第16話 流転(二)

 夜――王都・成陽の城外は時ならぬ喧騒に包まれていた。

 朱英麾下の一万五千の兵士たちは、手際よく天幕を設営し、広大な原野はわずか数刻のうちに一大宿営地へと変じている。

 そこかしこで篝火があかあかと燃えさかり、幾朶もの炊煙が夜空に薄くたなびいている。

 ときおり流れてくる甘やかで香ばしい匂いは、どこかで脂の乗ったぶた肉を焼いているのだろう。

 猪肉は軍隊における最高のご馳走である。戦局を左右する決戦の直前、あるいは勝利を収めた褒美として振る舞われるものと決まっている。華昌国軍を打ち破った成夏国軍の兵士たちには、その美味にありつくだけの資格があるのだ。

 今宵、宿営地を行き交うのは兵士たちだけではない。着飾った女たちや、大ぶりな行李を背負った商人の姿も目につく。彼らは城内から酒やさまざまな嗜好品、そしてを商いに来ているのだ。成陽の夜の街は、城壁を通り越し、その外側へおおきく張り出そうとしている。


 酒を飲み、思い思いに高歌放吟し、女たちと戯れる……。

 行軍中はけっして許されなかった愉しみの数々を前にして、兵士たちの心はかつてないほどに舞い上がっている。

 普段ならとかく軍紀にうるさい上官も、今日にかぎっては見て見ぬふりをしてくれる。さらにもうひとつ付け加えるなら、先ほどの凱旋で群衆からの歓声を浴びたことも、兵士たちをひどく上機嫌にさせているのだった。


「なんだ、あれは――」


 ふいに一人の兵士が空を指さして言った。

 周囲の兵士たちが何事かと視線を向けてみれば、王宮のあたりから五本の煙柱がもうもうと夜空に立ち昇っている。

 誰もが我が目を疑ったが、しかし、見紛うはずもない。それは軍において長距離の通信のために用いられる烽火であった。

 とりわけ五本の煙は味方に敵襲を知らせる合図であり、最も緊急性の高いものとして知られている。 


「王宮でなにか変事があったにちがいない」


 朱英に随伴して王宮に赴いた兵士は三十人にも満たない。

 現地で喫緊の事態が生じたなら、当然彼らも戦闘の渦中に巻き込まれているはずであった。国王や王族の身辺警護は近衛兵に任せておけばいいとして、わずかな手勢で朱英の身の安全を確保出来るかは甚だ不安だった。

 いまのところ敵の正体も規模も不明だが、だからこそ、否が応でも最悪の事態を想定せざるをえない。


「このままでは朱英将軍が危険だ」

「我々も王宮に向かおう!!」


 動揺は末端の兵士たちだけでなく、彼らを統率する将たちにも広がり始めていた。

 朱英の身を案ずる兵士たちは、許しがあればすぐにでも宿営地を飛び出していくだろう。それほどに兵士たちの朱英への思慕は強く、彼のためならば一命をなげうっても惜しくはないとまで思っているのだ。彼らの多くは、国王の命令よりも、敬愛してやまない将軍の命令を優先するはずであった。

 このままでは軍の規律が崩壊しかねない――刻一刻と、帷幄いあくに集まった将たちの顔は焦燥と不安に塗りつぶされていく。


 重苦しい沈黙のなかで、部隊の副官である鍾渙しょうかんが口を開いた。

 朱英からじきじきに留守を託された彼は、将軍に代わって部隊を動かすことが出来る唯一の人物でもある。

 鍾渙の言葉を片言隻句たりとも聞き逃すまいと、帷幄の全員が一様に耳をそばだてる。


「私が直々に三千の兵を率いて王宮に向かう。他の者は、いつでも出陣出来るように待機せよ」


 将のなかには、その判断を日和見と見た者もいなかった訳ではない。

 三千の兵だけで救援に向かうというのは、いかにも中途半端だった。大軍勢で押し寄せれば王都を混乱に陥れるおそれがあるとはいえ、はたして宿営地に残る一万余りの兵士たちが納得するかどうか。


「朱英将軍は我が生命に代えてもお守りする。もしなにかの間違いであったなら、そのときは笑い話になろう。おまえたちは留守を頼んだぞ」


 兵士たちにむかって高らかに宣言すると、鍾渙は愛馬に飛び乗っていた。

 配下の騎兵を率いて宿営地を出た彼の胸に去来したのは、歴史の転換点に居合わせる興奮と、取り返しのつかない凶行に手を染めつつある背徳感にほかならない。


(ここまで来たからには、もはや後戻りは出来ぬ――)


