第17話 流転(三)
部屋はしんと静まり返っていた。
間取りはさほど広くないものの、上品な白壁や、そこかしこに配置された見るからに高級な調度品は、この部屋が貴人にためにしつらえられたことを物語っている。
つい先ほど大広間を退出した国王と朱鉄は、中庭を横切る渡り廊下を通って、この部屋に入ったのだった。
室内には二人の他には誰もいない。
朱鉄に言われるまま、国王が人払いを命じたためだ。
国家の要人ともなれば、第三者に聞かれてはまずい会話を交わすことも多々ある。国王と朱鉄がこうして二人きりになるのは、さほど珍しいことではなかった。
「さて――朱宰相。戦勝の宴を中座せねばならぬほどの話とは、一体なにかな」
国王の問いに、朱鉄は深々と頭を垂れる。
一瞬の間をおいて、朱鉄が懐から取り出したのは、手のひらに収まるほどのちいさな木箱だった。
国王に木箱を差し出しながら、美貌の宰相は妖艶な微笑を浮かべる。
「これを陛下に献上したく存じます」
「ふむ? 見たところ、ただの小箱にしか見えぬが……」
「どうかご自身の目で中身をお確かめください」
国王は言われるがままに木箱を受け取り、蓋を取る。
箱の中身はまったくの
そんなはずはないと目を凝らし、注意深く箱の内側を覗き込んでみたところで、なにも変わりはしない。小箱のなかに封じられていたものは、しいていえば、虚無だけだった。
「これはどういうことかな、朱宰相」
「いにしえの昔、聖天子は九人の子にみずからの国を分け与えました。その折、聖天子は子どもたちに目隠しをさせたうえで、一人につき一つの小箱を手渡していったそうです」
朱鉄の言葉は、国王への返答というより、ほとんど独り言のようだった。
「
……すべてはそこから始まった。実際にはただの紙切れにすぎないとしても、人がそこに天の意志を見い出せば、七百年もの長きに渡って続く支配の根拠にもなる」
「朱宰相、そなたは……」
「だが、それも永遠ではない。天意はすでに
底冷えのする声で言ったあと、朱鉄はまたしても懐に手を差し込み、折り畳まれた紙片を取り出す。
紙を広げてみれば、その中心にはただ『成』の一文字だけが記されている。聖天子から初代の成夏国王に与えられたものを模していることはあきらかだった。
朱鉄はその縁に指をかけると、ためらいもなく引き裂いた。
「自分が何をしているか分かっているのだろうな。酒席の戯れでは済まされぬぞ、朱鉄……」
「そのようなことはあなたに言われるまでもない。初めてこの王宮に召し出されたときから
朱鉄の双眸はたしかに眼前の国王を見つめていながら、しかし、その心ははるか彼方を見据えているようだった。
「世の人はこう言っているそうです。成夏国の王・夏賛は大国を治めながら戦を好まぬ至徳の王、あまねく民を我が子のように慈しんでやまない世に稀なる聖君であると。しかし、またべつの者はこうも言っている――華昌国に何度攻め入られても守勢に徹している腑抜けだ、と。私に言わせれば、どちらもあなたという人間をまるで理解していない。物事の表面だけしか見ていない愚か者の言いそうなことだ」
「何が言いたい、朱鉄」
「私にはすべて分かっている。あなたが頑なに華昌国に攻め入ろうとしなかったのは、けっして戦を嫌っていた訳でもなければ、戦によって民が犠牲となることを恐れていた訳でもない。国境を何度荒らされても敵軍を追い返すだけに留めていたのは、そうすることが最も理に適っているからだ。戦場になるのは、広い国土のほんの一部だ。ごく限られた地域が戦のたびに手ひどい被害を被ったところで、他が無傷のままであれば、これまでどおり成夏国は中原の大国として繁栄を享受出来る。言ってみれば、あなたは国全体の平和を保つために、辺境の民と兵士たちを華昌国への生贄に捧げているに等しい……」
朱鉄の言葉にじっと耳を傾けながら、しかし、国王は否定も肯定もしない。
「そなたの目には、私の行ってきたことはそのように映っていたか」
ただ、そう言っただけだった。
夏賛は、玉座にある者が自分自身の行いについて弁明する愚かしさを熟知している。
七国の歴史には名君も暗君も数多く存在しているが、彼らはみずからそのように呼ばれることを望んでいた訳ではない。王の値打ちを量る秤はつねに他者の手にあり、王自身はただ受け入れることしか出来ないのである。
死後に追贈される
「龍虎相
穹江国と真耀国は、かつて中原を二分していた大国である。
どちらも最盛期は九国でも一、二を争う国勢を誇り、他の国々は同盟を結ぶことでかろうじて二大国に拮抗することが出来るというありさまだった。
昔日の強国は、いまではどちらも跡形もなく消え失せている。現在の七国の領域は、二国が滅亡したあとに画定されたものだ。
獣の帝王として畏怖される虎も、天空を
長年におよぶ激烈な戦いによって著しく国力を消耗した二大強国は、まさしくそのようにして周辺諸国に少しずつ国土を蚕食され、次第に摩滅していったのだった。
「天下を巡る
「やはりあなたは聡明な御方だ。理知を尊び、俗情を退けることが出来る君主は、けだし名君でありましょう。過去の遺恨に囚われ、勝ち目のない
そこまで言って、朱鉄はいったん言葉を切る。
国王を見つめる視線には、敬意と侮蔑という相反する感情が同居していた。
「だが……どれほど理路が正しくとも、みずからの民を捨て石のごとく扱うあなたには、もはや王たる資格はない。そして、天下への野心を失い、一国の繁栄のみに汲々とする大志なき王をいつまでも推戴し続けることは、我ら臣下の
