第19話 奈落(一)
「火急の用件と言っているのが分からぬか」
馬上の
武人らしく剛毅な声色には、ほんのわずかだが焦燥が見え隠れしている。
固く握りしめた拳のなかで、手綱がぎり……と鳴った。
「どのような事情があろうと、然るべき手続きを踏んでいただかなければ、この門より先には何人もお通しすることは出来ません――」
李旺は鍾渙の苛立ちを察しながら、それでも、あくまで毅然とした態度で応える。
いま、王宮の東門の前に設けられた広場には、鍾渙に率いられた五百騎あまりの騎兵が所狭しと蝟集している。甲冑をまとい、刀剣や
ほんのすこし前まで寂然と静まり返っていた一帯が、突如としてものものしい雰囲気に包まれたのは、いまから十分あまり前のことだ。
馬群の接近に気づいた李旺が門扉を閉ざすよう命じていなければ、もともと守備が手薄だった東門は、力ずくで押し通られていたにちがいない。
「朱英将軍より直々に王宮に馳せ参じるようにとの命令が下ったのだ。手続きにこだわっている場合ではない。早々に開門せよ」
「将軍からそのような話は伺っておりません。なにかの間違いではありませんか」
「話の分からぬ小童よ」
鍾渙は李旺を睨めつけると、吠えるように叫ぶ。
「長く戦場で過ごしてきた我らが、将軍の命令を聞き違えるとでも思うのか。もし敵の前でそのような失態を演じれば、軍はたちどころに壊乱するのだぞ」
「それは――」
「分かったなら、ただちに門を開けよ。貴様のような若造とこれ以上の押し問答をするつもりはない」
李旺はしばらく鍾渙の顔をまっすぐに見据えたあと、深く息を吸い込んだ。
「……それでも、開門することは出来ません」
「私の話を聞いていなかったのか?」
「いま部下を将軍のもとに遣らせています。戻り次第、仔細が判明するはずです。門を開くのは、どうかそれまで待っていただきたい」
「それでは遅いと言っているのだ!!」
北の空がふいに明るくなったのはそのときだった。
とっさに振り向いた李旺の視界いっぱいに広がったのは、夜明けのごとくあざやかな赤色に染まった夜空であった。
目の前に立ち現れた信じがたい光景に、李旺はおもわず息を呑む。
なにかが燃えている。時おり空を舐める紅い舌のようなものは、噴き上がった猛火にちがいない。
なにが――それは、問うまでもなく分かりきったことだ。あの方角にあるのは、本来の自分の持ち場なのだから。
「李副長――!!」
声のしたほうに目を向ければ、張玄がこちらに駆けてくるのがみえた。
「いったいなにごとだ、張玄!?」
「北門が何者かに攻撃を受けています。火矢を射込まれ、櫓や屯所が炎上しているようです」
「敵の数は!?」
「目下のところ、敵の正体も規模も不明です。しかし、飛来している矢の数から推察して、おそらく千は下らないかと……!!」
息を切らしながら報告する張玄の顔は、死人みたいに色を失っていた。
李旺が外の様子を窺おうとふたたび櫓の外に顔を出したとき、ちょうど鍾渙と目が合った。
「あの炎はなんだ?」
「……北門が何者かの攻撃を受けているようです」
「だから言わぬことではない。朱英将軍が我らを宿営地から呼び寄せた理由がようやく分かっただろう。我らにも詳しい事情は分からぬが、将軍はこうなることを事前に察知していたのだ」
鍾渙は傲然と言い放つと、眦を決して北の空を見つめる。
「これより我らも王宮の警護にあたる。近衛兵だけでは荷が重かろう」
「ひとまずはそのままお待ちいただきたい。すぐに戻ります」
「ふん――」
飛び降りるようにして櫓を下った李旺は、張玄のもとへ駆け寄っていく。
「張玄、この場の指揮は君に任せる。私は北門に赴かねばならない」
「外にいる軍兵はどうするのですか?」
「どうも信用出来ない。けっして門を開かず、このまま時間を稼いでくれ。こちらは寡兵だが、門を閉ざしてさえいれば、彼らも容易には突破出来ないだろう」
「しかし、本当に朱英将軍の命令であったとしたら……?」
「すべての責任は私が取る」
東門に背を向けてしばらく駆けるうちに、李旺は王宮のほうからやってくる人影を認めた。
先ほど朱英のもとに遣いさせた部下であることはすぐに分かった。
声をかけようとして、李旺がおもわず目を剥いたのは、その姿があまりにも異様だったからだ。
軍袍は上下とも赤く染まり、身体じゅうから驟雨に打たれたみたいにおびただしい鮮血を滴らせている。
「いったい何があった!?」
「李副長、永鵬殿で変事が――」
李旺の姿を認めるや、息も絶え絶えの部下の顔にわずかに安堵の色が兆した。
「王太子殿下と王妃殿下が亡くなられました……おそらくは国王陛下も……」
「どういうことだ!!」
「あのお二人が……謀反を……」
そこまで言って、部下は糸の切れた人形みたいに崩折れた。
李旺が抱き起こしてみれば、かろうじてまだ息はある。
それも時間の問題だ。あと一語、二語の会話を交わせば、全身に深手を負った部下は、二度と醒めない眠りの底に落ちていくだろう。
それまでに、なんとしても有益な情報を聞き出さねばならない。
「あの二人とは、いったい誰のことだ!?」
「朱鉄宰相……と……朱英将軍……です……」
「ばかな――」
その言葉は、むろん死にゆく部下に向けられたものではない。
自分自身のうちに湧き上がった黒い疑念を吹き払おうと、李旺はぶつぶつと独りごちる。
「成夏国の”二珠”と讃えられたお二人が、王族の方々を弑逆するはずがない。謀反を起こすなど、万が一にもありえないことだ。そんなはずはない……」
