第14話 暗雲(四)

 朱英に率いられた一万五千の軍勢が王都・成陽に凱旋したのは、十一月八日の夕刻のことだった。


 地平の彼方から血のように紅い夕陽を背負って現れた兵馬は、彼らを出迎えた人々に鮮烈な印象を与えずにはおかなかった。

 成夏国軍の軍旗を掲げた壮麗な騎兵隊がまっさきに城門をくぐり、戦車隊がその後に続く。

 今日の主役と言うべき朱英は、細長い隊列のほぼ中央にあって、最下級の歩兵たちとともに王都への帰還を果たしたのだった。馬に跨っているとはいえ、将軍の地位にある者がこうして歩兵と肩を並べて歩くのは珍しい。

 七国の軍制において、馬や戦車といった貴重な兵器は、もっぱら上流階級出身の兵士に割り当てられる。それに対して、軍の大多数を占める歩兵部隊は、農村や都市部で徴募された庶民によって編成されるのが常であった。

 かつてはみずからも一介の歩兵であった朱英は、将軍の地位に昇りつめたいまでも、行軍の際には歩兵たちと足並みを揃えている。それは末端の兵士たちへの同情心ゆえではなく、最多であると同時に最も足の遅い彼らの進軍速度が、取りも直さず部隊全体の速度であることを理解しているためだ。

 あくまで副次的なものとはいえ、名将の呼び声高い朱英が自分たちと行動を共にしているという事実は、麾下の兵士たちの戦意を大いに鼓舞し、戦場において類まれな強さを発揮する一因にもなっている。

 そしていま、大戦果を鼻にかけることもなく、身分の低い歩兵たちに囲まれて大路を進む朱英の姿は、王都の人々にあらたな感銘を与えたのだった。


「朱英将軍――!!」

「常勝将軍、万歳――――!!」


 朱英とその軍勢が前進するたびに、市街地のそこかしこで歓呼の声が上がる。

 凱旋の行進をひと目見ようと詰めかけた人々によって、目抜き通りの沿道はまさしく立錐の余地もないありさまだった。

 群衆がこれほどまでに興奮しているのは、今回の凱旋が特別であるからにほかならない。普通であれば王都に入城するまえにいったん全軍が武装を解き、鎧を脱いでから王宮に向かうところを、今日は戦装束のまま市中を行進しているのである。

 成夏国全軍の頂点に立つ大将軍の柳機にさえ許されたことのない、それは特例中の特例だった。

 夕陽に染め上げられた軍勢は雄々しく、華昌国軍に圧倒的な勝利を収めた自信と誇りが一兵卒に至るまで満ち満ちている。敵を打ち破ってますます盛んなその意気は、彼らを出迎えた人々にも伝播し、京師みやこはかつてないほどの高揚感に包まれつつある。


 質実剛健を地で行く朱英は、みずからを飾ることを知らない。

 戦に勝つというただ一点を除いて、生まれつきあらゆる欲望がまるっきり欠落しているような男なのだ。そのような人間の脳からは、自分自身を華々しく演出するためのいかなる発想も湧き出すことはない。

 夕刻まで到着を遅らせたことも、戦装束を解かずに行進することも、すべては義兄である朱鉄が仕組んだことであった。

 朱鉄が義弟のためにお膳立てを整えるのは、なにも今回に限ったことではない。朱英の功績があまねく国民に知れ渡り、名将として絶大な人気を博するようになったのも、朱鉄の有形無形の宣伝によるところが大きいのである。


 王都じゅうの注目を集めていることに多少の面映さを感じながら、朱英は称賛の声に酔いしれることなく、あくまで将軍らしい沈毅な佇まいを崩さずにいる。

 というよりは、喜ぼうにも喜べないといったほうが適切かもしれない。

 これからこの場所で起こること、そして遠くない未来に自分がなさねばならぬことに思いを馳せるたび、朱英の胸は引き裂かれるような痛みに苛まれるのだった。

 悔やんだところでどうなる訳でもない。ここまで来てしまったからには、もはや後戻りは出来ないのだ。

 並ぶもののない栄光に浴しているはずの将軍が、手足に枷を嵌められて刑場に引かれていく死刑囚にも似た絶望に打ちひしがれているとは、兵士たちや群衆は夢にも思うまい。おのれに向けられた喝采も歓声も、朱英はどこか遠い世界の出来事のように感じている。


 そんな朱英の心中をよそに、兵馬の隊列は少しずつ王宮へと近づいている。

 三つの建物が平行に並んだ王宮は、地上に舞い降りたおおとりを思わせる。その中央に位置する宮殿は、大廈高楼たいかこうろうが所狭しと軒を連ねる成陽にあって、他を寄せ付けない圧倒的な威容を誇っている。

 朱英の行進の目的地――国王の待つ永鵬殿えいほうでんであった。


***


 朱英と少数の兵士を王宮に残して、凱旋軍はふたたび来た道を引き返していった。

 目抜き通りはいまなお人で溢れているが、主役を欠いた軍勢は、往路ほどの歓声を浴びることはないだろう。

 今日のところはひとまず城外に野営し、明くる日に朱英の立会のもとで正式に部隊を解散する手筈になっている。戦場から帰ったばかりの兵士たちにとっては王都を前にして生殺しも同然だが、そこは上手く出来ているものだ。わざわざ夜の街に繰り出すまでもなく、酒もご馳走も女も自分たちから兵士たちのもとにやってくるのである。

 十一月の寒空の下、兵士たちの乱痴気さわぎは翌朝まで続くはずであった。祖国を守った彼らの、一夜かぎりの軍紀の乱れを口やかましく咎める者は、すくなくともこの成陽にはいない。


