第11話 暗雲(一)
北辺の夜空はどこまでも高く、澄み渡っていた。
遮るものとてない天空には無数の星々がまたたき、さやけき光を放っている。
部下とともに天幕を出た
――
血の繋がらない兄である
一方の朱英はといえば、星にはまるで興味がなく、せいぜい天極に輝くいくつかの星々を把握しているにすぎない。
それも星を眺めて楽しむためではなく、純粋な必要に迫られてのことである。
四季を通して遊動することなく、つねに決まった方角を示すそれらの星は、夜戦において自軍の位置を把握するための重要な目印となる。
この男にとっては戦いにまつわることが人生のすべてであり、軍人であることがおのれの存在意義だった。
朱英。
年齢は、今年で二十八歳になる。
十五歳で初陣に臨んでから、わずかに十三年――。
名門とはおよそ無縁の庶民に生まれ、最初は一介の歩兵にすぎなかった少年は、いまや万の兵を預かる将帥の地位にある。
成夏国の歴史でも類を見ない出世ぶりは、朱英がこれまでに立ててきた武功がいかに常人離れしたものであったかを雄弁に物語っている。
華昌国との度重なる戦ではつねに最前線に立ち、ときに手傷を負いながら、彼と彼の指揮する部隊が持ち帰った首級は数知れない。
その勇名は、大将軍・
そんな彼が宰相である朱鉄の妹と婚礼を挙げ、朱姓を名乗るようになったのは、つい先年のこと。
もともと身分の低い家柄に生まれた朱英は、栄達を妬む者からの嫌がらせを受けることも少なくはなかった。
朱英の改名は、国王の腹心として権勢さかんな朱鉄の同族であることを示せば、そうした卑劣な行為も熄むだろうという朱鉄の心遣いであった。
はたして、それからの朱英は、官界の
政治と軍事。
それぞれ異なる世界に身を置きながら、いずれ劣らぬ輝きを放つ朱兄弟は、いつしか”成夏国の
成夏国が一時の衰退からよみがえり、ふたたび中原の大国として隆盛期を迎えるに至ったのは、この類まれな才覚をもつ兄弟がいたからこそ――そんな世間の評判は、あながち贔屓目に過ぎるとも言いきれない。
むしろそれは、人々が彼ら兄弟に託した希望だったと言うべきだろう。
”二珠”という両輪があるかぎり、成夏国は今後も末永く安泰であるはずだった。
ともすれば身勝手な世人の願望にも、朱英はたじろぐことなく、軍人としての務めを懸命に果たしてきた。
自分も義兄も、国王と成夏国への忠誠はけっして揺らぐことはない……。
”二珠”の盤石という幻想を誰よりも信じていたのは、あるいは朱英自身だったのかもしれない。
***
煌々と燃えさかる松明の火が、朱英の剽悍な横顔を闇に浮き上がらせた。
十月も終わろうとしている。暦の上ではまだ秋だが、風にはすでに冬の冷たさがある。
天幕が整然と並ぶ一角を離れた朱英と部下たちは、しばらく進んだあと、急峻な崖の上で足を止めた。
成夏国軍の本陣は、
こうして小高い丘の外れに立てば、雫河の対岸の景色を手に取るように見渡すことが出来る。
いま、朱英の視線の先に横たわるのは、国境の河川を隔てて築かれたもうひとつの陣地であった。
遠目にはちょっとした港町のようにもみえるそれは、華昌国軍の本陣にほかならない。
成夏国に侵攻した華昌国軍は各地で敗走を重ね、ついに自国内への撤退を余儀なくされたのだった。
華昌国軍の主力はすでに渡河を終えている。あえて不利な状況での決戦を避け、次の作戦のために兵力を温存したのだ。あたら兵を失うまえに撤退を決断したのは、敵ながら英断というべきであった。
もっとも、各地で掃討を行いつつ軍を進めてきた成夏国軍としては、敵の本隊を叩く前にまんまと逃げ切られてしまった格好ではある。
固く唇を結んだ朱英は、凝然と夜闇に浮かんだ敵陣を見つめている。