 朱英が鍾渙に計画を打ち明けたのは、数日前の夜更けのことだった。


――私たちを告発しても構わない。すべて覚悟の上だ。


 さびしげに言った朱英は、それを望んでいるようでもあった。

 他の将士と同じように、鍾渙も朱英の将器に心底から惚れ込んでいる。そのような相手から秘密を打ち明けられたなら、取りうる選択肢はひとつしかない。

 朱英の共犯者となったことに、しかし、鍾渙は毫ほどの後悔も感じていない。

 馬はさらに速度を上げる。王都の街明かりが次第に近づいてくる。

 虚空に渦を巻いて吹きすさぶ風の音は、終わりゆくひとつの時代が上げる断末魔のようでもあった。


***


 夜空に冲した煙柱は王宮からもよく見えた。


(どうも気がかりだな――――)


 東門の警備についていた李旺は、夜空を見上げて、訝しげに眉を寄せた。

 煙柱の発生源は市中の各所に分散しており、王宮からはせいぜい一本か二本が視界に入るだけだ。宿営地の方角からははっきりと五本に見えているとは、もちろん知る由もない。

 市中のボヤ騒ぎであれば、成陽ほどの大都会ともなればさほど珍しくない。

 火災への対応は、都市行政を担う官吏の職分である。王宮に影響を及ばさないかぎり、李旺ら近衛兵の出る幕ではないのだ。

 それでも、李旺は胸騒ぎを覚えずにはいられなかった。

 朱英将軍が凱旋しためでたい日ということもあり、些細な異変にも過敏になっていることは否めない。


「李副長、どうかなさいましたか?」


 ふいに背後から声がかかった。

 振り向いてみれば、張玄ちょうげんが心配そうな面持ちで李旺を見つめている。


「張玄。あの煙、ちょっと妙だと思わないか」

「どこかの家で火の不始末でもあったのでしょう。いまのように乾いた時期にはよくあることです。それとも、なにかお心あたりでも?」

「そういう訳ではないが――」


 李旺はそれきり言いよどむ。

 なるほど、張玄の言うとおりかもしれなかった。たまたま目に入ったからといって、あれこれと当て推量をしてむやみに不安がるのは、いかにも馬鹿馬鹿しいことだ。


「それほどご心配なら、部下を王宮の外にやって確かめさせますか」


 張玄の声には、どこか呆れたような響きがある。

 そのようなことをすれば、ただでさえ手薄な東門の警備をさらに減らすことになる。李旺が首肯するはずもないことは分かりきったうえで、わざと当てこすりをしているのだ。

 李旺が本来の持ち場である北門を離れ、東門に前触れもなく姿を見せたことは、もともと東門の警備を受け持っていた張玄にとっては面白くないことだった。

 李副長は私を信用していないのか――。

 そんなふうに表立って抗議することこそないが、内心では少なからず不満を募らせている。

 先日の試合で勝ちを譲られた悔しさは、張玄の心にいまなお黒々とわだかまっているのである。李旺にたいして複雑な感情を抱くのは無理もないことであった。


「いや、それには及ばない。兵たちにはくれぐれも警戒を怠らないように伝えてくれ」

「了解しました――それでは、私は自分の持ち場に戻ります」


 張玄はさっと踵を返すと、足早にその場を離れていく。

 李旺はそれ以上声を掛けることもせず、ふたたび夜空に目を向けた。

 十一月の夜空は冷たく澄みわたり、じっと見つめていると、底のない暗い淵に吸い込まれていくような心地になる。


(祝宴が終わるまで何事もなければいいが……)


 ひとたび胸の奥に芽生えた不安は、時間とともに膨れ上がっていく。

 朱英に言われるまま東門に赴いたはいいものの、副長である自分がここにいていいのだろうかと自問せずにはいられない。

 尊敬する朱英の言葉を疑っている訳ではない。だが、もし自分が不在のあいだに北門に何事かあれば、悔やんでも悔やみきれないのだ。

 近衛兵のなかで唯一李旺と伍する使い手である張玄がいれば、東門の警備についてはまず心配ないはずであった。

 やはり北門に戻るべきか――李旺は目をつむり、顎に手を当ててしばし思案にふける。

 遠雷みたいな馬蹄の音と、甲高いいななきが冷えた夜気を震わせたのは、そのときだった。

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