第12話 暗雲(二)

 秋が深まるにつれて、陽は目に見えて短くなった。

 王都・成陽に夕闇の帳が降りてから、すでに一刻あまり――。

 刻一刻と暗さを増していく空に逆らうように、街の灯りは煌々と輝き、主要な通りは昼にも増して大勢の人でごった返している。

 よくよく目を凝らせば、通りを行き交う人々の装いや雰囲気が昼間とは趣を異にしていることに気づくのはたやすい。

 大通りから分岐した細い路地に目を向ければ、その変化はいっそう顕著だった。

 ある程度の大きさの城市まちともなれば、決まって昼と夜とで二つの顔を持っているものだ。

 さしずめ成陽はその最も極端な、そして最大の成功を収めた例と言うべきだろう。


 太陽が西の方に沈んだのを合図として、昼のあいだは息を潜めていたもうひとつの世界とその住人たちが一斉に動き出す。

 裏通りに軒を連ねる娼家をはじめ、その周辺に存在するいかがわしい酒場や茶屋、そして賭場……。

 夜が更けていくほど、街の裏側はますます賑わっていく。老いも若きも、男も女も、寸暇を惜しむようにひたすらに快楽を貪りあう。

 陽光を避けるように生きる彼らも、やはり街の一部であることには変わりない。夜のあいだも人々が行き交い、それに伴って金や物品がたえまなく還流し続けるからこそ、王都は繁栄を享受することが出来る。


 かつて王都再建のために厳格すぎるほどの取り締まりを行った朱鉄も、夜の街にはほとんど手を付けなかった。

 むろん、ただ拱手傍観していた訳ではない。

 それどころか、朱鉄はみずから区画整備を命じ、国王のお膝元に巨大なが出現するように仕向けさえしたのだった。

 ややもすると潔癖すぎる印象を与えるこの男は、王都の繁栄にはある程度の猥雑さが不可欠であることを理解していたのである。

 人間の社会において善こそが有益であり、悪は無益どころか有害であるとは、あくまで道徳論における常識にすぎない。

 べつな言い方をすれば、しょせん机上の空論ということだ。

 七国において、すくなくとも建前の上では聖天子の御世みよから尊ばれてきたこの種の空虚な道徳論は、朱鉄にとって最も唾棄すべきものだった。

 為政者によって厳正に掌握されているかぎり、人の悪しき性分はしばしば社会に有益なものとして働く。全体の良好な風紀を維持するためには、あえて一部に目を背けたくなるほどの悪徳をはびこらせる必要があるのだ。

 もし彼が都市の隅々にまで完璧な清潔を求めていたなら、悪事は地下深くに潜り、王都に暮らす人々の欲望は制御できないほどに膨れ上がってしまったにちがいない。

 すべては良識の羈絆きはんに囚われない徹底した現実主義者リアリストだからこそ出来た芸当であった。

 かくして、は、今日も今日とて形ばかりの堕落と享楽を謳歌している。


***


 裏通りに面した酒場の片隅では、数人の男たちがちいさなテーブルを囲んでいた。

 卓の上には飲みさしの酒瓶しゅへいと、酒肴を載せた土器かわらけの皿が乱雑に散らばっている。


「なあ、おい、知ってるか。朱英将軍が帰ってくるんだとよ――」


 塩漬け肉を手づかみに口に運びながら、一人の男がぼそりと呟く。

 隣りに座っていた男はぐいと盃を飲み干すと、酒臭い息を吐きながら答えた。


「もちろん知ってるともよ。しかも、今度の戦でも大勝ちしたって話じゃねえか」

「ついこのあいだ出陣したばかりだってのに、こんなに早く戻ってくるとは驚いたぜ。華昌国かしょうこくの薄汚い盗人どもめ、将軍に恐れをなして尻尾巻いて逃げ帰りやがったな」

「まったく情けねえ連中だ。あいつら、ちゃんと股ぐらにはついてるのかねえ」


 一人の男がいかにも心配そうに言うと、周囲でげらげらと下卑た笑いが起こった。

 ふいに背後から声をかけられたのは次の瞬間だった。


「……なあ、あんたたち」 


 雑談と酒に興じていた男たちの視線が一点に集中する。

 いつのまにか、背後の卓に一人の青年が腰を下ろしていた。

 ただでさえ酒場の店内は薄暗いところに、大振りな異国風の帽子をかぶっているため、顔はよく見えない。

 だが、幅広のつばに顔の上半分を覆い隠されていても、透き通った白皙の肌と、彫りの深い面立ちは人目を引かずにおかない。男たちの黄色味きいろみがかった肌の色や、起伏に乏しい目鼻立ちと見較べてみれば、その違いは一目瞭然だった。

