第18話 流転(四)

 朱鉄と朱英が大広間に戻ったのは、舞踊も終わろうかというときだった。

 胡楽の音に酔いしれ、すっかり幻想の世界に没入していた座客たちは、二人の姿を認めたとたんに一気に現実に引き戻されたようであった。

 胡弦の清澄な響きが鳴り渡るなか、”二珠”はゆっくりと大広間の中心へと進み出る。

 室内はまだ仄暗いままだ。ふたたび照明を灯さぬかぎり、明るさが戻ることはない。


「朱鉄宰相、それに朱英将軍。国王陛下はどうなされたのだ」


 大臣の一人に問われても、朱鉄は答えようとはしなかった。

 二回りほど年上の大臣としてはむろん腹に据えかねたが、だからといって、臣下の筆頭である朱鉄を面と向かって非難することなど出来るはずもない。宮廷においては官位がすべてであり、年齢や家柄は二の次なのである。

 朱鉄は王太子と王妃の前で足を止めると、うやうやしく頭を下げる。


「王太子殿下ならびに王妃殿下、そして、この場におられる諸卿にお伝えしなければならないことがございます――」


 朱鉄の声色はどこまでも落ち着き払ったものだ。

 その傍らに影みたいに侍っている朱英も、金属で形作られた塑像みたいに微動だにしない。


「つい先ほど、国王陛下が崩御なされました」


 言い終わるが早いか、宴席はにわかにどよもした。

 無理もないことであった。めでたい宴の最中に国王の訃報がもたらされるとは、この場にいる誰ひとりとして予想だにしていなかったのだから。

 したたかに酩酊していた高官たちの顔から、みるまに酔気が引いていく。衝撃的な一報に触れてなお酔っていられるほど肝の太い人物は、すくなくともこの場には一人もいなかったらしい。

 たちまち素面しらふに戻った彼らは、我先にと朱鉄に質問を浴びせる。


「朱宰相、それはまことか!?」

「国王陛下は先ほどまでお元気だったのだぞ!! 信じられん!!」

「宰相ともあろう御方が、まさか虚言を以って我らを謀ろうというのではあるまいな――」


 矢継ぎ早に詰問されても、朱鉄は氷のような顔容を崩さず、群臣の顔にひとしきり視線を巡らせていく。


「残念ながら、すべて事実です。私と義弟おとうとをお呼びになった直後、国王陛下は身罷みまかられました」

「そなたらは侍医や薬師どもを呼ばなんだのか」

「我らが参上したときには、すでに事切れる寸前でございました」


 ああ――と叫んで天を仰いだのは、王太子の夏楊かようであった。

 亡き蘭王妃を母に持つ夏凛や姉たちとは異なり、彼の生母は国王の側室のしょう夫人である。

 庶子は一段低く見られるのが常とはいえ、国王にとって初めての男児であることに変わりはなく、また夏楊自身も後継者として不足のない器量を備えていたこともあって、成人と同時に王太子に立てられたのだった。

 若き日の父に瓜二つのすらりとした面立ちの王太子は、しばらく喪神した様子ではらはらと落涙するばかりだったが、やがてなにかに気づいたように目を見開いた。


「朱英将軍、その血はなんだ……?」


 朱英の右の袖口には、斑斑と赤黒いシミが散りばめられている。

 言うまでもなく、国王を斬った際に付着したものである。顔についた返り血は拭っても、官服に染み込んだ血痕までは手が回らなかったのだ。

 隠そうと思えばいくらでもやりようはあるものを、朱英は王太子に血のついた右袖をわざと見せつけたようでもあった。


「将軍……そなたは、まさか……父上を……」

「はて、これは異なことを。それとも、王太子殿下は、我が義弟が陛下を害したとでもおっしゃるのですか?」

「誰ぞ、この二人を捕らえよ――」


 王太子が声高に命じるや、傍らの扉が勢いよく開け放たれた。

 ぬうっと大広間に進み出たのは、樽に手足が生えたような巨漢だった。

 近衛隊長の范良はんりょうであった。

 王宮の警備を取り仕切るこの男は、成夏国でも屈指の猛者として名高い。

 こうして近くに立ってみれば、鎧の上からでも凄まじい筋肉の隆起がはっきりと見て取れる。人並み外れた膂力を誇示するように、右手には身の丈よりも長い大刀を引っさげている。


