第9話 波乱胎動(五)

 夕暮れの色が水面を染めていた。

 蕭々たる秋風が渡っていくたび、茜色のさざなみが広がり、すっと消え失せていく。

 李旺はそんな情景を見つめながら、ひとり物思いに耽っている。

 いま彼が身を置いているのは、島の片隅に設けられた四阿あずまやであった。

 夏凛と薛はまだ本邸のなかにいる。

 饗応が終わったあと、李旺だけがここに呼び出されたのである。

 陳索ちんさくの命令であることは言うまでもない。


――男同士、胸襟を開いて語らおうじゃないか。


 あくまで気さくな陳索の言葉の深奥には、拒絶を許さぬ冷たさがあった。

 近衛兵としての立場から言えば、護衛対象である夏凛のそばを離れるのは不本意ではある。

 だからといって、陳索の提案を言下に拒めば、いっそう事態を悪化させるのは火を見るよりあきらかだった。

 あのとき、夏凛の言葉が陳索の心中に不穏なものを喚起したであろうことは、李旺もそれとなく察しているのだ。

 その後の饗応はなごやかに終始したものの――そうであるからこそ、不安はいや増すばかりだった。

 ともかく、見合いの席を台無しにすることだけは避けなければならない。

 李旺が望んだことではなかったにせよ、陳索が自分に悪感情を抱いているなら、誤解を解くことに努めるのが最善策であるはずだった。

 高潔な名士であった陳胤ちんいんの血を引いているのなら、話の分からない男であるはずはない。

 それを考えれば、こうして二人きりで話し合う機会を提供してくれたのは、もっけの幸いと言うべきかもしれない。夏凛が同席していなければ、意図せず火に油を注がれるおそれもないのだから。

 と、背後でふいに人の気配が生じた。


「やあ、お待たせしてしまったね」


 たっぷりと毛を蓄えた白貂はくてん長衣コートに身を包んだ陳索は、四阿にむかってしずしずと歩を進める。


「陳大夫たいふ、先ほどは――」

「そのままでいい。楽にしたまえよ、李旺くん」


 陳索は李旺の傍らを通り過ぎると、テーブルを挟んで向かい合うように配置された長椅子ベンチに腰を下ろす。

 そして、わざとらしく前髪をかきあげたあと、李旺をまっすぐに見据えてふっと相好を崩した。


「君はずいぶん姫さまに気に入られているようだねえ」

「私は近衛兵です。私の役目は王族がたを警護することであり、それ以上でもそれ以下でもありません」

「謙遜はやめたまえ。姫さまが君を見る目は特別だよ。君だって気づいているんだろう?」


 陳索はなおも笑みを浮かべたまま、李旺に嬲るような視線を向けている。


「しかしだ、李旺くん――人の世界には秩序というものがある。主人と下僕、夫と妻、親と子……その秩序を蔑ろにすれば、人間は理性のない禽獣けだものと大差がなくなってしまう」


 貴公子の優婉な面貌はそのままに、陳索の目は次第に兇猛な色彩いろを帯び始めた。


「さっき自分で言ったように、君は近衛兵だ。国王陛下の御息女であらせられる夏凛さまとは、身分が違う……」

「承知しております」

「いくら姫さまに気に入られていようと、君とあの方は住む世界が違う。どんなに主人に可愛がられている犬も、けっして人間と同等ではないようにね」

「……」

「ねえ、李旺くん。これは私からの心をこめた忠告だよ。くれぐれも自分の立場を弁え、自重することだ。さもなくば、これから君や君の家族にどんな災厄が降りかかるかしれないよ」


 李旺は何も言わず、じっと陳索の言葉に耳を傾けている。

 予想していた通りと言えばそれまでだった。いちいち痛痒を感じることもない。

 なにしろ相手は名門・陳家の当主なのだ。貴人の自尊心プライドの高さは、李旺ももちろん知悉している。

 下々の者を蔑まない国王や夏凛は例外中の例外であり、上流階級においては陳索のような人間が大多数を占めていることも、また。


「分かったなら、なんとか言ったらどうだい?」


 勝ち誇ったような表情の陳索にむかって、李旺はうやうやしく頭を下げる。


「ご忠告痛み入ります、陳大夫」

「それでいい。あの年頃の娘は、身近な男であれば誰彼かまわず好いてしまうものだからねえ。言ってみれば子供が罹る流行り病のようなものだが、それでも油断すれば命取りになりかねない。なにしろ姫さまはこの成夏国で最も尊い血筋を引いておられるのだからね」


