第10話 波乱胎動(六)

「さっきから姿が見えないと思ったら、案の定ね――陳大夫たいふ


 夏凛は一歩ずつ踏みしめるような足取りで、李旺と陳索がいる四阿あずまやへと近づいていく。

 予想だにしていなかった夏凛の登場にすっかり面食らった様子の陳索だが、それも一瞬のことだ。

 すぐに貴公子の落ち着いた面容を取り戻すと、優雅な挙措で拱手の礼を取る。


「これはこれは、姫さま……なぜこのような場所に?」

「あなたたちがいつまでも戻ってこないから、どうせこんなことじゃないかと思って探しに来たのよ。あなたの家来も、さすがに厠室まではついてこなかったわ」


 夏凛は厠室に入ると見せかけて、監視が緩んだ一瞬を突いて本邸の外に出たのだった。

 薛はいまもの前に立っている。陳家の使用人たちは、当然夏凛もまだ中にいると思っているはずであった。


「そんなことより、陳大夫。さっきの話の続きを聞かせてちょうだい。それとも、私がいるところでは話せないのかしら?」

「……いつからお聞きになっていたのですか」

「そうね――夫婦めおとがどうこう言って、一人で盛り上がっていたあたりかしら」


 夏凛はあくまで冷ややかに言うと、横目で陳索と李旺をそれぞれ一瞥する。

 姫君の黒く澄んだ双眸に映った二人の青年の表情は、みごとなまでに対照的だった。

 陳索の顔からはすっかり余裕が消え失せ、一方の李旺にはふたたび希望が蘇りつつある。


「陳大夫、あらためて言っておくけど、私はあなたと結婚するつもりはないわ」

「なぜです? 姫さま、いったいこの私の何が不満だと言うのです!?」

「説明してあげないと分からないの?」

「もちろんです。我が陳家はこの国でも一、二を争う名家。そして、この私の世に並ぶ者なき才覚は、先ほどご自身の目でお確かめになったはず。この陳索よりも貴女にふさわしい男など、天下のどこを探してもおりますまい」


 陳索は自信たっぷりに言い切ると、李旺に憎々しげな視線を向けた。

 剣柄けんぺいに触れていた手はとうに引っ込めている。夏凛が見ている前でうかつな真似をすれば、かえって立場を悪くするのは陳索の方なのだ。


「本来であれば較べることも汚らわしいかぎりですが――この男と私とでは、人間としての格が違うのです」

「……」

「こやつを呼び出したのも、下賤の身でありながら、貴女に分不相応な想いを抱いていることを看破したがゆえ。私は姫さまの御身を誰よりも案じて……」

「だまりなさい、陳索!!」


 少女の唇から出たとは思えないほど烈しい叱責に、陳索はおもわず数歩後じさる。

 夏凛は双眸に怒りの色を漲らせたまま、じりじりと距離を詰めていく。


「ねえ、陳索、ひとつだけ訊くわ。あなたは私の手足を醜いと思う?」

「め、滅相もございません!! 姫さまのお手は陶器よりもなお白くすべらかで、おみ足は鶴のごとく繊細でたおやか……」

「白々しいわね」

「私は本心から申し上げているのです!!」


 夏凛は陳索の前で立ち止まると、おおきなため息をついてみせる。

 落胆と失望。そして、抑えがたいほどの怒りが溶け込んだ、それは長い長い嘆息であった。


「まえにお父様が仰っていたわ。私たちにとって家臣は手足も同じだって。王族は自力では歩くことも、ものを食べることも出来ないと……」

「姫さま、いったいなんの話を……」

「李旺は私たちの手足も同じ。それを侮辱するのは、お父様や私を侮辱したのと同じことよ。目に見えている手足のことはべらべらと薄っぺらな言葉を並べて褒めそやせても、本当に私を支えてくれる手足のことはまるで見えていなかったようね」


 返す言葉もない陳索は、黙って夏凛の言葉に耳を傾けることしか出来ない。

 それだけに、次に夏凛の口から出た言葉は、陳索を欣喜雀躍させた。


「陳大夫、たしかにあなたの才能は素晴らしいわ」

「そうでしょう!! さすがは姫さま、やはり私という稀有なる天才を理解して……」

「でも、人間としては最低で最悪――あなたみたいな男と結婚なんて、死んでもお断り」


 姫君に認められた喜びに舞い上がったのもつかのま、一転して奈落に叩き落とされた衝撃は如何ばかりであっただろう。その衝撃に、陳索はほとんど気死しかかっている。

 おおきく見開かれた両目はうつろに視線を泳がせ、なまめかしい朱唇は呆けたように半開きになっている。

 高貴な血筋と才能に加え、秀麗な容姿を持って生まれた陳索は、これまで一度として女性に拒まれたことはない。婚礼を控えた生娘だろうと、貞淑な貴婦人だろうと、ひとたび彼に誘われれば、二つ返事でしとねを共にしたのである。みな喜びこそすれ、拒絶や嫌悪の情を向けられたことはなかった。