「宰相閣下、将軍、どうかおとなしくご同行願いたい」

「否と言ったらどうする」


 朱鉄の問いに答える代わりに、范良はずいと間合いを詰める。

 勧告に従わぬ場合は、力ずくで朱氏の義兄弟を捕縛すると言っているのだ。

 いかに朱英がすぐれた将器の持ち主でも、純粋な武力では范良に分がある。まともに戦えば、数合も打ち合わないうちに組み伏せられてしまうだろう。

 范良の後に続くように、数人の近衛兵が大広間になだれ込んできた。どの兵士も長剣を抜き放ち、命令が下ればいつでも斬りかかれるように待機している。


「どうしても従わぬつもりなら、我らとしても手荒な真似をせざるを得ませんな」

「亡き先王陛下に重用された”二珠”を罪人として扱おうというのか?」

「相手が誰であろうと、王太子殿下のご命令に従うまでのこと」


 言って、范良は大刀を構える。

 この男がひと薙ぎしただけで、長大な刃は颶風を巻き起こし、朱鉄と朱英をもろともに斬断するはずであった。

 ひりつくような緊張が大広間を満たしていく。居並ぶ高官たちは、みな固唾を飲んで事の成り行きを見守っている。

 剣柄けんぺいに手をかけたまま身じろぎもしない朱英をよそに、朱鉄は悠然と前に出る。

 そして、まだ室内に残っていた踊り手と楽隊のほうに顔を向けると、


「――――赫光焉かくこうえん


 よく通る美声で呼びかけたのだった。

 その呼び声に応えるように、踊り手のなかからましらのごとく飛び上がった孤影がある。

 猩々しょうじょうを象った面を被った少年であった。年齢は十三、四歳といったところだろう。薄い身体と細長い手足は、范良の威風堂々たる体躯とはまさしく対極にある。

 仮面の少年は高官たちのあいだを疾風のごとく駆け抜け、またたくまに朱鉄と朱英の傍らに至っていた。

 武器は持っていない。どこからどう見ても、まったくの無腰であった。


「何奴!?」


 范良は低い声で誰何しながら、仮面の鼻先に大刀を突きつける。

 わずかでも力を込めれば、鋭利な切っ先はたやすく仮面を貫通し、少年の頭骨を砕くだろう。

 沈黙はそう長くは続かなかった。

 先に動いたのは赫光焉だ。

 その動きを見切ることが出来たのは、この場で朱英ただ一人だけだった。

 雷光のごとき疾さと、暗影のごとき静けさを兼備した挙動であった。

 一陣の風と化した赫光焉は、范良の脇をすりぬけて、すぐそばに控えていた近衛兵の一人に向かっていく。

 兵士の手から長剣を奪い取り、返す刀で首筋を切り裂くまでに要した時間は、わずか数秒にも満たない。鮮血を噴き上げて倒れた兵士には目もくれず、少年はだんと床を蹴り、高々と宙空に舞い上がっていた。

 范良があわてて逞しい首を巡らせたときには、猩々の面はすでに視界から消えていた。


「な、にっ――――」


 巨体がぐらりと揺れたのは、次の瞬間だった。

 范良は体勢を立て直そうとするが、身体に力が入らない。

 それも当然だった。分厚い唇が歪んだかと思うと、と血塊を吐き出した。

 ほんの数瞬まえ、着地と同時に身体を旋回させた赫光焉は、范良の右脇腹から左肩へと逆袈裟に斬りつけていった。長剣は鎧ごしに肋骨を打ち砕き、心臓と肺に致命傷を与えたのだった。

