第21話 奈落(三)

 夜が更けていくにつれて、戦いは激しさを増していった。


 北門を突破した朱英配下の兵士たちは、先を争って王宮内へと突入していく。

 近衛兵が果敢に防戦に当たっているものの、彼我の戦力差は如何ともしがたい。

 そのうえ、近衛隊長である范良はんりょうと、副長の李旺の両名を欠いているのである。

 軍は組織的な戦闘を行うことで初めて真価を発揮する。いかに個々の兵士の資質が優れていようとも、確固たる指揮系統をもたない軍はしょせん烏合の衆にすぎない。

 実戦経験ではるかに勝る賊軍は近衛兵を圧倒し、王宮のそこかしこに無残な屍体が積み上げられていく。

 犠牲になったのは近衛兵だけではない。興奮した兵士たちは、王宮に仕える官吏や女官をも殺戮の対象とした。

 満々と水を湛える庭池は血の色に染まり、ひっきりなしに上がる怒声と断末魔が混じり合って冬空に反響こだまする。美しい王宮に現出したのは、まさしく地獄絵図のごとき情景であった。


「朱英将軍をお救いするのだ――」


 立ちふさがる近衛兵を斬り捨てながら、賊軍の兵士たちは異口同音に叫ぶ。

 成陽に入る直前、鍾渙しょうかんはいったん部隊を停止させると、兵士たちに次のように語ったのだった。


――無用の混乱を避けるためにここまで秘してきたが、国王は朱英将軍を誅殺しようとしている。今宵の祝宴は罠であり、将軍は烽火を用いて我らに危機を知らせたのだ。


 兵士たちにしてみれば、だしぬけに頭を金槌で殴られたような心地であっただろう。

 しかし、あながち荒唐無稽な話とも言い切れなかった。

 朱英の軍才はあまりにも卓越している。抜きん出た才覚は、しばしばその持ち主に災いをもたらす。

 七国の歴史において、すぐれた臣下が主君に疎まれ、あるいは讒言を受けて粛清された例は枚挙にいとまがない。

 宮廷に朱英の活躍を妬み、その栄達を苦々しく思っている者がいることは、末端の兵士にもひろく知れ渡っている。国王が佞臣の言を容れ、朱英に濡れ衣を着せてころそうとしても、なんら不思議はないのだ。

