第6話 波乱胎動(二)

 甲高く澄んだ金属音が朝の空に鳴り渡った。

 

 なにもかもが優雅な王宮の片隅にあって、黒土がむき出しになったその一角は、見る者にひどく無骨で剣呑な印象を与える。

 それも当然だ。王宮の庭園と低い壁で隔てられたそこは、近衛兵のためにしつらえられた練兵場であった。

 近衛兵は、またの名を禁軍きんぐんともいう。

 その名のとおり国王の住まいである禁中を警護する彼らは、国軍のなかでもとくに優れた人材によって編成されている。

 国じゅうから選びぬかれた壮健な若者たちは、日々厳しい訓練でおのれの心身を鍛え上げ、一朝事あれば生命をなげうって王宮を死守する。近衛兵はまさしく国王の盾であり、成夏国せいかこくの最強の矛でもあるのだ。

 いま、大勢の兵士たちが見守るなかで、二人の青年がはげしく剣を交えている。


 一人は、近衛隊の副長である李旺りおう

 相対するもう一人は、やはり近衛兵の張玄ちょうげんであった。


 二人の剣士は時に息が触れ合うほど近づき、時におおきく間合いを取りながら、すでに二十分あまりも戦い続けている。

 どちらも呼吸は乱れていない。

 甲乙つけがたく端正な顔を流れていく汗の玉がなければ、たったいま戦いはじめたと言われても誰も疑いはしないだろう。

 動作に緩急をつけてこそいるものの、双方とも全力で戦っていることに相違はない。他の兵士なら十分も経たないうちに息が上がってしまうことを考えれば、二人の持久力は驚異的というほかなかった。

 剣を肩の高さまで持ち上げた李旺は、張玄をまっすぐ見据えると、


「また腕を上げたようだな、張玄――」


 独り言みたいにぽつりとつぶやいた。


「李副長こそ、相変わらず手強い。陰でさぞ修練を積まれたのでしょう」

「さて、どうかな」

「こうして粘られてしまうのがなによりの証拠です」


 李旺より二歳年上の張玄は、成夏国きっての剣の使い手として知られている。

 武門の家に生まれ、幼いころから剣一筋に生きてきた剛毅な青年は、その腕を買われて近衛兵に抜擢された。

 隊のなかでただひとり彼と対等に渡り合う技量をもつ李旺とは、部下への模範稽古も兼ねて、こうしてときおり試合を行っている。

 もっとも、二人がいるのは、天賦の才幹とたゆまぬ鍛錬とが合一ごういつすることによってのみ辿り着くことが出来る深邃な武の境地である。

 優秀ではあってもしょせん凡人の域を出ない大多数の兵士たちには、いくら真似したくても出来るものではない。目の前で矢継ぎ早に演じられる絶技の数々に、ただ憑かれたように見惚れるばかりだった。


「部下たちも焦れている頃合いでしょう。そろそろ終わりにしますか、副長どの」

「いいだろう――どこからでも来い」


 あくまでそっけない李旺の言葉に、張玄は正眼の構えで応じる。

 近衛兵の訓練や試合で用いられる両刃の長剣には、わざと刃がつけられていない。

 言ってしまえば、剣の形を模した鉄棒だ。

 とはいえ、その重さと刃渡りは真剣とそう変わらない。鍛え上げられた膂力が加われば、鈍器として人体を粉砕する程度は造作もないのだ。しばしば発生する訓練中の痛ましい事故は、刃がないからと油断した結果の悲劇であった。

 同等の使い手である李旺と張玄が本気で打ち合えば、その剣戟は実戦さながらの凄絶な鬼気を帯びる。

 固唾をのんで試合の行く末を見守っている兵士たちは、誰もが一様に背筋が凍りついていくような錯覚を覚えていた。


 重苦しい緊張が練兵場を包んでいく。

 先に動いたのは張玄だ。

 右足を軸に一歩を踏み出したのと同時に、するどい銀光が李旺めがけて迸る。

 倏忽しゅっこつの間に剣を寝かせ、上半身を独楽のように回転させながら放ったのは、横薙ぎの一閃――正眼の構えからは、およそ想像もつかない奇策だった。

 張玄が得手とするのは、真っ向から挑みかかる剛直な剣だけではない。

 勝利のためであれば卑劣な欺瞞も辞さないしたたかさこそが、この青年をして成夏国一の剣士たらしめている所以なのだ。

 予想外の方向から風を巻いて襲いかかる剣を前に、李旺はしかし慌てる素振りもない。

 肩の高さに構えていた剣は、いつのまにか目線とおなじ位置に持ち上がっている。


――もらった!!


