第15話 流転(一)

 窓の外で夕陽が落ちていった。

 みるまに薄くなっていく茜色と、その空白を埋めるように濃さを増していく闇が、夜の到来を世界に知らしめる。

 寝台に身を横たえた夏凛は、退屈そうにあくびをする。


「なんで私だけのけ者なのかしら」


 呟いたその言葉には、やり場のない不満の色がはっきりと現れていた。

 薛はめくれかかった布団を直しながら、なだめるように言った。


「姫さまがお風邪を召していらっしゃるからです。平癒なさるまでお休みになっていなければなりません」

「昨日の夜はちょっと熱っぽかっただけよ。いまはもう平気だわ」

「それでも、ダメなものはダメです」


 実際のところ、夏凛は昨日の夜から風邪ともいえない微熱を出したにすぎない。宮廷薬師くすしの調合した薬を飲み、滋養のある食事を取ったあと、暖かい部屋で十分な睡眠を取ったいまでは、歩くと多少ふらつく程度にまで症状は軽快している。

 それでも自室での静養をきつく命じられているのは、他の王族に感染させないためだ。

 この時代、当然だが細菌の存在は知られていない。

 しかし、科学的な根拠こそないものの、臨床を通して蓄積された膨大な知見から、医師は病が人から人に伝染することを知っている。

 いったん発症した者には然るべき治療を施すとして、問題になるのは、他の人間に病が移ってしまうことだ。

 君主である国王や、将来を担う王太子が病に罹患することは、取りも直さず成夏国の危機に直結する。それゆえに、わずかでも病気の兆候がある者は、たとえ王族だろうと王の住処である永鵬殿から徹底的に遠ざけられるのが鉄則だった。

 それがたまさか朱英の凱旋を祝う宴の当日に重なってしまったのは、まさしく不運と言うしかない。


「私も行きたかったなあ――」


 めでたい行事が催される際には、王女である夏凛にも席が用意される。まだ成人前ということもあって酒は供されないが、宴席でしかお目にかかれない珍しい料理や、他国の名産品を賞味出来る貴重な機会なのである。

 王族の日々の食事の内容は、古来からの伝統に則って季節ごとにほぼ固定されており、年端も行かない少女には退屈なものだ。珍奇な食べ物を口にする機会がふいになったことで、夏凛の落胆は一方ならぬものがある。


「ねえ、薛。ちょっと私の分の料理を取ってきてくれない?」

「姫さまがどこにも行かないよう、お休みになるまで目を離すなと女官長から命じられております」

「ちょっとくらい誰も気にしないわ」

「わがままを仰らないでください」


 あくまで頑なな薛の態度に、夏凛は根負けしたように寝返りを打つ。


「わかったわ。そこまで言うなら、もう寝る!!」

「姫さま、お休みになるまえにもう一度お薬を飲まなければ――」

「苦いからイヤ」

「昔から良薬口に苦しといいます。それに、しっかり飲まないといつまでも治りませんよ」

「もう治ってるわよ」


 拗ねたように言って、夏凛は頭まで布団をかぶってみせる。

 どこからか聞き慣れない旋律が流れてきたのはそのときだった。


***


 野生的な音色が広大な空間を揺らした。

 太鼓の音である。

 演奏者の生のままの情動を叩きつけるかのような激しい音律は、中原のたおやかな音曲とはまさしく対極にある。

 それも、ただ荒々しいだけでなく、軽妙洒脱な笛や、すすり泣くような弦の音と混ざり合って、えも言われぬ玄妙な旋律を奏でているのだった。

 七国の外側に住む異民族は、、あるいはえびすと呼ばれる。どちらも野蛮な非文明人といった意味合いをもつことから分かるように、彼ら自身による自称ではなく、あくまで中原の人間が一方的にそう呼んでいるにすぎない。

 まったく異なる文化と言語を持つ異民族は、古来より中原の人々に恐れられ、ときに激しく敵対してきた。他方で、彼らのもつ独特の民族文化が七国において珍重されてきたのも、一面の事実である。人間が自分にはないものを他人に見出したときに魅力を感じるなら、それは文化というおおきな枠組みにも当てはまることなのだ。