 にわかに色めきだった兵士たちにむかって、鍾渙はなおも続ける。


――これより王宮に攻め入る。国王に弓引いてでも将軍をお救いしたいという者だけついてこい。


 三千余人の部隊からは、ついに一人の脱落者も出なかった。

 朱英を心から敬慕し、彼のためならば身命をなげうっても惜しくないと思っている兵士たちである。

 はるか雲の上の存在である国王よりも、つねに戦陣にあって生死を共にしてきた朱英を選ぶのは当然でもあった。

 国王に対する怒りが、ただでさえ堅い彼らの結束をいっそう強固なものにしている。

 もともと将兵のなかには国王の消極的な対外方針を快く思っていなかった者も少なくなかった。

 いまの彼らにとって、国王は救国の英雄をこの世から消し去ろうとする愚昧な暴君にほかならない。

 いったい国王は誰のおかげで玉座にいられると思っているのか――華昌国の度重なる侵攻を防いできたのは、ほかならぬ朱英なのである。

 祖国である成夏国を愛しているからこそ、そのような悪王はなんとしても除かねばならない。

 みずからの正義を疑わない者は強い。

 たとえそれが虚偽であったとしても、大義名分を得た軍の勢いを止めることは容易ではないのだ。


「将軍はあそこだ!! 急げ!!」


 王宮の財物には目もくれず、兵士たちは永鵬殿えいほうでんへと突き進んでいく。生き残った近衛兵は最後の抵抗を試み、深更の闇におびただしい血が流れた。

 そこに鍾渙に率いられた五百余の騎兵が東門より合流し、状況はいよいよ混沌の極みに達しようとしていた。


***


 不揃いな三つの影が中庭を横切っていく。


 李旺と薛、そして夏凛である。

 李氏の兄妹は夏凛を挟むように進んでいる。もし何事かあったとき、身を挺して主人を守るためだ。

 深夜の中庭に喧しく響きわたるのは、時ならぬ騒音――怒号と悲鳴、そして刃と刃が烈しくぶつかりあう金属音であった。

 三人は戦闘が行われている場所を避けて進んでいるため、いまのところ敵兵とは一度も遭遇していない。


 先頭を行く李旺がふいに足を止めた。

 進路上に折り重なるように倒れた女たちを認めたためであった。

 いずれも女官の服装をまとっている。見たところ、息がある者は一人もいないようだった。


「薛――」


 李旺の短い呼びかけに、薛はこくりと頷く。


「姫さま、失礼いたします」


 小声で言って、薛は夏凛の目を両掌でそっとふさぐ。

 姫君に屍体を見せまいとしているのだ。なかには見知った顔もあるかもしれない。

 そうでなくとも、ぼろ布みたいに打ち捨てられた哀れな女官たちを、夏凛は見過ごすことは出来ないはずだった。

 だが、情け深いことがつねに好ましいとはかぎらない。優しさは時として仇となる。

 いつ敵兵がこちらに向かってくるか知れないのである。

 ここで足止めを食らっては、今度が自分たちが屍を晒すことになりかねない。


「薛、どうして目をふさぐの? これじゃ前が見えないわ」

「私と兄上がご案内します。姫さまはまっすぐ歩いて頂ければ結構です」

「それならいいけど……」


 慎重に進みながら、薛は女官たちの屍体をちらと見やる。

 そのなかに年かさの女を認めた瞬間、おもわず「あっ」と声を漏らしていた。

 女官長であった。

 あれこれと口やかましく、それでも夏凛のことを母親のように案じていた老女は、物言わぬ屍となって寒空の下に横たわっている。


「薛、どうしたの?」

「なんでも……ありません……」


 何も知らない夏凛の問いに、薛は何事もなかったように答える。

 夏凛に見せなかったのは正解だった。あるいは、李旺は最初から分かっていたのかもしれない。

 すでに多くの人が死に、そして、これからも死んでいく。

 たとえこの夜を無事に生き延びたとしても、元通りの日常はもう二度と還ってこないのだ。

 泣き出しそうになっている自分自身を励まして、薛は努めて明るい声をつくる。


「姫さま、もう目隠しは終わりです」

「よかった。二人がそばにいたから怖くはなかったけど、もう目をふさぐのはやめてちょうだい。私、何を見たって驚いたりしないわ」


 夏凛の抗議にあいまいに答えながら、薛は気取られぬように背後を振り返る。

 濃密な闇が女官たちの屍体を覆い隠している。人が横たわっていることには気づいても、この距離では個人の判別まではつかないはずだった。

 そうするあいだに、三人は中庭の突き当りに差し掛かっていた。


「……たしかこのあたりだったはずだ」


 李旺は腰帯にたばさんでいた長剣を抜き、生け垣をさぐる。

 王宮には、正式な通路のほかにいくつかの間道ぬけみちが設けられている。

 言うまでもなく、変事の際に王族を脱出させるためのものだ。その性質から人目につかないよう巧妙に偽装され、その存在を知っているのは、近衛兵でもごく少数の者に限られる。

