変わらずしゃくりあげているが、先ほどまでに較べればだいぶ落ち着きを取り戻している。真っ赤に泣き腫らした双眸は、潤んだ瞳とあいまって、少女らしからぬ大人びた雰囲気を醸し出していた。
「……ありがとう、薛」
「ご無礼をお許しください。お叱りなら後でいくらでも受けます」
「そんなこと気にしなくていいのよ。……ねえ、しばらくこのままでいさせて」
「もちろんです。それで姫さまのお気が楽になるのでしたら」
夏凛を抱きしめたまま、薛は顔だけを李旺に向ける。
「兄上、これからどうするのですか」
「まずは成陽の外に出る。
国王・
八十余歳のこの老人は、国王から下賜された領地で悠々自適の隠居生活を営んでいるという。
すでに第一線を退いて久しいが、王の娘が危殆に瀕していると知れば、一も二もなく保護してくれるはずであった。朱英の軍勢とまともに戦うことは不可能だとしても、夏崇の支援が受けられれば、夏凛を国外に脱出させるための算段もつく。
亡命先についても、李旺は早くもあれこれと考えを巡らせている。
夏凛の姉二人の嫁ぎ先である
しかし、いったん
他国の王家との血の繋がりなど、現実の政治状況のまえではなんの力も持たない。それは北陲の地にありながら中原のどの国よりも正義を尊び、理非曲直を重んじる
一方、隣国である鳳苑国ならば、馬車を飛ばせば三昼夜とかからずに国境を超えられる。実現の可能性を考慮すれば、これが最も現実的な計画といえた。どうせ他国に落ち延びるのであれば、おなじ中原の国家のほうが夏凛にとっても好ましいはずであった。
ともかく、まずは成陽を無事に脱出しないことには、どれほど緻密な計画も机上の空論にすぎない。
夏崇の領地までは、昼夜の別なく馬を飛ばしても一日半かかる。そのあいだ絶えまなく追っ手が差し向けられることを勘案すれば、夏凛を守りながら進むのは至難の業といえた。さらに馬の不具合や、悪天候といった予想外の
そんな苦難と危険に満ちあふれた旅路も、敵地と化した王都から脱出することに較べれば、はるかにたやすく感じられるのだった。
――そうだとしても、やるしかない……。
李旺は心のなかで呟くと、眦を決して前方の闇を見据える。
隧道はまもなく終点を迎える。隧道の終端は、成陽の市中に隠された秘密の出入り口へと繋がっているはずであった。
王宮を制圧した賊軍は、今夜のうちにも王都全域を支配下に置くことだろう。いったん指揮権が朱英に移ったならば、軍は見違えるように俊敏に動きはじめる。朱英を相手とする以上、考えて考えすぎるということはないのだ。
――夜明けまでに成陽を出られなければ、そこで終わりだ。
王都を離れないかぎり、どこに隠れようと逃げ場はない。
路地裏や民家に身を隠したところで、捜索の手を免れることは出来ない。遅かれ早かれ見つけ出され、処刑されるのは目に見えている。
いまや夏凛と李旺、薛の三人には、この成夏国のどこにも安息の地はないのだった。
李旺の
遅くとも明朝までには兵士たちが屋敷を襲撃し、老父を始めとする李家の一族はことごとく抹殺されるだろう。
それでも構わないと、李旺はみずからに言い聞かせる。
李家は長年にわたって成夏国に仕えてきた家柄である。王家の血を守るためであれば、たとえ一族が絶え果てたとしても、何を悔やむことがあるというのか。
なにより――帰るべき家も、あたたかく迎えてくれる家族も、夏凛はすでにそのどちらも失っているのだ。
我が家と肉親を失うことで、李旺と薛はようやく夏凛とおなじ苦しみを分かち合うことが出来る。どこまでも夏凛と運命を共にすると決めた以上、我が身に降りかかる災いは甘んじて受けるつもりだった。
「姫さま、参りましょう。もう時間がありません」
「……分かったわ」
夏凛の声には、先ほどまでとは別人のような力強さがあった。
二人の従者と同じように、姫君もまた覚悟を決めたのだ。
どれほど嘆き、悔やんだところで、死んでいった者は二度と帰らない。
そして、愛する者の死を悼むことは、生きている者が歩みを止めることではない――。
夏凛は、誰に教えられるでもなく、自分自身の力でその答えを掴み取ったようであった。
「李旺、薛。あなたたちには情けないところを見せちゃったわね」
「そのような――」
「まだ頭のなかはグチャグチャだし、これからどうすればいいのかも分からないけど……それでも、私、とにかく前に進むわ。だって、私が立ち止まってたら、二人も進めなくなってしまうじゃない」
涙の跡がくっきりと浮かんだ顔で、夏凛はぎこちなく笑ってみせる。
無理をしていることはあきらかであった。本当の心をひた隠し、臣下のまえで精一杯あかるく振る舞っているのだ。
言葉にすればどうということもない。
しかし、それは、この状況においてどれほど難しいことか。
悲しみを抱いたまま笑顔を見せるのは、少女にとって哭泣を強られるよりもなお残酷な仕打ちであるはずだった。
それゆえに、李旺と薛は、夜の地平にひとすじ差した曙光を見たような感動に胸を打たれたのだった。
時刻は夜半を回ろうとしている。
冷たく暗い冬の夜の、さらに深い底で、三人はふたたび動き出していた。
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