 とくに大きな宴会や結婚式が催されるときには、場を盛り上げるために胡楽こがくは欠かせないものとなっている。


 いま、永鵬殿えいほうでんの大広間を領した胡楽の音色に聞き惚れているのは、成夏国のそうそうたる顔ぶれであった。

 国王である夏賛かさんをはじめ、王妃のれい氏、今年で二十五歳になる王太子の夏揚かようといった王族の面々を中心に、名だたる高位高官がずらりと居並んでいる。

 ただひとり、匠作大夫しょうさくだいふ陳索ちんさくの姿だけはみえない。

 宴会と聞けば一も二もなく飛んでくることで有名な伊達男には珍しいことだが、数日前からにわかに体調を崩し、床に臥せっているという。

 夏賛は、それが仮病であろうことにも薄々気づいている。


(夏凛との見合いが破談になったのがよほどこたえたのであろう)


 あの日、夏凛は陳索の屋敷から戻るなり、あの男だけはやめてくださいと父に強く訴えたのだった。

 愛娘がそこまで強く拒絶するからには、父としては無理強いも出来ない。結局、陳索との縁談は白紙に戻されたのだった。

 あれから一週間あまり――。

 想い人に袖にされた落胆と羞恥のあまり、陳索が宮中に顔を出せなくなったとしても不思議はない。挫折を知らない天才が色恋に破れた――それも、年下の少女に失恋したとなれば、その衝撃はいかほどのものであろう。

 一方の夏凛もまたこの場に顔を出せなくなったのは、数奇な偶然といえた。


(それも若い頃にはよくあることだ……)


 陳索が夏凛を卑劣な罠に嵌めようとしていたことなどつゆ知らぬ国王は、あくまでのんきに酒と肴に舌鼓を打つ。

 豪華な食膳を彩る山海の珍味佳肴は、成夏国の特産品だけでなく、他国から献上された品々も目につく。豊かな山林をもつ鳳苑国ほうえんこくからはみごとに実った秋の果実が、海沿いの海稜国かいりょうこくからは塩漬けの魚介類が成夏国の王室に送り届けられるのが、ここ数年来の通例だった。

 酌み交わされる酒盃を満たすあざやかな赤紫色の液体は、これまた中原ではめったに手に入らない沙蘭国さらんこく産の葡萄酒であった。はるか西方の異民族から製法がもたらされたため、西胡酒せいこしゅとも呼ばれている。中原の酒がこってりと甘いのに対して、香りはきわめて芳醇でありながら淡麗な西胡酒は、酒の王にして王の酒であるとしてつとに名高い。

 宰相の朱鉄は、国王からやや離れた場所で、背筋を伸ばして端座している。

 ときおりふと思い出したように料理を口に運ぶだけで、酒は一滴も口にしていない。

 なにも今日に始まったことではない。この男が酒を飲むところを見たことがある人間は、国王を含めて誰もいないのだった。

 七国では酒を飲まない男は珍しいが、その名の示すとおり、冷たく硬い鉄のような雰囲気を帯びた朱鉄は、わずかでも酒によって判断力が鈍ることを嫌悪しているのかもしれなかった。


「朱英将軍がおみえになりました――」


 廷吏が声を張り上げるや、満座の視線が一斉に大広間の出入り口へと殺到した。

 わずかな時をおいて、開け放たれた扉のあいだから現れたのは、官服に身を包んだ偉丈夫であった。

 身に寸鉄も帯びていないにもかかわらず、その厳粛な佇まいと隙のない足運びは、彼が一流の武人であることを見る者に悟らせずにはおかない。人いきれと酒気によって、ともすれば蒸し暑いほどだった大広間に、ふいに清冽な涼風が吹き込んだようであった。早くも酒に酔いしれ、赤ら顔を晒していた高官たちが慌てて居住まいを正したのも無理からぬことだ。