 張玄は勝利を確信していた。

 おそらく李旺はこのまま構えを大上段に移行するつもりだったのだろうが、もう遅い。

 斬撃の速度と威力は、筋骨を躍動させる空間の面積に比例する。唐竹割りを仕掛けるには、あまりにも位置が低すぎる。

 この体勢からでは、どうあがいたところで中途半端な斬撃を繰り出すことしかできない。

 こうなっては、よくて相討ちに持ち込むがせいぜいといったところ――。

 実戦ではない以上、どちらも寸止めに留めることは言うまでもない。

 だが、たとえ身体に当てずとも、試合がどちらの勝利に終わったかは一目瞭然である。


――潔く負けを認めろ、李旺!!


 張玄の右肩ににぶい痛みが生じたのはそのときだった。 


「なっ……!?」


 李旺は剣をいきおいよく振り下ろし、叩きつけたのだ。

 それも、剣尖でも剣脊でもなく、両手で握り込んだ剣柄けんぺいの末端――房飾りのついた剣首を。

 利き腕の土台とも言うべき肩を揺さぶられたことで、張玄の剣はほとんど制御を失った。

 李旺はそのままおおきく上体を反らせ、迫りくる剣をやりすごす。もし一瞬でも遅れていれば、勢いに乗った剣は肋骨を砕いていただろう。

 むなしく空を切った張玄の剣は、李旺の前髪をかすめてと静止した。


「……勝負あったな」


 ささやくような李旺の言葉を、張玄はたしかに聞いた。

 李旺は剣を鞘に納めながら、何が起こったか皆目理解できないといった面持ちの兵士たちに向き直る。


「みんな、聞いてくれ。試合は私の負けだ。副長として、張玄のすばらしい剣技に心からの賞賛を送りたい」


 一瞬の沈黙のあと、周囲で割れんばかりの歓声が沸き起こった。

 兵士たちは二人の剣士の健闘を讃え、彼らと同じ近衛隊に所属することを心から誇りに感じているのだ。

 そんななか、一人で練兵場を出ていこうとする李旺に、張玄は悄然たる声で呼びかける。


「待ってくれ、李副長。試合に勝ったのは……」

「私は剣の腕前では君に遠く及ばなかった。それはまぎれもない事実だ。これは実戦ではなく、純粋な腕競べなのだから、私の行為は本来あってはならないことだ」

「――」

「次に手合わせするときまでには今以上に精進すると約束しよう」


 と、庭園を横切るようにして練兵場に一人の兵士が飛び込んできた。

 ここまで全力疾走してきたのだろう。兵士は李旺を見つけると、安堵したように息を吐いた。


「李副長、夏凛さまがお呼びです」

「姫さまが? いったい何の御用だ?」

「詳しくは分かりませんが、とにかく”大事な用件だから大至急呼んでこい”と……」


 王族の要求を拒否するという選択肢はない。

 たとえそれがどんな用件だろうと、ひとたびお呼びがかかったなら、李旺は夏凛のところに赴かざるをえないのだ。


「張玄、私が不在のあいだ、兵たちのことは君に任せる」

「私に……ですか?」

「隊長は国王陛下のおられる永鵬殿えいほうでんを動けない。私の代わりに兵の調練を指導出来るのは君だけだ」


 それだけ言って、李旺は急ぎ足で練兵場を出ていく。

 次第に遠ざかっていく副長の背中を見送りながら、張玄は唇を強く噛んでいた。


***


 成夏国の王都・成陽せいようは、名実ともに中原でも最大の都市である。

 おなじ中原の大国である華昌国の王都・華都かとや、鳳苑国の王都・鳳陵ほうりょうと較べても、その殷賑ぶりはひときわ水際立っている。

 七国の一般的な城塞都市と同様、高い城壁に四方を囲繞いにょうされた都市に居住する人間は、ざっと二十万人あまりに及ぶ。他国からの行商人や旅人を含めれば、その数はさらに増大するはずだった。

 城門近くに設けられた市場には各国の特産品がところせましと並び、目抜き通りは溢れかえった人馬や荷車によって立錐の余地もない。

 店先に並ぶ商品のなかには、敵国である華昌国から輸入されたものもある。国と国とがどれほど対立していても、商人はおかまいなしに諸国を往来し、物品を財貨へと変えていく。

 目抜き通りの沿道に櫛比しっぴする店も、ありふれた飲食店や道具屋ばかりではない。書肆しょしや演劇場、八卦見はっけみ、あやしげな骨董屋といった多種多様な商売が成り立つのも、巨大な人口を抱える大都市ならではであった。


 この華やかな都が、ほんの十数年前まで荒廃の極みにあったとは、にわかには信じがたいことではある。

 度重なる外征が引き起こした財政破綻にくわえて、重税を厭う商工人の相次ぐ逃亡、疫病の流行による都市人口の激減……すべて現在の国王である夏賛かさんの治世の劈頭において実際に起こったことだ。

