第8話 波乱胎動(四)

「私は今日という日を先祖と国王陛下に感謝しなければなりません」


 陳索はいかにもうれしげに言うと、恍惚とした吐息を漏らした。

 屋敷に招き入れられた一行は、陳索に案内されるまま廊下を進んでいる。


「かくもお美しい姫さまが我が屋敷においでになるとは、まったく夢のようです。願わくば、これからも末永く――」


 いったん言葉を切って、陳索はちらりと夏凛に視線を滑らせる。

 心ここにあらずといった様子の夏凛は、ぼんやりと池の水面を見つめている。


「姫さま、いかがなされました?」

「べつに。なんでもないわ。……ところで、あなたのお屋敷、昔からこんなふうだったのかしら?」


 夏凛のなにげない問いに、陳索は待っていましたとばかりに顔を輝かせる。


「ふふふ、よくぞ聞いてくださいました。亡父の喪が明けたあと、古臭い屋敷を取り壊して私があたらしく作り直させたのです。

 この景観、じつに素晴らしいでしょう? 京師みやこの喧騒のなかにあって山紫水明の幽邃ゆうすいな風情を感じられるよう趣向を凝らし、建材の一つひとつまでこの私みずから厳選したものを用いております。凡人なら気にならないところまで拘ってしまうのは、幼いころからの私の習い性でしてね」

「ふうん……」

「いずれ姫さまをお迎えする暁にはさらに手を加え、この成陽、いや七国一の美邸をご用意させていただく所存です」

「意気込みは結構だけど、勝手に話を進めないでちょうだい」


 自分で口にした言葉に酔いしれたような陳索に、夏凛は苦虫を噛み潰したような表情で応じる。自己陶酔ナルシズムの権化のようなこの青年がなにかを口にするたび、夏凛は全身の毛がそそけだつような感覚に襲われるのだった。

 そうするあいだに、一行は廊下の終端にさしかかっていた。


「さあ、どうぞお入りください」


 陳索は弾むような声音で言って、竹で編まれた引き戸を開け放つ。

 一同が足を踏み入れたのは、庭園を一望する小洒落た房室だった。どうやらこの屋敷の応接間であるらしい。

 壁にはみごとな墨画すみえが掛けられている。

 濃淡をたくみに使い分けて描き出された風景は、華昌国と沙蘭国の国境にそびえる五剣峰ごげんほうの図だ。かつて成夏国の領土が最大に達した時代、柳機りゅうき将軍に率いられた軍勢は、この峨々たる連峰の麓まで達したという。

 それ以来、往時の広大な版図を懐かしむ人間にとって、五剣峰は特別な意味を持った土地でありつづけている。


「いかがです? あれも私が書いたものなのですよ」


 夏凛の目が墨画に向いていることに気づいて、陳索はいかにも得意げに言った。


「自慢ではありませんが、書画に関しては成夏国でこの私に並ぶものはおりません。舞踊でも琴でもおなじことです。宰相の朱鉄殿も、政治はさておき、芸術に関してはこの私の足元にも及ばないでしょう」

「陳大夫、それが自慢でなければ何だというのかしら?」

「私はただ事実を申し上げたまでのこと――夜の闇がいつまでも太陽を隠してはいられないように、燦然たる才能は、たとえ私が望まなかったとしても光り輝いてしまうものなのです」


 陳索は李旺と薛に着席を勧めながら、夏凛のまえで長広舌を振るい続けている。


「いま思い返してみれば、我が亡父はあまりにも無骨で不風流に過ぎました。世俗の凡人ならいざしらず、高貴な血筋に生まれついた人間にはとても褒められたことではありません。私は天より与えられた才能によって、ふたたびこの陳家に雅やかな気風を取り戻す使命があるのです」


 まさしく立て板に水。一向にとどまるところを知らない陳索の熱弁を、夏凛と李家の兄妹は鼻白む思いで聞いている。


***


 陳家は、代々宰相や大臣を輩出してきた名門中の名門である。

 先代の当主・陳胤ちんいんは朱鉄の前任の宰相であり、実直で清廉な好漢として天下に知られていた。

 飢饉の際には私財を投じて貧窮した国民を救済し、国王から褒美を下賜されれば、惜しげもなく部下に分け与える。その無欲なふるまいは君子の亀鑑きかんとされただけでなく、いっとき危殆に瀕していた成夏国を支えた能臣でもあった。


 その陳胤が病に倒れたのは、いまから二年前のこと。

 すでに政治の第一線を退き、自邸で後進の育成に当たっていた陳胤は、突如として人事不省に陥ったのである。

 やがて陳胤が意識を取り戻したことを知った国王・夏賛は、みずから侍医と薬師をともなって陳家に赴き、病床の老臣を見舞った。

 もはや自分の生命が長くないことを悟った陳胤は、最後の力を振り絞り、国王に今後の国政に資する人材をひととおり推挙していった。

 だが、どういうわけか、嫡子である陳索の名だけは最後まで挙がることはなかった。

 陳索は、子宝に恵まれなかった陳胤が晩年になってようやく授かった唯一の男子である。

 幼少時から芸術と学問にたぐいまれな天稟てんぴんを発揮していた彼は、長ずるにつれて当代無双の天才と世間でもてはやされるようになり、名声は父を凌ぐほどであった。その異才ぶりは、むろん国王の耳にも入っている。


