第20話 奈落(二)
半ばまで夢の世界に足を踏み入れていた薛の意識を、奇妙な音が現実に引き戻した。
はっと周囲を見渡してみれば、夏凛は
夏凛の看病に当たっていた薛は、ようやく主人が眠ったのを見届けたあと、うつらうつらと船を漕いでいたのだった。
音は中庭に面した格子戸のあたりから聞こえてくる。どうやら、外にいる何者かが戸を叩いているらしい。
それが気のせいではなかったと理解して、薛の顔に不安がよぎる。
貴人の部屋を訪うのに、庭から入ってくるなどというのは無作法もいいところだ。
だいいち、こんな夜更けにいったい誰が訪ねてくるというのか?
すくなくとも盗賊の類ではない。近衛兵が厳重に警備する王宮に忍び込める盗人などいるはずがないのだ。
ならば……と、まっさきに薛の頭に浮かんだのは、よりにもよって、あの
名門の当主であり、国家の要職にも就いているあの男は、今日の祝宴にも当然出席していたはずだ。こっそりと宴席を抜け出し、王宮をうろついていたとしてもまず咎められることはない。
鼻持ちならない貴公子は、縁談を袖にされても夏凛を諦めきれず、大胆にも夜這いをかけにきたのではないか――。
夜陰に乗じて懸想する女の寝室に忍び込み、半ば強引に関係を結ぶ男がいるとは、薛も何度か小耳に挟んだことがある。庶民に限った話でなく、貴族にもそうして多くの女と浮名を流した者がいるとも。
王族の子女に対してそのような行為に及ぶのは無謀というほかないが、自信過剰なあの男ならばやりかねない。
もし戸の向こうにいるのが陳索であれば、断じて部屋に上げる訳にはいかなかった。
薛は怖じ気を振り払うと、ゆっくりと戸に近づいていく。
次の瞬間、室内に投げかけられたのは、予想もしていなかった人物の声だった。
「……そこにいるのは薛か? 私だ、李旺だ」
聞き間違えるはずもない、それは兄の声であった。
薛はほっと胸をなでおろしながら、ここにいるはずもない兄の出現に驚きを隠せない。
「兄上!? どうしてここに?」
「詳しい事情はあとで話す――姫さまはこの部屋におられるのだな?」
「は、はい。もうお休みになられています」
「姫さまをお起こしし、すぐに王宮を出る支度をしろ。ここに留まっていては、御身が危険だ」
李旺の声には、切迫した響きがある。
王宮に喫緊の事態が
あの冷静な兄がこれほどまでに焦っている。
詳しい事情はなにひとつ分からないが、ともかくいまは寸秒を惜しんで動かねばならないことだけは確かなのだ。
「兄上もひとまずお部屋のなかに――」
薛が格子戸を開け放つが早いか、しなやかな身体が夜闇の奥から躍り出た。
動きやすさを重視して、軍袍に肩当てと胸甲を装着しただけの軽装である。武器は右手に長剣をひとつ携えているだけだ。
見知ったはずの兄の姿を目にした瞬間、薛がおもわず声を上げそうになったのは、李旺の全身から発散されている凄絶な鬼気のためであった。
いまの李旺は、普段の優しい兄ではなく、戦場に生きる一人の武人にほかならなかった。
「薛、急げ。あまり時間がない」
李旺は妹の顔を見据えると、鋭い声で命じる。
薛がこくりと頷き、その場で踵を返そうとしたときだった。
「ねえ、薛、どうして戸を開けてるの? 風が入ってきて寒いじゃな……」
いつのまにか寝台から起き上がり、寝ぼけまなこで戸に近づいてきた夏凛は、それきり二の句を継ぐことが出来なくなった。
「……李旺!?」
ほんの一瞬前まで半開きだった双眸は、ぱっちりと見開かれている。
病み上がりの青白い頬がみるみる薄紅色に染まっていく。耳の先まで赤くなったのは、昨晩の微熱がぶり返したためではない。
「な、なんで……? どうして李旺がここに……?」
「姫さま、突然のご無礼をお許しください。先ほど王宮に変事があり……」
「見ないで!! あっち向いててっ!!」
胸のあたりを両手で覆うようにしゃがみこんだ夏凛を見て、李旺は姫が寝間着姿であることにようやく気づいた。
素肌の上に直接身に着けることから、七国において寝間着は下着に準ずるものとして扱われている。
とくに女性がしどけない寝間着姿を見せるのは、
職務一筋で色恋沙汰には縁のない李旺も、その程度のことはむろん知っている。緊張と焦燥に支配された青年には、そのような気遣いをする余裕はとてもなかったというだけのことだった。
「大変な失礼をいたしました、姫さま」
「私はその……李旺ならべつにいいけど……」
あるかなきかの声で呟いた夏凛は、火照った頬を袖で隠しながら振り返る。
「それより、変事ってどういうこと? 何かあったの?」
「いまは説明している時間がありません。急いでお支度を。私が安全な場所までお連れします」
李旺が言い終わらぬうちに、外から地鳴りのような喚声が聞こえてきた。
いよいよ賊軍が王宮に侵入しはじめたのだ。敵の数は不明だが、この部屋が発見されるのも時間の問題だった。
朱鉄が差し向ける刺客と、朱英配下の軍兵……李旺はその両方から夏凛を守らねばならない。
――本当に出来るのか?