腕のなかで事切れた部下を近くの植え込みに横たえ、李旺は北門にむかってふたたび駆け出していた。じっとしているのが一番つらいのだ。こうしてがむしゃらに身体を動かしていれば、多少は気も紛れるというものだった。
(だが、もし、本当にあの二人が謀反を起こしたとすれば――――)
最悪の想像が脳裏をよぎる。
兄は政治、弟は軍事において、それぞれ重きをなす朱兄弟である。
彼らがその気になれば、成夏国を乗っ取るのは造作もないだろう。なにしろ、成夏国はもはやあの二人なくしては立ち行かなくなっている。国王とその後継者が倒れたところで、彼ら兄弟がいさえすれば、国家を運営していくうえでなんら問題は生じないはずであった。
忠臣の鑑と言うべき兄弟がひそかに叛心を抱いていたなどとは、王宮に仕える誰も、おそらくは当の国王自身も想像だにしていなかったにちがいない。
だが、忠実な猟犬がけっして主人に牙を剥かないと、いったい誰が決めたのか。
すぐれた猟犬であるほど、主人にとって大きな脅威になる。
そして、ひとたび猟犬に獲物と見なされた主人は、その爪牙から逃れる術はないのだ。
(すべてはこのためだったのか……)
思い返せば、今日の朱英はどこか様子が妙だった。
それも謀反のための手回しであったと考えれば、すべてに辻褄が合う。
李旺に東門へ行くよう命じたのは、戦場となる北門からすこしでも遠ざけるためだろう。
北門に攻撃を仕掛けた正体不明の賊軍とは、朱英配下の軍団にちがいない。成陽の城外に宿営している軍団のなかには、かなりの数の弓兵と弩兵が含まれている。
そして、東門に詰めかけた兵士たちは、言うまでもなくその別働隊だ。救援を装って東門から城内に侵入し、内と外から王宮を制圧するつもりだったのだろう。
事実、李旺の推測の多くは的中している。
鍾渙に率いられた三千の軍勢は、城内に入った時点で二手に分かれ、それぞれの目的を果たすべく行動を開始したのだ。
昼間の盛大な凱旋行進によって、成陽の人々は、武装した兵士が街中に現れてもさして不審には思わない。武装したままで市中を行進するという異例の行事も、人々の
走りながら、李旺はなおも考え続ける。
国王と王太子をはじめ、永鵬殿に集まっていた王族の主要な面々は、ことごとく生命を落としたはずだ。
犠牲者のなかには、王の末娘である夏凛も含まれているはずだった。
朱鉄は、ふだんめったに揃うことのない王族が一堂に会する機会を狙って謀反を起こしたのだ。王家の血胤を根絶やしにするつもりなら、たとえ成人前の娘であったとしても容赦しないだろう。
近衛兵としての務めを果たせなかった――国王や夏凛の顔が眼裏に浮かぶたび、李旺は言いようのない喪失感に打ちのめされる。
仕えるべき主君を失ったのであれば、いまさら北門に向かったところでどうなるというのか。
近衛隊の副長として部下を指揮するにしても、組織だった抵抗が出来るほどの戦力が残っていればの話だ。
朱英配下の兵士の精強さは李旺も熟知している。一方の近衛兵は国じゅうから選抜された精鋭揃いではあるものの、実戦経験は皆無に等しい。
こうして李旺が王宮内を駆けずり回っているあいだにも、戦いの趨勢は決しているはずであった。北門はすでに陥落し、王宮内に賊軍が侵入しているかもしれない。
敗北は承知の上で、生命のかぎり逆賊と戦って討ち死にを遂げる……たしかに、武人としては理想的な死にざまではある。
だが、それもしょせん自己満足にすぎない。すべてが終わったあとで剣を取るのは無益な行為であり、敵にも味方にも無用の犠牲を強いるだけなのだ。
李旺はこの期に及んでも逡巡を振り切れずにいる。
朱英が国王を裏切ったという事実を受け止められないためであった。
誰よりも尊敬してやまなかった男。見習い武官であった自分に剣技を、そして軍人としての生き方を教えてくれた師匠。いつかともに轡を並べ、その背中に追いつきたいと願ってやまなかった理想の武人……。
いままで憧れてきたなにもかもが偽りにすぎなかったというのか。
自分は、実際にはありもしない幻影をひたすらに追い求めてきたのか。
考えるほどに黒々とした想念はとめどなく膨れ上がり、李旺の
王宮の中庭に差し掛かったところで、李旺ははたと足を止めた。
視線は、中庭に面した部屋のひとつに向けられている。
閉ざされた格子窓の合間から、うっすらと灯りが漏れているのがみえた。
見間違えるはずもない。そこは夏凛の寝室であった。
(……たしか、今朝、薛が言っていた。姫さまは昨日からお加減がすぐれなかったと――)
李旺ははっと顔を上げた。
わずかでも病の兆候がある者は国王に近づくことは許されない。
つまり、永鵬殿で催された祝宴に夏凛は出席していなかったということだ。
乾ききった荒野のようだった李旺の胸のうちに、みるみる希望が蘇っていく。
同時に張り詰めていた緊張の糸が緩みそうになるのを自覚して、李旺は自分自身を叱りつける。
いまは無事でも、姫の生命が風前の灯火であるということに変わりはないのだ。
朱鉄ほどの男が夏凛の不在に気づいていないはずはない。何事にも完璧を期する宰相が、王の血を引く娘を見逃すとは到底思えなかった。
朱鉄は夏凛を狙って刺客を送り込むだろう。
(間に合ってくれ――)
揺れる薄灯りをめざして、李旺は猛然と地を蹴っていた。
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