――索を重用してはなりませぬ。


 もはや息も絶え絶えの陳胤は、涙を流しながら国王に言った。

 陳索はたった一人の血を分けた息子である。それをとは、いったいどういうことなのか。

 ひどく困惑した様子の国王に、陳胤はなおも言葉を連ねて懇願する。


――社稷しゃしょくの安泰を願うからこそ、このように申し上げているのです。なにとぞお聞き入れ下さいますよう……。


 それからほどなくして、陳胤は世を去った。

 国王は陳索をどのように遇するか思い悩んでいたが、名家の跡継ぎをいつまでも無位無官のまま遊ばせておく訳にもいかない。

 陳胤の遺言も、よくよく考えてみれば、清廉潔白な生き方を貫いた彼らしい謙遜であったのだろう。いかに世にまれな才人であっても、自分の息子を堂々と主君に推挙するのは憚られたにちがいないと、国王は一人合点したのだった。

 結局、陳索は匠作大夫しょうさくだいふという、王宮や各地の行宮あんぐうの建設を監督する役職に任じられることになった。

 陳索が手ずから設計した宮殿は評判がよく、国王も彼の芸術家としての才覚を存分に活かせる場を提供出来たことに満足していた。


 そんな陳索に、国王の末娘である夏凛の結婚相手として白羽の矢が立ったのは、むしろ当然というべきであった。

 年齢もさほど離れておらず、家柄も超一流。そのうえ国じゅうの女子おなごを虜にする美形である。誰が見ても文句のつけようのない完璧な貴公子なのだ。

 それとなく側近を通して打診してみたところ、かねてから夏凛に懸想していた陳索は、予期せず舞い込んだ縁談に飛び上がらんばかりに狂喜したという。


 むろん、国王にも多少の不安はないでもない。

 どうやら夏凛は陳索のことを快く思っていないらしい――。

 最愛の娘を嫌っている相手とめあわせるのは、父として望むところではなかった。それでは、政略結婚の道具として他国に嫁がせるのと何も変わりはしない。

 それでも、男女の仲とは不可思議なものだ。

 心から愛し合っていた男女が、婚礼の儀を済ませた途端にお互いに愛情を失うのは、けっして珍しいことではない。

 その一方で、結婚前はさほど相性がいいとも思えなかった者同士が、どういうわけか仲睦まじい夫婦めおとになることもある。

 たとえ破談になったとしても、夏凛には見合いがどのようなものであるかを体験するいい機会ではある。

 とりあえず会わせるだけでも会わせてみよう――そんな国王の内意を受けて、夏凛の預かり知らぬところですべては進行したのだった。


***


「ねえ、陳索。あなたってなんでも出来るみたいね」


 ようやく一息ついた陳索の目を見据えて、夏凛は問うた。

 試すようなその物言いは、どうやら陳索の自尊心をいたく刺激したらしい。


「もちろんです。私に不可能なことはありません。この陳索、この世に生を受けてから今日まで、他人の後塵を拝したことは一度としてございません」

「それなら、剣術も上手なのかしら?」

「……剣ですって?」


 陳索は一瞬目を丸くしたあと、いかにも馬鹿馬鹿しいというように哄笑する。


「ご冗談を。剣などという無粋な道具もの、私は生まれてから一度も触れたことはありません」

「あらそう? 私は好きだけど」

「お言葉ながら、姫さまのたおやかで繊細なお手にはおよそ相応しからぬものかと」


 余計なお世話だと言わんばかりに陳索をひと睨みしたあと、夏凛は李旺の腕をぐいと引き寄せる。


「ここにいる李旺は、近衛兵のなかでもとくに剣の扱いが巧いのよ。剣を持たせれば、この成夏国でも一番強いくらい。あなたにも他人に敵わないことがあったわね、陳大夫?」

「左様ですか――」

「分かったなら、大言壮語もほどほどにしておきなさい。あなたの自慢話、いいかげん聞くに耐えないわ」


 ほんの一瞬、陳索の面上を剣呑な感情がよぎった。

 もっとも、に気づいたのは、一同のなかで李旺だけであっただろう。

 憎悪とも怒りとも嫉妬ともつかない、刺すような悪意。その鋭利な矛先は、李旺ただひとりに向けられていた。

 そんな感情の起伏を悟られまいとしてか、陳索はにこやかな笑みを浮かべている。


「これはこれは……姫さまには一本取られましたな。私もつい口が滑ってしまったようです。以後はくれぐれも自重いたします」


 そのまま席を立った陳索は、応接間の奥へと続く引き戸に手をかける。


「さ、そろそろ料理も出来上がった頃合いでしょう。姫さま、そして従者のお二人も、今日は我が饗応を心ゆくまでご堪能あれ」


 悪意など欠片も感じさせないおだやかな声。

 あるいは、さきほど感じた剣呑な気も、たんなる思い過ごしであったのかも知れない。

 それでも、李旺は、腹の底がしんと冷えていくような感覚を抑えきれなかった。

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