第13話 暗雲(三)
「はあ……」
白い湯気を立ち上らせている茶杯を
王宮の大庭園に面した
定例になっている
薛は自分の茶を注いでいた手を止めると、心配そうに主人の顔を覗き込む。
「姫さま、どこかお加減でも?」
「なんでもないわ。ただ、今日はいいお天気だなって思っただけ」
今日は朝からうららかな好天に恵まれている。
まだ十一月に入ったばかりというのに、成陽の冷え込みはほとんど真冬のそれだった。
朝ともなれば桶の水には
七国の最北端に位置する
あと二月もすれば、成陽の市街地にも雪片がちらつくようになる。ことによると、今年の初雪は例年よりもだいぶ早いかもしれない。
「朱英たち、これ以上寒くなる前に戻ってこられてよかったわね」
夏凛は茶杯を口に運びながら、しみじみと言った。
「戦場では将軍も兵士も天幕に寝泊まりしているんでしょう。王宮のなかでも夜はたまらないほど寒いのに、布を張っただけの天幕でちゃんと眠れるのかしら?」
「皆さんお強い方々ですから、きっと大丈夫ですよ。それに、軍人とはそういうものだと兄上が以前言っておりました」
「李旺が?」
「はい。出来ることなら、自分も戦場に赴きたいと……」
言いかけて、薛はしまったというようにその先の言葉を飲み込む。
少女の視線は宙をさまよい、唇は言葉を紡ごうとして、むなしく開閉するばかり。
狼狽しきった様子の近習を見かねてか、夏凛はふたたび茶杯を置くと、今度は自分から薛の顔を覗き込む。
「本当に李旺がそう言ったの?」
「……兄は、戦の最中にも自分だけが王宮に残っているのがいたたまれないのです。もし許されるのであれば、朱英将軍や柳機大将軍と一緒に華昌国軍と戦いたいと。ずいぶん前に、私にそのように話してくれたことがありました」
「ふうん……」
「あ、あのっ! 姫さま……どうか、私が言ってしまったことは兄上には秘密に――」
「安心なさい、薛。私は告げ口なんてしないわ」
取り乱しかかった薛を落ち着かせるように、夏凛はふっと微笑んでみせる。
「でも、李旺がそんなふうに思っていたなんて初めて知ったわ。私やお父様の近くより、遠くの戦場のほうがいいのかしら」
「そうではありません!!」
我知らず声を荒げてしまった薛に、夏凛はすっかり面食らった様子で目をぱちくりさせている。
「も、申し訳ありません……ですが、兄上はけっして国王陛下や姫さまの近くにお仕えするのが嫌な訳ではないのです。近衛兵の仕事にも、誰よりも誇りを持っているはずです」
「だったら、どうしてそんなことを?」
「私たちの家は、むかしの
「お父様が?」
「国王陛下は、たとえ養子であったとしても、李家の男子がふたたび戦場で生命を落とすのは忍びないと……我が家のことを気遣ってくださったのです」
薛は夏凛から目をそらし、
「李家の誰もが国王陛下のご厚情に感謝しています。それでも、兄上は自分だけが特別扱いをされているようで、戦場で危険に身を晒している朱英将軍や他の軍人の方々に後ろめたい気持ちを抱き続けているのです。やりすぎと思えるくらい武芸に打ち込んでいるのも、そんなやり場のない気持ちを紛らわすためではないかと……」
言い終えたとき、薛の声はほとんど泣いているようだった。
「あの……姫さまこんな話をしてしまって、私……」
「ううん。薛は気にしなくていいの。私のほうこそ、興味本位で根掘り葉掘り聞いてしまったみたいで、悪かったわね」
夏凛はわざとらしいほど朗らかに笑うと、卓上の茶杯に手を伸ばす。
薛の話に耳を傾けているうちに、思いのほか時間が経っていたらしい。くゆっていた白い湯気はすでになく、薄い磁器ごしに指先に伝わってくる温度はぬるい。
冷めかけた茶を飲み干して、夏凛は窓の向こうに広がる空を見つめる。
「私、李旺のこと、なんにも知らなかったな――」
誰にともなく呟いた言葉をかき消すように、冷え冷えとした風が庭園を渡っていった。
***
王宮の東西南北には、それぞれ四つの門が設けられている。
どの門も昼夜をとわず近衛兵が警護に当たっているが、なかでも国王の住まう
それぞれの門を守備する兵士は、一日に三度入れ替わることになっている。
いったん持ち場を離れた兵士は、次の交代まで心身を休め、余力のある者は自主的に鍛錬に励むのが常だった。もし喫緊の事態が生じた場合は、すべての人員が王宮の防衛のために動員されることは言うまでもない。
いま、李旺は部下を引き連れて北門に向かう途上にある。
各門の兵士の交代を見届けるのも、近衛隊の副長としての職務のひとつなのだ。
すでに他の三つの門は問題なく交代を終え、あとは最も重要な北門を残すだけであった。
永鵬殿の脇を通る小道に差し掛かったところで、李旺はふと足を止めた。
訝る部下に先に行くように指示すると、李旺は一人でその場に残ったのだった。
そして、彼らの後ろ姿がすっかり視界から消えたのを確かめると、ひとしきり周囲を見渡して、
「姫さま、そこにいらっしゃるのでしょう。隠れても分かります」
努めて穏やかな声で呼びかけた。
「あーあ――なんで気づかれてしまうのかしら? ちゃんと隠れたつもりだったんだけど、がっかり」
言い終わるが早いか、近くの柱の陰でごそごそと何かが動いた。
やがて、いたずらっぽい笑顔を浮かべながら姿を現した夏凛に、李旺はわざと険しい表情を向ける。