 乾いた葉擦れの音に混じって、こつ――と異質な音が生じた。

 生け垣のなかに隠された隧道トンネルの出入り口を探り当てたのだ。

 李旺は手を伸ばして周囲の土を払い除け、蓋が問題なく開閉することを確かめる。


「薛、姫さまと一緒に先に下に降りろ。私はここで見張りをする」


 薛がなにかを口にする前に、夏凛がずいと前に進み出た。


「李旺、ひとつお願いがあるの」

「ここを抜けた後でしたら、なんなりと――」

「何が起こってるのか、いいかげんに教えてちょうだい。私にも大変なことが起こってるのは分かるわ。何も知らされないままいつまでも逃げ回るなんてイヤ」


 夏凛は決然と言って、李旺の目をまっすぐに見据えた。

 反論は許さないと、少女の瞳は言外に命じているようであった。


「承知いたしました――姫さま」

「約束よ、李旺」

「ひとまずは安全な場所へ。いまは一刻も早くこの場を離れることが先決です」


 背後で気配が生じたのはそのときだった。

 李旺はとっさに剣柄に手を伸ばすと、夏凛と薛を庇うように進み出る。

 三人からすこし離れたところで、人影がひとつ、うっすらと闇中に浮かび上がっている。

 誰何すいかしようとして、李旺ははっと目を見開いた。


「……張玄か!?」

「ご無事でしたか、李副長」


 李旺の顔を認めて、張玄は心底から安堵したように言った。


「副長、申し訳ありません。東門を守りきれませんでした。部下も散り散りに……」

「気にしなくていい。こうなったのは私の責任でもある。それより、君が来てくれて助かった」

「と、言いますと……」

「姫さまを王宮からお逃しする。君も一緒に来てくれれば心強い」


 ここに至って、張玄もようやく夏凛の存在に気づいたようであった。

 夏凛はといえば、見慣れない男の出現に、李旺の身体に隠れるようにして様子を伺っている。


「そういうことであれば、是非もありません」

「そこに間道ぬけみちがある。君は姫さまを連れて先に……」

「李副長は先に行ってください。殿しんがりは私におまかせを」


 思ってもみなかった申し出に、李旺はわずかに戸惑う。

 それも一瞬だ。この状況で逡巡は命取りになる。


「……たのむぞ、張玄」


 言い終わるが早いか、李旺は生け垣をかき分け、隧道トンネルの出入り口に身を滑らせていた。


***


 隧道トンネルの内部は意外なほどのゆとりがあった。

 王族が使用する通路ということもあり、幅員も高さも広く取っているのだろう。大人の男が両手を広げても、まだいくらか余裕がある。

 床には整然と石が敷き詰められ、天井と壁には一定の間隔で太い支柱と梁が設けられている。隧道にありがちな息の詰まるような閉塞感とは無縁の空間であった。


 いま、四人は一列になって隧道内を進んでいる。

 松明を掲げた李旺を先頭に、夏凛と薛、最後尾に張玄という順である。

 まっさきに隧道に入った李旺は、懐から燧石ひうちいしを取り出し、壁に備え付けてあった松明に点火したのだ。


「それにしても、王宮にこんなところがあったなんてちっとも知らなかったわ」


 歩きながら、夏凛は感心したように言った。

 李旺は振り返らず、前方に視線を向けたまま答える。


「無理もないことです。間道に人が立ち入るのは非常時だけですからね」

「お父様たちもここを通って行ったのかしら?」

「それは――」


 李旺は言いよどむ。

 本当のことなど、口が裂けても言えるはずはないのだ。

 もし真実を知れば、夏凛は一歩も進めなくなる。それだけは避けねばならない。


「李副長、私もぜひ知りたいですね」


 背後から投げかけられた声に、李旺は顔だけで振り返る。


「……何の話だ、張玄」

「国王陛下のことですよ。見たところ、私たちの前に人が通った形跡はないように見えますが」

「別の間道もある。国王陛下や王太子殿下はそこを通って行かれたのだろう」

「なるほど――」


 張玄の声にひどく暗いものが兆した。


「いやはや、あなたもお人が悪い」

「どういう意味だ」

「本当はもうご存知なのでしょう? ……


 言いざま、張玄の左手が影みたいに動いた。

 夏凛と薛は悲鳴を上げる暇もなく、張玄の逞しい腕のなかに絡め取られていた。

 張玄は二人を捕らえたまま、空いた右手を佩剣に伸ばす。


「張玄、どういうつもりだ!?」

「ごらんの通りですよ、李副長。迂闊に動けば王女と妹御の生命はない」

「貴様……自分が何をしているか分かっているのか?」

「むろん分かっているとも」


 張玄は酷薄な笑みを浮かべる。


「あんただって、本当は分かっているんだろう。もうこの成夏国くには終わりだ。いまさら王女を逃したところでどうなる訳でもあるまい」

「だまれ!!」

「もう生命を捧げて仕えるべきものなど何もない。あんたも、俺も、空っぽなんだよ」


 張玄は剣を抜き放っていた。

 研ぎ澄まされた刀身が松明の火を照り返し、橙色の光芒をきらめかせる。

 美しくも残酷な輝きを見つめ、張玄は恍惚とため息をつく。


「いまの俺たちに残っているのはこれだけだ。なあ、李旺?」

「望みは何だ、張玄」

「決まっている。俺はあんたと決着をつけたいんだよ。試合ではなく、正真正銘の真剣勝負でな」

「この状況でそんな馬鹿げた願いを聞くとでも思っているのか!?」

「拒むなら王女の首が飛ぶだけだ」


 張玄は剣刃を持ち上げ、夏凛の首筋に当てる。

 わずかでも力を込めれば、少女の細い首はたやすく胴を離れるだろう。


「李旺っ――」

「王女殿下、どうかつまらぬ抵抗をなさらぬよう。手が滑っては大事なお身体に疵がつきます」

「李旺、私のことは気にしないで!! こんな男、やっつけてしまいなさい!!」


 涙声で強がってみせる夏凛に、張玄はいかにも愉快げに笑声を上げる。


「夏凛姫もこのように仰せだ。お互いつまらんしがらみが失せたところで、思う存分やりあおうじゃないか」

「……姫さまに危害を加えないと約束出来るか」

「あんたが俺の願いを容れてくれれば、この二人はすぐに解放してやるとも」

「その言葉、偽りはないな」


 李旺が肯んずるのを確かめると、張玄は惜しげもなく夏凛と薛を解き放つ。


「李旺っ!!」

「兄上!!」


 李旺は両手を広げ、駆け寄ってきた二人を抱きとめる。


「ご無事で何よりです、姫さま。薛、おまえは姫さまを連れて先へ行け。私も後から行く」

「本当に大丈夫なのですか?」

「私を信じろ。こんなところで死ねるものか」


 薛の背中を押した李旺は、夏凛のほうに顔を向ける。

 大きな黒い瞳は涙に濡れている。剣を突きつけられた恐怖のためだけではない。

 李旺を失うかもしれない恐怖が、気丈な少女を怯えさせているのだ。


「ごめんなさい。私が捕まったせいで、こんなことに……」

「姫さまは何も悪くはありません。さ、お早く。私もすぐに追いつきます」

「絶対よ、李旺」


 夏凛と薛は手を取り合い、隧道の奥へと駆けていく。

 二人の背中が十分に遠ざかったのを見計らい、李旺はあらためて張玄に向き直った。

 そのまま手近な壁の窪みに松明をたてかける。ゆらめく火が、長い影を壁と床に落とした。


「――始めるとしよう」


 冷え切った声は、どちらの口から出たものか。

 李旺の利き手が剣柄を掴んだ。

 それが合図であったかのように、二人の剣士のあいだで、凄絶な鬼気が渦を巻きはじめた。

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