 意識を失う瞬間、范良の目交を染め上げたのは、あざやかな赤紅あかくれないであった。

 自分自身の血の色だけではない。

 あまりにも激しい赫光焉の動きに猩々の仮面が外れ、押し込められていた長い頭髪が解き放たれたのだ。

 生まれながらの赤髪は、中原ではめったに見かけることはない。やはり仮面が外れたことであらわになった浅黒い肌とともに、それは辺境に棲む異民族の特徴にほかならなかった。

 赫光焉は床に落ちた仮面を拾うこともせず、近衛隊長の屍体に近づくと、躊躇いもなく大刀を奪い取る。

 鎧を打ったことで使い物にならなくなった長剣を投げ捨て、自分の身長よりも大きな武器に持ち替えた少年は、暗褐色の瞳を朱鉄に向ける。

 まだあどけなさの残るその眼は、無言のうちに次の指示を仰いでいるようであった。


「まだ終わりではないぞ、赫光焉」


 朱鉄は王太子と王妃をちらりと見やる。

 どちらも哀れなほどに顔色を失い、身体は恐怖に震えている。

 父王が示した泰然自若たる振る舞いに倣うには、王太子はあまりにも若すぎた。

 そして、頼るべき夫を奪われたうら若き王妃は、もはや王の妻ではなく、一人の無力な娘に成り果てている。


「さて、王太子殿下――お察しのとおり、我らが国王陛下をしいし奉った」

「朱鉄、そして朱英。そなたらは、このような真似をして許されると思っているのか!? 今日まで父上から寵を賜りながら、その大恩を仇で返すとは……」

「私は誰にも許しを請おうなどとは思っておりませぬ」


 朱鉄は不敵に言うと、上半身だけで背後を振り返る。

 一連の出来事を目の当たりにして、高官たちも悄然と立ち尽くすばかりだった。

 踊り手と楽隊は、いつのまにか大広間の各所に散開し、一同を包囲するような形になっている。あらかじめ楽器に仕込んでいたのだろう、細身の剣や短槍を手にしている者も少なくない。

 仮面の一団が放つ不気味な圧力が、高官たちの戦意を奪い去っていく。

 比類なき強者として聞こえたあの范良が、たった一人の少年にあっけなく殺されたのである。

 旅芸人たちがことごとく朱鉄の子飼いの兵士であるなら、しょせん文官にすぎない自分たちが抵抗したところで、皆殺しにされるのは火を見るより明らかであった。


「いまよりこの成夏国は逆臣の国と相成った。先王の遺徳を追慕する方々は、冥府にて忠考を尽くされるがよい。お望みとあれば、我らが亡き王の元までお送り致しましょう」


 冷ややかに言って、朱鉄はふたたび王太子を見流す。


「私たちをどうするつもりだ……?」

「知れたこと。――成夏王家に連なる者には一人残らず消えていただきます。老若男女を問わず、あなたがたの血はこの世に一滴も残すつもりはない」

「なにゆえそこまで我らを憎む? 我らがそなたに何をしたというのだ!?」

「これから死にゆく者に語って聞かせたところで、詮無きことでございましょう」


 言いざま、朱鉄はぞっとするほど妖艶な笑みを浮かべてみせる。

 王太子はおもわず後じさろうとして、背後の衝立にぶつかる格好になった。


「ひとつだけ確実に言えることは、辿ということだけだ。あなたは不運な御方だが、どこに生まれようと、結局は遅いか早いかの違いでしかない」

「朱鉄、そなたは……」

「おしゃべりはこのあたりにしておきましょう。お父上は王者に相応しい最期を遂げられた。あなたも王の子なら、その名に恥じぬふるまいをなさるがいい」


 朱鉄は一方的に会話を打ち切ると、傍らの赫光焉と朱英に目配せをする。

 行く手を阻む近衛兵を無造作に斬り捨てながら、二人は血刀を手に突き進む。

 やがて、一瞬の絶叫の後、長い長い沈黙が永鵬殿に下りた。

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