 いかにも気遣わしげに言って、陳索は李旺の肩に手を置く。

 当人は比喩のつもりらしいが、実際には露骨な脅迫というべきだろう。誰にとって命取りになるかは、あえて言うまでもない。


「さて……話はこれで終わりだ。用も済んだところで、君は本来の持ち場に戻るがいい。門までは家来に送らせよう」

「私だけ王宮に戻れということですか?」

「決まっているだろう。姫さまは私が責任を持ってお預かりする。これから夫婦めおとになる者同士、いろいろと話し合わねばならないこともあるからね」


 そう言って席を立とうとした陳索に、李旺は毅然たる眼差しを向ける。


「陳大夫、申し訳ありませんが、それは承服しかねます」

「ほう?」

「私の役目は姫さまをお守りすることです。姫さまがこの屋敷に残るというのなら、私もここを離れる訳には参りません」

「君もおかしなことを言う。それとも何かな、私があの御方に危害を加えるとでも?」

「我々近衛兵に命令出来るのは王族の方々だけです。姫さまからそのように命じられないかぎり、私は王宮に戻ることは出来ません。どうかご理解願います」


 李旺を見下ろす陳索の面上には、もはや一片の笑みもなかった。

 なまめかしい舌で朱い唇を舐めたあと、座したままの李旺にずいと顔を近づける。


「私は夏凛さまの将来の夫となる者だ。私の命令は、あの御方の命令も同じと心得たまえ」

「正式に婚礼の儀を済ませるまで、あなたは姫さまにとって何者でもありません」

「くどいな、李旺――」


 陳索は唇を歪め、酷薄な微笑を浮かべてみせる。


「やはり君は何も分かっていないようだ。優しく諭してやろうと思ったが、こうまで思い上がっているとは、まったく呆れ果てたよ」

「私は近衛兵としての職務を全うさせて頂きたいと申し上げているのです」

「それが思い上がりだと言っている。たかが近衛兵の分際で、この私に意見しようというのがなによりの証拠だ。……おい、君の父親は誰だ?」

都護校尉とごこうい李康りこうです」

「ふん……思ったとおり、大した家柄ではないな。代々宰相を務めてきた我が陳家に較べれば、君の血筋はしょせん塵芥ゴミだ」


 陳索は李旺の逞しい胸板を指で小突きながら、容赦ない嘲弄の言葉を浴びせる。


「何の才能も持たず、ただ剣を振り回すしか能のない下賤の輩め――私の前から早々に消え失せるがいい。それとも父親もろとも罪を着せ、牢獄に送ってやろうか。我が陳家の権力をもってすれば、君の一族を滅ぼす程度は造作もないのだからなあ」


 李旺は押し黙ったまま、陳索に悪罵されるに任せている。

 陳索の狙いは分かりきっている。あけすけな挑発によって李旺を激昂させ、反撃を誘っているのだ。

 いかなる理由があろうとも、身分の低い者が上位の者に歯向かえば、国法によって厳しく罰せられる。まして相手が王族に次ぐ名門の当主となれば、李旺には万に一つの勝ち目もない。

 いましがた陳索が言ったように、父や妹にも累が及ぶおそれもある。

 養子である李旺にとって、いままで自分を扶育してくれた李家の人々を巻き込むことだけは、なんとしても避けたかった。

 陳索もまた、李旺がけっして手出し出来ないことを承知の上で、思うさまなぶりものにしている。夏凛の言葉に自尊心を傷つけられ、憤懣やるかたない貴公子は、反撃出来ない獲物を前に嗜虐心をむき出しにしているのだった。

 どこまでも卑劣で悪質な嫌がらせは、李旺が屋敷を立ち去るまでけっして熄むことはないはずであった。


「どうした? なんとか言ってみたまえ。口は利けるんだろう?」

「陳大夫、何を言われても私の答えは変わりません」

「君もまったく強情な男だ。しかし、これでもまだ強がりを言っていられるのかな?」


 言うが早いか、陳索は李旺の腰に手を伸ばす。

 そのまま佩剣の剣柄けんぺいに手をかけると、刀身を半ばまで鞘から引き出した。

 あらわになった剣刃に夕陽が照り映える。残酷なまでに美しい赤紅あかくれないは、これから起こる凶事を予言しているようだった。


「いったい何をするつもりです」

「見てのとおりだよ。指先に傷をつけるだけなら、この刃に触れるだけで事足りるだろう。その上で李旺に斬りつけられたと叫べば、どうなるのかなあ?」

「――!!」


 李旺に見せつけるように、陳索の指は刃すれすれをなぞる。

 ほんのわずかに触れただけで、貴公子の手指はたやすく血に染まるはずであった。


「考えてもみるがいい。この場で剣を帯びているのは君だけだ。君の剣が私の身体に創傷きずをつけた……どう言い繕おうと、この事実だけで君の人生はおしまいだ。剣の名手が剣で身を滅ぼすとは、まったくよく出来た話だとは思わないかい?」

「陳大夫、おやめください」

「この私が君ごときの頼みを聞くとでも思っているのか。やめて欲しければ、さっさと我が屋敷から出ていくことだ」


 李旺の額を冷たい汗がひとすじ、ふたすじと流れていく。

 もはや進退は窮まった。

 ここで命じられるがままに屋敷を立ち去れば、夏凛を守る者は誰もいなくなる。

 陳索は何を企んでいるか知れないのだ。夏凛の身に危険が及んだときに、薛一人だけで彼女を守りきれるはずもない。

 近衛兵としての使命を放棄するか、一族もろともに重罪人の汚名を着せられるか……李旺はまさしく岐路に立たされたのだった。


「さあ、どうした? 私は寛大な男だ。素直に言うことを聞きさえすれば、いままでの非礼は水に流してやっても――――」


 そのさきの言葉は、陳索の唇を出ることなく飲み込まれた。

 陳索が整った顔を歪めて後じさったのと、李旺が背後で生じた物音に気づいたのは、ほとんど同時であった。

 下草を踏みながら、すこしずつこちらに近づいてくる。

 大人の男のそれとはあきらかに異なる、羽のように軽やかな足の運び。紛うかたなき貴人の歩幅。

 振り返るまでもなくその正体に気づいた李旺のまえで、陳索は喉を震わせて叫んでいた。


「ひ、姫さま――なぜここに!?」

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