「私を誰だとお思いですか。もし姫さまの身に何かあったなら、気づかなかったでは済まされません」
「私だってもう子供じゃないんだから、何も危ないことなんてないわ」
「そもそも、なぜここに姫さまがおられるのです? まさか、またお一人でこられたのですか? 薛は一緒では……」
「そんなに一度に訊かれても答えられないわ。だいたい、この王宮は私の家みたいなものなんだから、どこに行こうと文句を言われる筋合いはないわよ。そうでしょ?」
夏凛はこれ見よがしに頬をふくらませ、ぷいと顔を横に向ける。
むろん本気で腹を立てている訳ではない。すべては目の前の青年を困らせるための演技なのだ。
「……あのね、李旺。私、ひとつ訊きたいことがあるの」
さきほどまでとは打って変わって、夏凛はいたって真面目な声で言った。
「李旺は、こうして私たちのそばにいるより、朱英たちと一緒に戦いたいと思っているの?」
「姫さま。申し訳ありませんが、いったい何のお話をなさっているのか……」
「はぐらかさないで」
心の奥底まで射抜くような夏凛の視線に、李旺はわずかにたじろいだ。
やがて呼吸を整えると、真剣な面持ちで夏凛に向き合う。
「……薛が余計なことを申し上げたのですね」
「あの子は関係ないわ。いいから私の質問に答えなさい、李旺」
「私は、国王陛下から拝受した
「本当にそう思ってる?」
「私の偽らざる本心を申し上げております。私の言葉をお信じになるかどうかは、姫さま次第ですが……」
しばらく李旺を見つめていた夏凛だったが、ふいに視線を外すと、それきり俯いてしまった。
二人のあいだを重い沈黙が埋めていく。
やがて、姫君の唇は、ぽつりぽつりと言葉を紡ぎはじめた。
「私は、李旺にいつも近くにいてほしい。毎日あなたの顔が見たい。危険な場所には行ってほしくない。怪我や寒い思いもしてほしくない」
「姫さま――」
「だけど、それで李旺につらい思いをさせてしまうなら話は別よ。朱英将軍と一緒に戦わせてくれるように、私からお父様にお願いしてもいい。だから、本当の気持ちを聞かせてちょうだい」
李旺は一瞬の逡巡のあと、意を決したように口を開いた。
「……たしかに、そのように考えていた時期もありました。それは否定いたしません」
「じゃあ、やっぱり……」
「話し終わらないうちから早合点なさってはいけませんよ。以前そうだったからといって、いまも同じように考えているとはかぎりません」
そこまで言って、李旺は照れくさそうに笑った。
まだ十八歳の青年らしい、それは弾けるような清々しい笑顔であった。
「私は、こうして王族の方々にお仕え出来ることを光栄に思っています。戦場で敵と戦うのも、国王陛下や姫さまの身辺をお守りするのも、私たち軍人にとっては同じくらい大切な役目ですから」
「本当にそれでいいの? これからもずっと私たちのそばにいてくれる?」
「もちろんです。李旺は姫さまを置いてどこにも行きません」
李旺は夏凛のまえに進み出ると、うやうやしく跪く。
「だから、どうか、これからも姫さまのおそばに置いてください。あなたの剣となり、盾となって、この生命あるかぎり御身をお守りいたします」
「そんなふうに言われて、私が嫌だと言うと思うの? 頼まれなくたって、李旺にはよぼよぼのお爺ちゃんになるまで働いてもらうつもりよ。隠居したいと言っても許さないから、覚悟しておきなさい」
「もったいなきお言葉、恐悦に存じます――」
まだ会話の終わらぬうちに、夏凛はすばやく身体を翻していた。
無意識のうちに数歩も後じさったのは、早鐘のような鼓動を聴かれてしまうのではないかと危惧したためであった。
「そうと決まれば、姫さま。さっそく……」
「な、なに!?」
「ご自分のお役目に戻っていただきます。午後の習い事は琴と書でしたね。姫さまの姿が見えないとなれば、いまごろ女官たちは大騒ぎになっているでしょう」
「なによう、さっきはおそばに置いてくださいって言ったくせに。まるで厄介払いしてるみたい」
「そのように仰られても、私もそろそろ自分の仕事に戻らねばなりませんので。……ですが、ご安心ください。王宮のなかにいるかぎり、私はいつでも駆けつけます」
李旺は苦笑いを浮かべながら言うと、
「お手を失礼いたします」
返答を待たずに、夏凛の手を取って歩き出していた。
「ねえ、李旺。薛を叱らないであげて。あの子が話したがらなかったのを、私が無理やりに訊き出したようなものだから……」
「分かっています。すこし驚いただけで、べつに怒っている訳ではありません」
「それならよかったわ」
人間は、喜びのなかにあるときほど、正反対のことに思いを向けるものなのだろうか。
そのとき夏凛の胸に兆したのは、氷みたいに冷たい予感だった。
いまは確かな温もりを感じるこの手が、やがて遠く離れていってしまうような、言いようのない不安と焦燥感。
夏凛はちいさく頭を振り、脳裏によぎった好ましからざる想念を振り払おうとする。
たったいま、李旺自身が約束したではないか――。
この男が約束を破るはずはない。
いくら自分自身に言い聞かせても、ひとたび芽生えた黒く不吉な予感は、いつまでも少女の胸を立ち去ろうとはしなかった。
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