第7話 波乱胎動(三)
なんとも奇妙な場所だった。
いま、夏凛と薛と李旺は、肩を寄せ合うようにして小舟に揺られている。
曲がりくねった水面は、両岸にそびえる生け垣の合間を縫うように蛇行し、終点はまだ見えない。
目を上げれば、
「姫さま、本当に大丈夫なのでしょうか。このままどこかに連れて行かれてしまうのでは……」
薛は夏凛のほうをちらと見やると、いまにも消え入りそうな声で問うた
「薛は怖がりね。李旺がついているんだから、何も心配いらないわ」
「は、はい……それは分かっているのですが……」
「そんなに不安なら、私が手を握っていてあげる!」
言って、夏凛は薛の手にそっと自分の手を重ね合わせる。
実際のところ、それは気遣いというより、自分自身を落ち着かせるための方便だった。
人前では精一杯気丈にふるまっている夏凛だが、不安に押しつぶされそうなのは薛とおなじだ。
薛の手を握りながら、夏凛は李旺にそれとなく視線を向ける。
十八歳の近衛隊副長は、常と変わらず沈毅な面持ちで姫君に
その精悍な横顔におもわず見とれてしまいそうになっている自分自身に気づいて、夏凛はあわてて李旺から視線を外す。
時間にしてほんの数秒。一方的に視線を送ったというだけのこと。
ただそれだけのことで、さきほどまで夏凛の胸を苛んでいた不安は、嘘みたいに消え失せていた。
***
五分ほど前――。
派手派手しい門構えを抜けた先に広がっていたのは、河原に設けられた船着き場だった。
川幅はそれほど広くない。それでも、一行の目の前にあるのは、まぎれもない川だった。
とても王都の市中とは思えない光景に、夏凛はおもわず言葉を失った。
まっさきに少女の脳裏をよぎったのは、幼いころに乳母から聞いた、
いま自分の目の前にあるものは実はすべて幻で、昔話の旅人のように、最後は寂れた野原に放り出されてしまうのではないか――。
出来ることならいますぐに王宮に取って返したいが、王族として李旺と薛のまえで弱気な姿を見せる訳にはいかない。
門前で一行を出迎えたこの屋敷の
――このさきにはどなたがお住まいなのか?
李旺に問われても、家令の男はだまって首を横に振るだけだった。
おそらく主人に口止めをされているのだろう。それも無理からぬことだ。見合いの相手によっては、夏凛が手を付けられないほどの癇癪を起こすおそれもある。
やれ歳が離れすぎている、やれ見た目が気に食わない……縁談話そのものを快く思っていないのだから、事前に情報を与えるほど不満が募るであろうことは分かりきっている。
実際に対面するまで相手の素性を夏凛に知らせずにおくのは、父である国王もむろん了承しているはずだった。
はたして小舟は川を下っているのか、それとも上っているのか。
船上の三人には、なんとも判断しがたい。
水面はある方向にむかって流れているようでもあり、ただ櫂が動くのにあわせて揺らいでいるようでもある。
よくよく川岸を見れば、
自然の河川ではなく、人工的に作られた水路なのだ。
これだけの規模の水路を自邸に築き上げるには、並々ならぬ
それを可能とするだけの財力と権力をあわせ持つ人間は、成夏国でもほんのひと握りの特権階級だけだ。
王族、あるいはそれに匹敵する名家――王女と婚姻を結ぶ相手となれば、相応の家柄であることはまちがいない。
「まもなく到着いたします。みなさま、舟を降りる準備を」
家令が言い終わるが早いか、ふいに水路の左右を覆っていた生け垣が途切れた。
緑色の紗幕を取り払ったみたいに、一気に視界が開けていく。
「ここは――」
誰ともなく口をついて出たのは、心底からの感嘆の言葉だった。
水路の終点は池に繋がっていた。池とはいうものの、その規模は一般的な庭池とは比べ物にならないほどにおおきい。
岸にはあおあおと木々が生い茂り、ちょっとした湖沼のような趣がある。
池の真ん中には、離れ小島がぽつねんと浮かんでいる。