 すっかり人気ひとけの失せた王都では盗賊が猖獗を極め、人々は一夜として安らかに眠ることは出来なかったというのは、けっして大げさな話ではない。

 都市の顔と言うべき城門でさえ、当時はほとんど廃墟のような有様だったのだ。

 そんな王都がめざましい復興を遂げ、往時をしのぐ活況を呈するに至ったのは、若き日の朱鉄しゅてつが成し遂げた偉業のひとつだった。

 国王直々に京兆尹けいちょういん(首都長官)に任命された朱鉄は、税の軽減を掲げて他国の商人をさかんに誘致し、あわせて治安を悪化させる貧民街スラムを一掃した。朱鉄の命令で斬首された盗賊は、わずか半年のあいだに三千余人を数えた。

 都市の形すら大きく変えてしまうほどの大胆な改革の末に、成陽はあらたに生まれ変わったのだった。

 ともすれば強権的で酷薄な彼の手法に、古くからの住民からは多少恨みの声も上がらなかった訳ではない。

 だが、それも一時いっときのことだ。都市がよみがえり、治安が安定するにつれて、その立役者への批判は自然にちいさくなっていった。


 王都の復興とともに朱鉄の声名は高まり、国王の信頼はいっそう厚くなった。

 二十代の半ばという異例の若さで宰相に就任したのも、卓抜した辣腕ぶりを国政の場において発揮することを期待されたがゆえだ。

 はたして、朱鉄はその期待を裏切らなかった。

 稀代の俊才にとって、廃滅しかかった都市を再興するのも、傾いた一国を隆盛に導くのも大差はなかったのかもしれない。

 彼が宰相となってから今日こんにちまで、成夏国は建国以来の繁栄を享受している。


***


 王宮を出た四頭立ての馬車は、警護の騎兵を前後に従えて、大通りをゆっくりと進んでいく。

 日夜混雑が絶えない目抜き通りとは異なり、この通りには昼間でも馬車が通行するだけの余裕があるのだ。

 当然、それには相応の理由がある。

 この通りは、成陽のなかでも特に栄えている地区へと続いている。高位の貴族の家屋敷が立ち並ぶその地区は、街中に現れた第二の王宮とでも言うべき場所だった。

 一般の住民が近づくことは許されておらず、もし用もなくうろついているところを警吏に見咎められれば、最悪そのまま入牢する羽目にもなりかねない。かつて朱鉄がおこなった苛烈な手法は、いまなお王都の官吏たちに受け継がれている。

 君子危うきに近寄らず――ほかならぬ君子の住む場所がそんな言葉とともに人々に忌避されるのは、これ以上ないほどの皮肉ではある。


「李旺が来てくれてよかった」


 馬車のなかで向かい合って端座した青年に、夏凛はにこにこと笑いかける。


「だって私たちだけでは心配ですもの。ねえ、薛?」

「ど、どうでしょう……?」

「これから行く場所は猛獣の檻とおなじよ。いいえ、もっと悪いかもしれないわ。人間の形をしているだけ油断ならないものね」

 

 夏凛は柳眉を逆立て、いかにも苦々しげに言い捨てる。

 ふたたび李旺に視線を向けたときには、ふたたび屈託のない笑顔に戻っていた。

 幼いころから仕えてきた薛も、人間はここまで器用に表情を使い分けられるものかと驚愕を隠せない。


「でも、李旺が一緒なら安心ね。相手もおかしな真似は出来ないはずよ」

「姫さまに頼りにしていただけるのは光栄です。しかし――」


 李旺は居住まいを正し、至って真剣な面持ちで夏凛に向かい合う。


「私たち近衛兵の仕事は、王族がたを危険からお守りすることです。道中はともかく、晴れやかな場にまで随行するのは、相手の方に失礼なのでは……」

「私がいいと言っているんだから、気にしなくていいのよ。誰にも文句は言わせないわ」

「……承知しました」


 あくまで頑なな姫君は、これ以上なにを言ったところで聞く耳を持たないだろう。

 今朝、夏凛に呼ばれたときから運命は決まっていたのだ。

 こうなった以上、李旺は近衛兵としておのれの職務を果たすまでだった。


 と、ふいに馬車が速度を落とした。

 李旺は車窓に下りていたすだれをわずかに巻き上げる。警護対象である夏凛の姿はけっして衆目に晒さぬよう、細心の注意を払っているのは言うまでもない。

 いびつに切り取られた視界を埋め尽くしたのは、いずれ劣らぬ豪壮な屋敷だ。

 国家の重職を占める高位高官の住居だけあって、どの屋敷の佇まいも小規模な宮殿を思わせた。家臣としてこれ以上ないほどの栄達を遂げた者にとっては、文字通り小王国の王宮のつもりなのだろう。

 ややあって、馬車と騎兵が完全に停止したのは、沿道の豪邸のなかでもずば抜けて大きく、他を圧倒するほどに派手派手しい門構えの前であった。

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