朱亮善しゅりょうぜん、罷り越しました。戦地より帰還し、ふたたび国王陛下に拝謁叶ったこと、無上の喜びに存じます」


 朱英は国王にむかって逞しい長身を折ると、うやうやしく跪拝の礼を取る。

 義兄である朱鉄ほどではないにせよ、朱英も十分に整った顔立ちの青年である。少年の頃から繰り返し戦場の腥風せいふうに洗われたためだろう。その佇まいには、ともすれば歳に不釣り合いなほどの落ち着きと威厳がある。


「朱将軍、近う寄れ。まずは戦勝を祝って乾杯と参ろうではないか」

「はっ」


 朱英は額を床につけんばかりに深く一礼すると、膝行して国王の前に出る。

 国王は手ずから酒盃と酒器を取り、朱英の前で注いでみせる。


「此度の勝利はそなたの手柄だ。国王として心から礼を言わせてほしい」

「恐れながら、陛下――華昌国かしょうこくの軍勢は早々に戦を切り上げ、みずから兵を国境から引き上げました。敵の本隊をまんまと取り逃した私には、お褒めの言葉に値するほどの働きはございません」

「相変わらず謙虚なことよ。戦わずして敵を退かせることが出来る将軍は、天下に二人とおらぬ。双方ともに最小限の犠牲で戦が終わったなら、これ以上の戦果があろうか」


 国王は至って上機嫌に笑うと、酒が満たされた盃を朱英に手渡す。

 主君から直接盃を賜るのは、臣下にとって最高の名誉といってよい。この青年にそれだけの功績があることは、この場にいる全員が認めるところなのだ。


「謹んで頂戴致します――」


 朱英は捧げ持つみたいに盃を受け取ると、ひと息に飲み干す。天下無双の名将に相応しい豪快な飲みっぷりに、群臣からは「おお」と感嘆の声が上がった。


「朱将軍の働きに報いるには、それだけでは到底足らぬだろう。今日は、もうひとつそなたに与えるものがある」

「私ごとき若輩には、まこともったいなきお心遣いにございます」

「あれをここに」


 国王が軽く手を叩くが早いか、広間の奥から侍従がしずしずと歩み出てきた。

 突き出した両手は、なにやら長細い木箱を掲げている。


「これは……」

「開けてみるがよい」


 朱英は侍従から木箱を受け取り、蓋に手をかける。

 木箱のなかに納められていたのは、ひと振りの長剣だった。剣柄にはしっとりとした光沢を帯びたなめし革が巻かれ、幅広の鍔にはみごとな透かし彫が施されている。飾り気のない漆塗りの鞘は、しかし、ひと目見ただけでも堅牢な作りであることがわかる。


「そなたに褒美を授けるなら、宝石や着物よりも剣がよかろうと思ってな」


 驚いた表情を浮かべる朱英に、国王は人のよさげな笑顔を浮かべて言った。

 朱英がいま使っている剣は、将軍の位に就いたときに大将軍・柳機りゅうきから譲られたものだ。

 剣は軍人の象徴であり、地位が上がるにつれて相応しい等級のものに買い換えるのは、どこの国でも半ば常識になっている。

 ところが、一兵卒だったころから安物の剣を戦のたびに使い潰してきた朱英には、なにが将軍に相応しい剣なのか皆目見当もつかなかった。結局、見かねた柳機が自分の佩剣を惜しげもなく譲り渡し、朱英はそれから十年ちかくもその剣を使い続けている。

 かつての持ち主と同じく、見るからに年季の入った剣は、いまは亡き名工の手になる逸品である。戦場での長く過酷な年月を経てなお、研ぎ上げられた刀身は新品のごとき輝きを保っている。

 それでも、もとは柳機のためにしつらえられたということもあり、朱英にとってかならずしも最良という訳ではない。持ち主の体格に対して刃渡りがやや長すぎるのはその最たるものだ。