 王宮の門前で馬を降りた朱英は、部下を引き連れて永鵬殿に向かった。

 大庭園を横切る渡り廊下に足を踏み入れたとき、見慣れぬ一団が目に留まった。

 立ち止まってみれば、色あざやかな衣装に身を包んだ若い男女が二十人あまり、庭園の一角にたむろしている。

 ある者は動物を模した仮面をかぶり、またある者は顔全体に派手な化粧を施している。七国の文化とは明確に趣を異にするそれは、辺境に住む異民族の装いにほかならない。


「気になるか、英よ――」


 ふいに背後から呼びかけられて、朱英はほとんど反射的に振り返っていた。

 はたして、目交に飛び込んできたのは、義兄・朱鉄の妖しいまでの美貌であった。


義兄上あにうえ、お久しうございます」

「他人行儀な挨拶はそこまでにせよ。それより、あの者たちが気になるのだろう?」

「……はい」


 何もかも見透かしたような朱鉄の問いに、朱英は伏し目がちに答える。


「あれは今日の座興のために私が呼び寄せた旅芸人だ。なかなか芸達者な者たちでな。

「それは……」

「おまえも早く着替えてくるがいい。国王陛下がお待ちである」


 それだけ言って、朱鉄はすばやく踵を返していた。

 見る見る遠ざかっていく後ろ姿は、大事の前に余計な口をきくつもりはないと言っているようでもあった。

 短い会話のなかで義兄が暗に言わんとしたことは、朱英もむろん察している。

 このさき自分がどのように動こうと、義兄の計画はもはや止めようがないことも、また。

 朱鉄は、たとえ”二珠”の栄誉を分け合った義弟の屍を踏みつけてでも、自分の目的を完遂するだろう。そういう男であることは、ほかならぬ朱英が誰よりも熟知している。

 ようやく一歩を踏み出した朱英の脳裏を、柳機が口にした言葉がよぎっていく。


――夏賛かさんを甘く見るな。油断すれば、こちらが殺される。


 事態はすでに抜き差しならない局面に差し掛かっている。ここで二の足を踏めば、自分も義兄もともに破滅するだけなのだ。いったん謀反人の名簿に名を連ねてしまったからには、生き残る道はひとつしかない。


 努めて平静を装いながら、朱英は迷路のような王宮を先へ先へと急ぐ。

 軍袍のまま国王に拝謁することは出来ない。いったんすべての衣服を脱ぎ、廷吏の目の前で官服に着替えるのが王宮でのしきたりなのだ。

 身に寸鉄も帯びていないことを証明して、ようやく国王の面前に出ることが許される。


「朱英将軍!」


 またしても呼びかけられて、朱英ははたと足を止めた。聞き覚えのある声であった。

 義兄のときとは異なり、あくまで余裕を持って声のしたほうに顔を向ける。


「おお、李旺か」

「朱英将軍、このたびの戦勝、心よりお祝い申し上げます」

「ありがとう。おまえも元気そうで何よりだ。近衛兵として励んでいるようだな」

「はい――まだまだ未熟の身ですが、王族がたに精一杯お仕えしております」


 あの頃と変わらない溌剌とした声で答えた李旺に、朱英もふっと相好を崩す。

 李旺は、かつて朱英のもとで見習い武官として武術と兵法を学んでいた。いわば師匠と弟子である。

 その後、初陣を控えた李旺が近衛兵に取り立てられたことで、顔を合わせる機会は減りこそしたが、昔日の師弟はいまも確かな絆で結ばれている。


「ところで李旺、今日の持ち場はどこだ?」

「北門です。副長として兵の監督に当たるよう命じられております」

「ふむ――」


 朱英は腕を組むと、いかにも心配そうに眉根を寄せる。

 そんな師匠の様子を見て、李旺の顔にも不安の色が広がっていく。


「私の見たところ、どうも東門の警備が甘いようだ」

「東門……ですか?」

「私が賊軍であれば、王宮から多少遠くても警備が手薄な門を狙う。敵の立場から物事を見ろと、おまえにはそう教えたはずだったな」

「しかし、朱英将軍。いまから私の独断で兵の配置を変更することは――」

「なにも兵を増やすことばかりが方策ではないぞ」


 突然のことに戸惑う李旺の肩を叩きながら、朱英は任せておけと言うように頷いてみせる。


「おまえが東門で指揮を執れば、兵の数は少なくても十分な警備を敷くことは出来るだろう。心配するな、近衛隊長の范良はんりょうには私から話を通しておく」

「ですが、将軍……」

「私を信頼していないのか?」


 かつての師匠にそんなふうに言われては、教え子である李旺としては反論出来ようはずもない。

 深々と一礼して、李旺は東門の方角へと走り去っていく。

 その後ろ姿が視界から消えたのを見届けて、朱英はふたたび歩き出していた。


――こうしておけば、奴が巻き込まれることはあるまい……。 


 どうせ罪を犯すなら、犠牲は少ないほうがいい。身勝手な理屈といえばそれまでだが、しかし、無益な殺生はもとより望むところではないのだ。義兄・朱鉄も、その点に関しては朱英と軌を一にしているはずであった。

 だが、もし今夜を無事に生き延びたとしても、李旺はきっと自分を恨むだろう。


 それでも――と、朱英は思う。

 手塩にかけて育てた弟子には、少しでも長く生きていてほしい。

 それは李旺のためというよりは、朱英自身のためと言うべきかもしれない。


――救いがなければ悪事を働くことも出来ないとは、我ながらあきれた小人だ。


 心のなかで自嘲した朱英の足取りに、もはや迷いはなかった。

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