自分自身に問いかけて、李旺は爪が食い込むほど固く拳を握りしめる。
――やってみせる。それが、私の生きる意味なのだから。
寝室の出入り口のあたりでふいに気配が生じた。
李旺は剣を掴んだまま、二人の少女を庇うようにゆっくりと歩を進める。
「薛、姫さまをたのむ」
「兄上……」
「何も心配はいらない。おまえは私に構わず、自分がすべきことをしろ」
刹那、扉を蹴破って現れたのは、なんとも奇怪な男たちであった。
二人組である。一人は雄山羊、もう一人は
つい先ほどまで永鵬殿で舞曲を披露していた仮面の踊り手たちは、いまや恐るべき刺客へと変じたのだった。
どちらも大ぶりな曲刀を携え、地を這うような低い構えでじりじりと間合いを詰めてくる。
二人は短い言葉を交わしたが、李旺には一言も聞き取ることは出来なかった。
どうやら異民族の言葉であるらしい。
「李旺、なんなの、あいつら……」
普段の活発さが嘘のように、夏凛の声は震えていた。
無理もない。眠りから覚めたと思えば、異形の刺客が寝室に踏み込んできたのだ。
もしこの場に李旺がいなければ、夏凛と薛は為す術もなく生命を奪われていただろう。
「姫さま、決して私の前に出ないでください。約束していただけますね」
李旺の言葉に、夏凛は無言で肯んずる。
夏凛と薛がともに後じさったのを認めて、雄山羊の仮面をつけた男が一歩を踏み出した。
やはり聞き取れぬ叫び声を上げながら、曲刀を振りかざして突進してくる。
梟の仮面をつけた男は、その脇をすり抜けるように駆け出していた。
李旺を挟撃するつもりなのだ。そうでなければ、一方が李旺を食い止めているあいだに、もう一方が夏凛を仕留める算段かもしれない。
いずれにせよ、絶体絶命の窮地であることには変わりない。
どちらか一方を仕留め損ねれば、夏凛の生命が危険に晒される。
無事にこの状況を切り抜けるためには、手練の暗殺者二人をほとんど同時に倒さねばならない。
それが至難の業と理解しながら、李旺の心にはもはや一片の迷いもない。雑念は剣を鈍らせ、勝利を遠ざけるだけなのだ。
李旺は深く息を吸い込み、雄山羊の男を迎え撃つべく構えを取る。
曲刀が風を巻いて迫る。幅広の刀身は、切れ味よりも、質量によって圧し切ることに主眼を置いたものだ。使い手の膂力とあいまって、その重厚な刃は人間の四肢をたやすく切断するだろう。
二条の銀閃が中空で交差した。
李旺が抜き放った長剣は、曲刀の剣脊をしたたかに打ち、その軌道を捻じ曲げていた。
致命傷を与えるはずだった一撃は大きく逸れ、雄山羊の男はわずかに体勢を崩した。
転瞬、李旺が繰り出したのは、電光のごとき突きであった。
「――!!」
雄山羊の男が口にした異国の言葉は、敵に対する呪詛か。あるいは、その卓抜した技量に対する賞賛か。
そのどちらであったとしても、李旺には関係のないことだった。
一撃のもとに雄山羊の男の心臓を貫いた李旺は、手首のばねを活かして剣を引き抜くと、そのまま梟の男へと身を躍らせる。
すかさず下方から曲刀が襲いかかった。李旺は避けるでもなく、わずかに上体を逸らせる。
にぶい刃光が閃き、李旺の胸甲に縦一文字の傷を刻んだ。
それだけだ。
曲刀は鎧の表面を傷つけただけで、皮膚にまでは達していない。
仕損じた――異国の戦士がみずからの失策を悔やんだかどうかは、李旺には分からない。
分かっているのは、相手にはもはや二度目の機会はないということだけだ。
李旺は大上段の構えを取ると、躊躇いなく長剣を振り下ろす。
頭頂から胸椎まで断ち割られた梟の男は、おびただしい鮮血を噴き上げて斃れた。
「李旺っ!! 大丈夫!?」
敵が二人とも息絶えたのを確かめ、夏凛は一目散に李旺に駆け寄る。
「姫さまにはお見苦しいところをお見せしました」
「ううん……そんなことより、李旺に怪我がなくてよかった」
声は落ち着いているものの、夏凛の細い肩は小刻みに震えていた。
自分の生命を狙っていた刺客とはいえ、目の前で人が死んだことには変わりない。
余計な心配をかけまいと気丈に振る舞ってはいるが、酸鼻な光景を目の当たりにして、十二歳の少女の
李旺はそっと夏凛の手を取ると、努めて穏やかな口調で語りかける。
「さあ、急ぎましょう。ここにいてはいつまた敵が襲ってくるかもしれません」
「さっきのみたいなのがまだ来るの?」
「ご安心ください。何人来ようと、姫さまはこの私がお守りします」
と、そこへ行李を背負った薛が近づいてきた。
行李の中身は、脱出にあたって必要となる最低限の衣服に加えて、亡き蘭王妃の形見や、姉たちから贈られた貴重な宝石類である。
貴重品を持ち出すのは、たんに賊軍による略奪から守るためだけではない。
もしこのまま放浪することになったとしても、それらの品々を売却すれば、当座の生活には困らないだろう。夏凛にとっては肉親の思い出が詰まったこの世に二つとない物でも、背に腹は代えられない。
王族といえども、王宮を追放されれば庶民と変わらない。すこしでも生き延びる確率を高めるためには、金はあるに越したことはないのだ。
二度と王宮には戻ってこられないかもしれない――事態はそこまで深刻であることを、薛は誰に説明されずとも洞察している。
夏凛に上着を羽織らせながら、薛は李旺に目配せをする。
「兄上、いつでも出立出来ます」
「よし――」
姫君と二人の従者は、血臭に充ちた寝室を後にして、濃厚な闇がわだかまる中庭へと飛び出していった。
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