 王の愛娘とはいえ、夏凛もいままでの女たちと同様だと高をくくっていた。

 それどころか、まだ子供のような十二歳の小娘となれば、百戦錬磨の陳索にとってこれほどちょろい相手もいない――そのはずだった。


 さらに今回に限っては、とびきりのも用意してあるのだ。

 この婚姻を確実なものとし、夏凛にとって最初で最後の縁談にするための切り札が。

 そのために邪魔な李旺を排除するつもりが、事態は予想外の方向に転がりつつある。

 なんとかこの場を上手く取り繕い、ひとまず夏凛を李旺から引き離さなければ、すべては台無しになる……。


 頭を殴りつけられたような衝撃にふらつきながら、陳索はようよう夏凛を見やる。

 これまで見てきたどんな女よりも美しい、どこまでも澄み切った黒い瞳。

 その奥底に息づくのは、陳索への拭いがたい敵意と嫌悪であり、けっして揺らぐことのない拒絶であった。


「姫さまああぁぁぁ……」


 次の瞬間、陳索が漏らしたのは、自分でも驚くほど情けない声だった。

 地面にひれ伏した陳索は、スカートの裾にすがりつかんばかりの勢いで懇願する。


「どうか、どうか私めをお見捨てにならないでください。貴女さまはこの私の生命です。貴女に嫌われたら、私はもう生きてはいけません!!」

「あなたくらい顔がよければ、相手なんてほかにいくらでもいるでしょう」

「仰せのとおりです。しかし、貴女さまの可憐なお美しさに較べれば、あんな奴らはゴミです。ええ、取るに足らないクズですとも。他の女どもが何人束になろうと、夏凛さま一人の価値には及びません!!」

「私も他の女の前でゴミだのクズだの言われないという保証はあるのかしらね」


 夏凛の冷たく突き放すような声音には、心底からの軽蔑が満ち満ちている。

 まるで汚いものを見てしまったとでも言うように、ついと陳索から視線をそらす。

 そして、二人のやり取りを心配そうに見守っていた李旺にむかって、春の花が綻んだような笑顔を浮かべたのだった。


「さあ李旺、行きましょう。と、そのまえにまずは薛を迎えに行かなくちゃ」


 夏凛はその場でくるりと踵を返す。


「あれ……」


 一歩を踏み出そうとしたところで、夏凛はおおきく体勢を崩し、そのまま前のめりに倒れた。

 その様子は、ふいに糸が切れた操り人形を彷彿させた。尋常の動きではないことはあきらかだった。


「姫さまッ!!」


 李旺は夏凛を抱きとめると、鼻と口に指を当て、すばやく呼吸を確かめる。

 息はある。どうやら眠ってしまっているだけらしい。

 問題はその原因だ。

 あれこれと考えを巡らせるまでもなく、思い当たる節は一つしかない。

 先刻の饗応――あのとき提供された料理、あるいは料理を盛り付けた食器に、遅効性の薬が仕込まれていたとしたら……。

 もちろん、料理については夏凛の口に入るまえに李旺と薛がそれとなく毒見をしていたつもりだった。それでも、箸や皿に塗布されてはどうにもならない。

 陳索は恐れおののきながら、尻もちをついたままずりずりと後じさっている。


「陳大夫……」

「わ、私じゃない!! 私は何もしていない!!」


 陳索は李旺にむかってぶんぶんと首を横に振る。

 哀れなほどの取り乱しようは、たんに疑われることを恐れたためではない。

 李旺の目に宿った凄絶な鬼気に圧倒され、貴公子の心胆は瞬時に凍りついたのだった。


「お父上の陳胤ちんいん殿も、なんの前触れもなく病に倒れられたそうですね」

「それがどうした!? まさか、私が毒を盛ったとでも言いたいのか!?」

薬師くすしのなかには、よこしまな目的のために薬を調合する者もいると聞いたことがある。千金を積まれれば、どんなことでもする輩が――」

「そんな証拠がどこにある!? 勝手な憶測でものを言うと、ただではおかないぞ!!」

「証拠などどこにもありません」


 李旺は剣柄に手をかける。


「今日のところは、これにて失礼させていただく。ただし……」

「ただし……なんだ?」

「もし今後、国王陛下の許しなく姫さまに近づいたときは――――」


 黄昏を裂いて銀閃が迸った。

 転瞬、陳索は首筋に冷たいものを感じた。

 皮膚と髪の毛一筋ほどの空隙を挟んで静止した剣刃の冷気であった。

 音もなく鞘走った長剣は、文字通り目にも留まらぬ疾さで殺到したのだった。


「この李旺が貴様を斬る。名門の当主だろうと、どれほどの財産と権力を持っていようと、関係はない。姫さまに危害を加える者は、誰であろうと斬り捨てる」


 壮絶な覚悟に満ちた李旺の言葉は、しかし、陳索の耳にはほとんど届かなかった。

 陳索は恐怖に顔をひきつらせたまま、仰向けに倒れ込んでいた。失神したのである。生まれて初めて突きつけられた刃の冷たさに、武とは無縁の人生を送ってきた天才の神経はどこまでも無力だった。