 すらりと伸びたしなやかな四肢といい、中原では珍しい容貌の美青年であった。


「朱英将軍の話、聞きたくないか?」

「なんだ、おめえ……」

「おれはあちこち旅をしている身でね。成陽ここにくる途中、朱英将軍の軍が戦ってるところを見たんだ」

「本当かよ?」

「あんたたちに嘘を言って、おれがなにか得をすると思うかい」


 青年は帽子のつばに指を当て、軽く上下に揺らしてみせる。


「ただし、ひとつ条件がある……」

「もったいぶるんじゃねえよ。いったい何が欲しい?」

にしとこう」


 言って、青年はひょいと男たちの卓に手を伸ばし、酒瓶のひとつを掴み取っていた。


「まずは喉しめしに一本……」

「旅人の兄ちゃんよ、飲んだからには分かってるだろうな」

「まあまあ、そう焦りなさんなよ」


 まだ容器に半分以上は残っていた酒を、青年はこともなげに飲み干してみせる。

 優男然とした見た目に似合わぬ堂々たる飲みっぷりに、おもわず感嘆の声を漏らした男たちにむかって、


「おれが朱英将軍の軍を見かけたのは、国境の雫河れいがのすぐ近く。ススキが生い茂るだだっぴろい野原だった――」


 青年は大仰な身振り手振りを交えながら、台本をそらんじるように語り始める。


「……成夏国軍と対峙するは、華昌国一の猛将、彭旻ほうびん。あんたらも名前くらいは聞いたことがあるだろう? 図体は山のように大きいうえに、素手で暴れ牛を捕まえる怪力の持ち主だ。そいつが三万の兵士を従えていまや遅しと待ち構えている真っ只中に、なんと朱英将軍は、勇敢にも槍を片手に単騎突っ込んでいった!! ……」


 青年はそこで言葉を切ると、にやりと不敵に微笑んでみせる。


「そ、それで、どうなったんだ!?」

「ここから先を聞きたけりゃ、酒がもう一本いる。今度は飲みかけじゃないのを頼むぜ」

「ちっ、仕方ねえ――」


 男の一人は舌打ちをすると、店主にむかって酒を持ってくるように叫ぶ。

 ややあって、運ばれてきた酒をやはり一息に飲み干したあと、青年は滔々と武勇譚の続きを語りはじめたのだった。


***


「……とまあ、こんな具合に朱英将軍は華昌国軍をさんざんに打ち破ったという訳でした。めでたし、めでたし――」


 ひととおり語り終えた青年は、わざとらしく手を打ち合わせる。


「なんて、もう誰も聞いちゃいねえか」


 男たちはすっかり酔いつぶれ、派手ないびきを響かせている。

 青年が話の区切りごとに酒を求め、男たちにもしきりに勧めたためだ。朱英将軍の胸のすくような活躍にすっかり気をよくした男たちは、羽目を外して飲みまくったのだった。

 青年も彼らと同量の酒を飲み干しているはずだが、その白面にはわずかな赤みも差していない。


「……あんな話、九割がたウソに決まってんだろうがよ。お気楽な連中だぜ」


 青年は、たしかに国境付近で行われた戦闘の様子をその目で見た。

 成夏国軍を率いていたのは朱英であり、華昌国側の総大将が彭旻ほうびんであったのも事実である。

 だが、その実態は、武将同士が華々しく雌雄を決する講談や戦絵巻の合戦とはほど遠いものだった。

 朱英率いる軍勢が戦場に姿を見せるや、華昌国軍は潮が引いていくように後退していった。ついにほとんど戦いらしい戦いも起こらぬまま、戦闘はなし崩しに幕を閉じたのだった。

 味方の兵をほとんど損なうことなく、敵を撤退に追いやる――。

 それは、兵法家であれば誰もが一度は夢見る理想的な勝利にほかならなかった。

 あまりに一方的な展開に、遠目に見物していた青年も呆然と立ち尽くしたほどだった。


「でもな、が出来るのは、本当に強い大将だけだ」


 馬上で勇敢に槍を振るい、派手やかな一騎打ちのすえに敵将を討ち取る……。

 世の人が思い浮かべる名将の姿は、実際のところ一軍の将帥としては下の下もいいところだ。

 どれほど武勇に優れていようと、それだけでは、たんに腕っぷしが強いだけの匹夫ひっぷにすぎない。

 そのような人物は百人の兵を率いる隊長は務まっても、とても千人、万人の大軍を率いる器量ではないのだ。

 戦わずして敵を退かせる。それこそが兵法の極意であり、真の名将の戦いにほかならない。


「たしかに朱英は強い。……くらいにな」


 青年はわずかに残っていた酒を流し込むと、男たちに気取られぬようそっと席を立つ。

 とっさに駆け寄ってきた店主に、自分が朝から飲み食いした分の勘定もすべて男たちが払うことになっている旨を伝えると、青年はさっさと酒場を後にしていた。


「居心地は悪くないが、あんまり長居もしてらんねえようだ。おれの勘は当たるからよ」


 すでに夜更けだというのに、王都の歓楽街は眠りを忘れたかのような喧騒の只中にある。

 青年は逡巡する素振りもなく、裏通りの雑踏に紛れるように一歩を踏み出していた。

 木を隠すなら森の中とはよく言ったものだ。もし目を覚ました男たちが鬼の形相で追いかけてきたとしても、人波を前に途方に暮れるばかりだろう。


成夏国このくに、そろそろヤバいかもなあ――」


 ぽつりと言って、青年は帽子のつばを軽くはね上げる。

 その拍子に隠れていた淡い蜂蜜色の髪がこぼれ、ふいに吹き抜けていった夜風に踊った。

 ほんの一瞬、長い前髪のあいだから覗いた双眸の色は、夜空よりもなお深い藍青色ラピスラズリを湛えていた。

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