 たったいま国王から下賜された剣は、その意味で、なんの不満もないものであった。

 重さも大きさも、朱英の身体の一部であるかのようにしっくりと馴染む。刀身も長すぎず短すぎず、優美さにくわえて戦闘に耐えるだけの頑強さを備えている。

 将軍ともなれば、戦場で実際に剣を振るう機会は、ほとんどない。

 だが、前線で指揮を執るためには剣が不可欠であり、不測の事態が生じた際には我が身を守る最後の武器にもなる。刀剣としての機能が優れているに越したことはないのだ。


「もったいなくもありがたき幸せ――」

「将軍が喜んでくれたならなによりである」


 国王は満足げに頷くと、


「これからもわが成夏国のためにその才覚を発揮してもらいたい」


 そう言って、福々しい顔を綻ばせる。

 刹那、ふいに朱英の相貌をよぎった深い憂いの色は、国王の目に留まることもなく、すぐに霧散していた。


「さて――」


 朱鉄は音もなく立ち上がると、国王にちらりと目配せをする。


音曲おんぎょくはこのあたりにして、次なる座興をお目にかけたく存じます」

「おお、朱宰相が遠国より招いた旅芸人とやらか。楽しみだのう」

「必ずや陛下にもご満足いただけるかと……」


 朱鉄は涼やかな目元に幽かな微笑を漂わせると、軽く手を打ち合わせる。

 それが合図だったのか、大広間全体がにわかに暗くなった。

 部屋の各所に配置されていた照明具が消されたのだ。わずかに残ったものも、覆いを被せられたことで光量は著しく減少している。

 ややあって、太鼓の音にあわせて薄暗い大広間に進み出たのは、奇妙な仮面をつけた一団であった。

 獅子や猿や熊、鷲に鷹といった鳥獣に加えて、はるか南方に生息する象や犀といった珍獣、そして龍のような空想の動物……。

 仮面の意匠は多岐にわたり、ひとつとして同じものはない。本物の毛皮をふんだんに用いて精巧に作り込まれたものもあれば、おもわず吹き出してしまいそうなひょうきんな面貌のものもある。


 ふたたび始まった胡楽の旋律に乗って、仮面の群れは軽やかに舞い踊る。

 床板を蹴って高々と跳躍したかとおもえば、地を這うように低く身を屈める。あるいは大柄な踊り手を軸にして回転し、宙に飛んだ小柄な身体を、べつの踊り手が抱きとめる。

 中原の人間には思いもつかない、緩急が巧みに取り入れられた、それは実にみごとな集団舞踊であった。

 彼らは一見無秩序に動き回っているようで、見ようによっては、その動作を貫くたしかな筋立てが存在しているようでもある。言葉によらず語られる物語には、見る者の数だけ解釈が存在する。

 目の前でめまぐるしく展開される幻想的な舞劇に、宴席の誰もが陶然と見入っている。たんに踊り手の技巧が卓抜しているだけではない。腹の底を揺さぶられるような胡楽の力強い音色が、聴衆を無意識のうちに夢とうつつの境へと誘っているのだ。

 王妃や王太子、そして国王である夏賛も、いまやすっかりその魅力の虜となっているようであった。

 ただ二人――朱鉄と朱英の兄弟だけは、夢幻に遊ぶこともなく、冷え切った瞳で異形の舞を見つめている。


 朱鉄が動いた。

 影までも麗しい宰相は、あくまで優雅に国王の傍らまで身を運ぶと、


「お楽しみのところ、失礼いたします」


 慇懃に頭を垂れたのだった。


「何か、朱宰相?」

「じつは取り急ぎ陛下のお耳に入れたき儀がございます。ここでは障りがございますゆえ、どうか別室にお移りください」

「いまでなければならんのか?」

「どうか……」


 楽しみに水を差され、国王が眉をひそめたのも一瞬のことだ。

 信頼してやまない朱鉄がそこまで言うからには、万が一にもつまらぬ用件であるはずがない――。

 国王が鷹揚に肯んずるのを確かめると、朱鉄はさっと右手を上げ、大広間の奥に控えている侍従に合図を送った。

 扉が小さく開かれ、国王と朱鉄は、連れ立って席を離れた。二人が姿を消したことに気づいた者は少なくなかったが、さだめし重要な用件に違いないと納得して、ふたたび舞曲の愉悦に身を委ねる。

 薄闇に閉ざされた大広間から消えたのは、二人だけではない。

 ”二珠にしゅ”のもう一方である朱英もまた、群臣の列からいつのまにか姿を消していた。

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