部屋の出入り口のあたりにあらたな気配が生じたのはそのときだった。
力強くも静かな足取り。振り向くまでもなく、国王にはその正体が分かっている。
「来たか、英」
朱鉄の言葉に応えるように、朱英はずいと魁偉な体躯を前進させる。
「国王陛下……」
「朱英将軍、そなたも宰相と同じように考えておるのか」
朱英は答えず、顔を伏せたまま国王に近づいていく。
右手は先ほど下賜された剣を掴んでいる。この部屋にあるただひとつの凶器は、持ち主の望みに応じて、遺憾なくその威力を発揮するはずだった。
国王は朱英を一瞥したきり、瞼を閉ざしたまま身じろぎもしない。
従容たるその姿は、避けがたい運命を前に覚悟を決めたようでもあった。
「……”
「我らだけではない。今回の
「恨みはせん。すべては王としてそなたらに接しながら、今日まで本性を見抜けなかった私の不明が招いたことだ」
国王の声にはわずかな動揺も怨嗟もなかった。
謀反人である朱鉄と朱英を感情に任せてなじることも、ぶざまに命乞いをすることもない。
おのれの一挙一動が歴史になることを自覚しているのだ。見苦しい最期を遂げた王は、生前どれほどの偉業をなした名君であったとしても、ただその一事によって後世に雪ぎがたい汚名を残すことになる。
「英――――分かっているな」
義兄への返答の代わりに、朱英は
たちどころに抜き放たれるはずの剣刃は、しかし、いつになっても鞘を出ることはなかった。
重い沈黙が部屋を覆っていく。極度の緊張に、時間さえも凝固したようであった。
朱英の唇から苦しげな吐息が漏れた。
呻吟するような荒く速い呼吸は、すぐに明瞭な言葉に変わった。
「
「……」
「どうかこの場で
朱英は喉を震わせ、血塊を吐くように言葉を紡いでいく。
すっかり青ざめ、血の気を失った顔容は、常勝無敗の名将とはかけ離れたものだ。
「ご息女が嫁がれた
「将軍の心遣いはうれしく思う。――しかし、それは出来ぬ」
「
悲痛な叫びを上げた朱英を落ち着かせるように、国王はやわらかく微笑む。
「国王は民に責任を負わねばならん。王位を譲り、玉座を離れたからといって、私が王としてこれまで行ってきたことが帳消しになる訳ではない。朱鉄の言うように、罪があるならばなおさらだ」
「誰が陛下を責めましょう。あなたは心から成夏国とその民を愛し、国王としての引き際をわきまえた賢明な御方だった。それで十分ではありませんか」
「人が許しても、天は私を許すまい」
聖天子に連なる王の血筋に生まれ、今日まで
どのような形であれ、王位を放棄することは、天意に背くことにほかならない。
それは代々の成夏国王だけでなく、先祖をこの地に封じた聖天子をも裏切るということでもある。
死を迎える瞬間まで人の魂魄が肉体を離れられないように、王たる者もまた生命あるかぎり天意と決別することは出来ないのだ。
「私は国王陛下に計り知れないご恩があります。辺境の卑しい家に生まれた私がいまの地位にあるのは、ひとえにあなたに見出して頂いたからこそです。その恩義を仇で返すことは、私には……」
「朱英将軍、もうよい。そなたの気持ちはよく分かっている」
この期に及んでも、国王の声は常と変わらずおだやかだった。
「今日まで忠義を尽くしてくれたこと、国王として心から感謝している」
「国王陛下――」
「我が天命が尽きるというのならば、せめてそなたの手で終わらせてくれ。それが私が王として下す最後の命令である。聞きいてくれるな、将軍」
朱英の両眼から
許されることなら、いますぐ剣を放り捨て、主君の足元にひれ伏して許しを請いたい。
引き裂かれそうな朱英の胸のうちは、国王にも痛いほど伝わっているはずだった。
朱鉄は眉一つ動かさず、そんな主従の姿をどこまでも冷ややかな目で見つめている。
「最期になにか言い遺すことはあるか? ――夏賛」
「朱鉄、成夏国と我が民をたのんだぞ」
「しかと承った」
朱鉄はすげなく言って、義弟に顔を向ける。
「英――」
いったんは離れた朱英の手が、ふたたび剣柄にかかった。
国王に禅譲を勧めたのは、本来の筋書きにはない朱英の完全な独断である。
もし国王が承諾していたなら、朱英は万難を排してでも約束を果たすつもりであった。
一縷の望みを託した夢想は、ついに現実のものとはならなかった。
二度目はない。
これ以上の勝手なふるまいを許す朱鉄ではないことは、ほかならぬ朱英自身が誰よりもよく分かっている。
あらゆる可能性が閉ざされたいま、自分が進むべき道はひとつしかないことも、また。
「――――」
ぽつりと、朱英は何事かを口にした。
間近にいる二人にも聞き取れなかったのは、囁くような小声であったためだ。
あるいは、それは言葉ですらなかったのかもしれない。
主君と
涙はすでに枯れていた。あらゆる感情が失せた双眸に宿ったのは、ひどく暗い光であった。
朱英の右手のあたりで小気味よい金属音が生じた。
冷えた夜気を引き裂いて、ひとすじの銀線が
淀みなく一連の挙動を終えた朱英は、ろくに血振りもしないまま剣を鞘に戻す。
あっけないと言えばそれまでだ。
主君を手にかけた罪悪感も、一つの王朝に終止符を打った実感もない。
ただ、頬を伝っていく返り血のなまあたたかさだけが、これが夢などではないことを教えていた。
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