渡河を許してしまったとはいえ、華昌国軍の戦力の大半は、いまだ国境付近に留まっているはずであった。
斥候がもたらした報告によれば、華昌国が送り込んできた兵力はざっと五万あまり。兵站や陣地構築といった雑務を担う支援部隊を含めれば、その総数は十万ちかくにまで膨らむだろう。
それだけの大軍がことごとく陣を払って逃げ帰るとなれば、当然相応の時間を必要とするのだ。
そして――ひとたび戦いに背を向けた軍は弱い。
前進の最中には死を厭わない屈強な精兵も、生きることに意識が向いたとたん、まるで魔法が解けたみたいに弱体化する。まして無事に母国の土を踏んだとなれば、華昌国の将卒の精神はすっかり弛緩しきっているはずであった。
朱英は自身も長く戦場で戦ってきた武人として、そうした兵たちの心の機微には誰よりも敏感だった。
いますぐ追撃に移れば、渡河を終えて安堵している敵はたやすく撃砕できるだろう。
もしそれが許されることであれば、朱英はみずから軍団を指揮し、対岸の敵陣に攻撃を仕掛けている。夜陰に乗じてこちらも渡河し、敵の後方に回り込めば、撤退の途上にある華昌国軍に大打撃を与えることが出来るはずだった。
朱英の脳裏に縦横無尽に描き出される完璧な戦の絵図は、しかし、けっして現実のものにはならない。
出陣にあたって、国王である夏賛からは、例のごとく国境線を越えての追撃を固く禁じられているためだ。
なぜ――と問うたことはない。国王の決定に疑問を差し挟むことは将軍としての分を弁えないというだけでなく、尋ねたところで納得の行く答えが得られるとも思えなかったからだ。
国王が外征を禁じるようになったのは、広大だった成夏国の領土が縮小し、国境線が現在の形に落ち着いた十数年前からだ。
どれほど国境の戦で大勝しても、敵の本国に攻め入ることはけっして許されない。
敵の戦力の根源を断たないかぎり、勝利はあくまで局地的なものに留まる。やがて敗北から立ち直った敵がふたたび軍を送り込めば、戦いは際限なく繰り返されるのだ。
初陣から現在まで、朱英がひたすらに戦ってきたのは、そんな堂々巡りの戦場だった。
おそらく今回もそうなるはずであった。
王都を出立する際、朱鉄は国王から追討の許可が得られるよう最大限の努力をすると約束してくれたが、同時にその目は「期待するな」と言っているようでもあった。
――そして、もし追討が許されなければ、そのときは……。
それがもうひとつの意味を持つことも、朱英は出陣に先立って義兄と取り決めている。
朱鉄の屋敷ではじめて計画を打ち明けられたときの衝撃は、いまでも忘れがたく朱英の胸裏にわだかまっている。
けっして他人に口外することは許されない秘密。それを知るのは、しかし、朱氏の義兄弟だけではない。
あの夜――。
義兄の口から共犯者たちの名を知らされたとき、朱英はほとんど放心状態に陥った。同時にその目から澎湃と溢れ出た涙は、もはや自分の力では止めようもない歴史のうねりに巻き込まれてしまったことを悟ったがゆえであった。
***
「ここにいたか、
背後から自分の字を呼ばわった野太い声に、朱英はとっさに背後を振り返る。
目交に飛び込んできたのは、数名の兵士を引き連れた白髪の偉丈夫だった。
年の頃は七十歳に近いだろう。
それでも、重厚な古式の鎧をまとった固太りの長身は
鎧の胸当てにだらんとふたすじばかり垂れているものは、おそろしく長い左右の頬髭であった。
「触れることあたわぬものほど恋い焦がれる。それはなにも女人に限らぬものよなあ?」
言いつつ、老将軍は朱英にむかって一歩ずつ歩を進める。
「だからといって、こうしていつまでも未練がましく眺めておったところで風邪を引くだけであろうよ」
「柳機大将軍こそ、このような寒空の下においでになられては、お体に障るのではありませんか」