これもやはり人工的に造成されたのだろう。岸辺からのほどよい距離といい、水面に映った島影の妙といい、なにもかもが計算の上に成り立っている感がある。
駄目押しとばかりに、小島の上には、文人画に描かれる
小舟はそのまま島に近づいていく。
進路上に船着き場らしきものはない。島の周囲であれば、どこであれ十分な水深は確保されているらしい。
小舟はゆっくりと速度を落とし、やがて音もなく接岸した。
***
島に上陸した一行は、家令の先導にしたがって、まっすぐに邸宅へと足を向けた。
遠望した印象に相違せず、島内は一木一草に至るまで完璧にしつらえられている。一人の人間が確固たる意志のもとに作り上げたのでなければ、こうはいかない。この屋敷の主は、まさしく自分だけの王国を作り上げたのだ。
邸宅の門前に差し掛かったとき、ふいに背後で草を踏む音がした。
反射的に李旺が振り向き、やや遅れて夏凛と薛も音のしたほうに顔を向ける。
「お待ち申し上げておりました、夏凛さま――このたびは
三人の視線の先に佇立するのは、豊かな黒髪を腰まで伸ばした青年だった。
年の頃は二十歳を過ぎたかというところ。男ながら口紅をさしているらしく、唇はなまめかしい朱に色づいている。
細い体躯を包むのは、はるか北方に生息する希少な
ともすれば悪趣味な装いだが、それでもさまになっているのは、青年が人並み外れた美男子だからこそだ。
妖しく長い
大通りを歩けば、通りがかった者の十人に十人までもが振り返るだろう。彼自身、そうなることに毫ほどの疑いも抱いてはいない。
全身から匂い立つような色気は、おのれの美しさに対して絶対の自信を抱く者だけがまとうことが出来るものなのだ。
「あなたは――」
「おお、私のことを覚えておいでとは光栄です。最後にお会いしてから、もう半年になりますか。姫さまはあれからいっそうお美しく……」
「忘れたくても忘れられないわ。あなたのように
夏凛は吐き捨てるように言って、はたと気づいたように青年を見つめる。
「まさか、今日のお見合いの相手はあなたじゃないでしょうね? ――
「さすがは姫さま、ご明察恐れ入ります。さあ、ここで立ち話もなんですし、どうぞ我が屋敷にておくつろぎくださいませ」
媚びるような陳索の言葉を無視して、夏凛はその場でさっと踵を返していた。
「姫さま、どこへ?」
「今日はわざわざのご招待ありがとう、陳
陳索はいつのまにか取り出した小ぶりな
「いやはや、姫さまはご冗談がお好きとみえる。ご存知のとおり、我が陳家は成夏国でも指折りの名門。そして、この私はいまや陳家の当主たる身です。貴女の婿にふさわしい男は私をおいておりますまい」
「冗談を言ったつもりはないわ。名門だろうとなんだろうと、あなたみたいな男とお見合いなんて、絶対にイヤ」
「国王陛下のご意向だとしても……ですか?」
夏凛は何かを言おうとして、ぱくぱくと唇を開閉することしか出来なかった。
陳索は不敵な笑みを浮かべると、悠揚たる足取りで夏凛に近づいていく。
「おやおや……ご存知なかったとは、私としても慮外のこと。しかし、せっかくここまで足を運ばれたのです。どうか国王陛下を失望させ
夏凛はすっかり意気消沈し、反論する気力さえ失せた様子であった。
陳索は満足げに微笑んだあと、傍らに立ち尽くしている李旺と薛を横目で見る。
「さあさ、そちらのお二方もぜひご一緒に。饗応の支度は整っておりますゆえ――」
李家の兄妹は一瞬顔を見合わせたあと、うやうやしく頭を下げた。
近衛兵と近習にすぎない二人には、貴人の招待を拒否することは出来ない。
いつもとは別人のように弱りきってしまった夏凛を守れるのは、この場で自分たちだけということもある。
なにより、李旺はたしかにそれを見てしまった。
夏凛と自分たちを見つめる陳索の眼に宿った、ひどく残酷な光を。
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