「姫さま、ご無礼をお許しください」


 うやうやしく言って、李旺は夏凛を抱き上げる。

 少女らしい華奢な身体。李旺が日ごろの鍛錬で持ち上げている砂袋や大石に較べれば、まさしく羽のように軽い。

 規則正しく上下する薄い胸を見下ろして、李旺はふっと安堵したような微笑みを浮かべる。


 陳索が何を考えていたかは、李旺にも薄々分かっている。

 あの男が遂げようとしていたは想像しただけで虫酸が走るが、だからこそ、夏凛に深刻な影響を及ぼす薬を用いたとは考えにくい。

 姫君はひとときの眠りに陥ったにすぎない。時間が経てば問題なく目覚めるはずであった。

 無様な姿を晒している陳索をその場に残したまま、李旺は薛が待つ本邸へと戻っていった。

 

***


 夏凛が目覚めたのは、馬車のなかだった。

 簾越しに夕闇の街がみえる。中原でも最大の大都会である成陽せいようは、日没後も相変わらずの活況を呈している。


「お目覚めですか、姫さま」


 ふいに投げかけられた爽やかな声に、寝ぼけまなこをこすりながら、夏凛はこっくりと頷く。


「おはよう――李旺。それに薛も」


 そして、きょろきょろと周囲を見渡したあと、不思議そうに首を傾げたのだった。


「ここ、どこ? 私たち、陳索のお屋敷にいたんじゃ……」

「お食事のあと、姫さまはお休みになられてしまったのですよ」

「そうだったっけ――」


 夏凛は腑に落ちないといった風だったが、それもつかのまのことだ。


「ねえ、私、さっきまで変な夢を見ていたの。とても怖い夢……」

「どんな夢だったのですか?」

「んん……よく思い出せないけど、最後に李旺が助けてくれたのは覚えてるわ」


 李旺と薛は一瞬顔を見合わせたあと、夏凛には悟られぬように互いに目配せをする。


「そんなことより私、帰ったらお父様に文句を言わなくちゃ。お見合いは仕方ないとしても、陳索だけは絶対にやめてくださいって。あいつの顔を思い出すだけで鳥肌が立ちそう――」

「それがようございましょう」


 めずらしく賛同の意を示した李旺に、夏凛はぱっと表情を輝かせる。

 李旺が自分の肩を持ってくれている。それだけで、今日一日の嫌な思いが吹き飛んでいくようだった。

 こみ上げるうれしさを隠しきれない様子の夏凛をみて、薛と李旺も表情を和らげる。

 三人を乗せた馬車は、王宮にむかって大通りを進んでいく。

 王女の長い一日は、ようやく終わろうとしていた。

 

***


「おのれ……あの小娘め!!」


 罵声を追いかけるように、陳索は手にした盃を自室の壁に投げつける。

 そして、目の前に置かれた大ぶりな酒器に直接唇をつけると、喉を鳴らして中身を飲み干したのだった。

 優雅な貴公子にはおよそ似つかわしくない荒々しい所業であった。

 時刻はすでに朝方にちかい。

 数刻前にようやく失神から目覚めてからというもの、陳索はずっとこの調子で荒れ続けている。


「それに、あの李旺とかいう近衛兵だ。なぜ私があんな連中に愚弄されねばならんのだ!! 七国一の天才であるこの私が――」


 婢女はしためにあたらしい酒器と盃を運ばせながら、陳索は壁のシミに向かってぶつぶつと独り言を呟く。


「夏凛――おまえの母親の蘭王妃は天下一の美女だった。あの方に瓜二つでなければ、この私が生意気な小娘などに懸想することもなかっただろうに」


 陳索の声がふいに低くなった。

 幼いころ、王宮で遠目に見た亡き王妃のこの世のものとも思われぬ美しい姿は、いまも脳裏に忘れがたく焼き付いている。触れることさえ叶わなかった彼女の前では、いままで抱いてきた女たちなど評価にすら値しない。

 あのとき、夏凛にむかって叫んだ言葉に嘘偽りはなかった。

 蘭王妃の面影を受け継いだ夏凛に較べれば、他の女には何の価値もないのだから。


「おまえは本当に馬鹿な娘だ。私の妻になることが、

 

 それきり押し黙った陳索は、虚脱したようにぼんやりと天井を見上げる。

 わずかな時間が流れた。

 ふいに唇の端に微笑が兆したかと思うと、堰を切ったようにあふれだした喜悦の色はたちまちに顔じゅうに広がっていった。


「始まるぞ、始まるぞ。これからこの成夏国に何が起こるかあいつらにも教えてやりたかったが、もう手遅れだ。せいぜいあの世で私の好意を無下にしたことを後悔するがいい。ふふふふ……あははははは!!」


 貴公子は虚空にむかって両腕を差し伸ばし、高らかに哄笑する。

 狂気すら感じさせる笑い声は、吹きすさぶ夜風にかき消され、誰の耳にも届くことはない。

 不穏な気配を孕んだまま、王都の夜は静かに更けていった。

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