「ほう、青二才の分際でこの儂を年寄り扱いするつもりか?」
柳機は見かけに違わず豪放な笑声を上げると、
「そんなことより、おまえの
鎧の内懐から取り出した書状をひらひらと振ってみせる。
それに合わせて二人に付き従っていた兵士たちが一斉に退いたのは、柳機がそれとなく目配せをしたためだ。
人払いが済んだのを確かめて、柳機はさらに言葉を続ける。
「華昌国軍の撤退を見届け次第、ただちに陣を畳んで成陽に帰還せよとのことだ。王宮では戦勝を祝う宴を開くそうな」
「では、大将軍……」
「おう。追討の許しはとうとう下りなかったということだな。それにしても、まだ敵兵が国境にたむろしておるうちから祝賀の宴会とは、なんともお気楽なことよ」
その瞬間、朱英の面上をよぎった戸惑いと逡巡を、柳機は見逃さなかった。
右の頬髭をぴんと引っ張ると、朱英にむかって試すような微笑を浮かべる。
「亮善よ、いまさらなにを躊躇うことがある? こうなることは最初から分かっていたではないか。――我らにとっては、いよいよ来るべき
「承知しております。しかし、それでも……」
「
飄然と語っていた柳機の声音に、ふいに悲愴な響きが混じった。
たしかに戦は成夏国の勝利に終わった。それでも、他国の侵略を受けた事実が消える訳ではない。
華昌国軍が各地に残していったなまなましい爪痕は、ここまでの行軍の途上、朱英も実際に目の当たりにしている。
秋の収穫期を迎えつつあった田畑は容赦なく焼き払われ、農民たちの半年間の労苦もろともに灰燼に帰した。略奪を受けた村々は見る影もないほどに荒れ果て、敵が国境まで退いたからといって、とても元通りの生活が営めるような状況ではない。
最低限の家財道具だけを携え、着の身着のままでいずこかへと落ち延びていく農民の列は、黄泉へと向かう死者の列を想起させた。
なにも今回に限ったことではない。すべては華昌国との戦のたびに繰り返されてきた光景だった。
「あの王の下では、我らの働きが報われることは決してない。いくらその場しのぎの勝利を重ねたところでむなしいばかりよ。この国を変えられるのは、おまえの義兄――朱鉄宰相だけであろう」
先ほどとは別人みたいに切々と語る柳機に、朱英はただ肯んずることしか出来ない。
柳機はともすれば朱英以上に朱鉄に心酔している。国軍を統率する大将軍が、政治を掌握する宰相とひそかに気脈を通じ、王都を遠く離れた陣営で謀略を巡らせているとは、国王は知る由もないはずであった。
「すでに
「本当によろしいのですか? 本来なら、大将軍であるあなたこそ――」
「おのれの上役を顎で使おうとは、まったく不届きな奴め。だいいち、この老骨にはいささか荷が勝ちすぎるわ」
柳機は竜のごとき頬髭を撫でつけながら、深いしわが刻まれた顔をくしゃくしゃに歪めて大笑する。
「行け、亮善。行って、おまえの
言って、柳機は朱英の肩を叩く。
「ただし、夏賛にはゆめゆめ気をつけい。あれはいまでこそ腑抜けておるが、かつてはこの儂に七国制覇の夢を抱かせたほどの男だ。気を抜けば、おまえたちのほうが殺されるぞ」
「ご忠告、かたじけなく存じます――大将軍」
「なんのなんの。ここでおまえたち兄弟に死なれては、儂も面白うない。あとはただ枯れ行くばかりのこの身ならば、最後にもう一花咲かせたいものよ」
柳機は夜空を仰ぎ、深く息を吸い込む。
やがて、たっぷりと吐き出された息は、白髪とおなじく白かった。
はるかな星々を見据えたまま、老将の唇は、誰にともなく朗々たる言葉を紡ぎ出す。
「我が身命と忠誠を捧げし国王よ――いざ我ら、これより謀反奉りまするぞ」
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