第5話 波乱胎動(一)
「
姫君の桜色の唇から吐き出されたのは、まごうかたなき呪詛の言葉だった。
薛は夏凛の髪を
「あのっ!! 姫さま、もしかして私、なにか粗相を……?」
「薛は関係ないわ。ただの独り言よ」
「で、でも……」
返答の代わりに、夏凛はいかにもけだるげに息を吐く。
魂も魄も少女の身体からすっかり抜けて出てしまいそうな、それは長い長い嘆息だった。
「……だって、最悪としか言いようがないじゃない」
薛が差し出した銅鏡の磨き上げられた表面には、死んだ魚のようにどろんとした目をした自分が映っている。
そのことがさらに夏凛の気分を沈ませていく。
目覚めてからというもの、時間が経つにつれて気鬱は増していく一方だった。
ふだんなら五杯はおかわりしている
四年前に風邪をこじらせて生死の境をさまよった時以来の珍事に、王宮付きの侍医と宮廷
いくら診察しても身体には何の不調も見当たらず、不思議そうに顔を見合わせた彼らを尻目に、夏凛は薛を連れてさっさと自室に引き返していったのだった。
「姫さま、ご機嫌を直してください。せっかくの可愛らしいお顔が勿体のうございます」
「いいじゃない。こうなったら一番
夏凛はわざと眉をひそめ、頬を指で引っ張ってみせる。
「本当、最悪の気分よ。相手が誰かも知らされないままお見合いだなんて――」
***
事の発端は昨夜のこと――。
晩餐のあと、自室でくつろいでいた夏凛のもとに、女官長と見慣れない男たちが訪ねてきた。全員が朝服をまとっているところを見るに、どうやら男たちは大臣かそれに準ずる重臣であるらしい。
――本日は姫さまに大事なお話がございます。
またいつものお説教かとうんざりしながら、夏凛は女官長の言葉に耳を傾けるふりをする。
それにしても、こんなに大勢連れ立ってくることはないのに……大事なお話というのも、もはやお定まりの《話の枕》である。こういったとき、大事でなかった話が一度でもあるだろうか。
――僭越ながら、
――はいはい。わかった、わかった。
ほとんど反射的な返答。
夏凛がその言葉の意味するところを理解したのは、すべての語句がおのれの唇を滑り出たあとだった。
色よい返事を得られたためか、欣然と部屋を退いた女官長と重臣たちの背中にむかって、夏凛は勢いよく叫んでいた。
――お見合い!? いま、お見合いって言ったの!?
――ええ、たしかにそう申し上げました。姫さまのご了承が得られたので、そのように進めさせて頂きます。
――私はそんなこと言ってないわ!!
地団駄を踏む夏凛にむかって、女官長は珍しく微笑を浮かべる。
あるいは、それは考え足らずな姫君に対する憫笑であったかもしれない。
――
そう言って慇懃に頭を垂れた女官長に、夏凛はもはやなにも言い返すことは出来なかった。
***
「これは罠よ。陰謀よ。王の娘にこんな非礼を働くなんて許せない。こうなったらお父様に言いつけて、あいつら一人残らず王宮から追放してやるわ!!」
鼻息荒くまくしたてる夏凛をよそに、薛は慣れた手付きで服を着替えさせていく。
本来王族の子女の着替えや化粧は専属の女官が行うことなっているが、こと夏凛にかぎっては、いつのころからか同い年の近習の少女がその役を担っている。
というよりは、身支度中の姫に癇癪を起こさせない者を選りすぐっていくうちに、薛だけが残ったというほうが正確かもしれない。
時間をかけて支度を整えたそばからあれが気に食わない、これに替えろと、わがまま放題の姫には百戦錬磨の宮廷女官たちもお手上げだったのだ。
「
「……いちばん変な色と形のにして。ねじまがった山羊の角とか、とぐろを巻いた大蛇とか……」
「姫さまには
「あんな素敵なもの、つけていく必要ないわよ」
主人の意見など最初から聞くつもりなどなかったように、薛はてきぱきと夏凛の黒髪を結い上げ、整えていく。
その手際は夏凛の反論を差し挟む暇を与えないほど迅速で、そして正確だった。
まだ成人前であるため化粧は薄い。
もともと唇は桜色に色づき、肌は淡雪のように白いのだ。なまじいな化粧は、少女の天与の美しさを隠す役にしか立たない。
夏凛の生母である
天女にも喩えられたその類まれな美貌は、たった二度しか会ったことのない薛の記憶にも鮮烈に刻み込まれている。棺のなかに横たわった王妃は、生けるときよりなお美しくあった。
そんな彼女の面影を、夏凛は姉妹の誰よりも色濃く受け継いでいる。
「もうちょっとゆっくりやってくれてもよかったのに――」
いくら恨み言を呟いてみたところで、仕上がってしまったものは戻らない。
相変わらず身体じゅうから陰陰とした気を発散させていることを除けば、鏡に写った姿は、どこに出しても恥ずかしくない姫君のそれであった。
「どこの誰だか分からない男を喜ばせたって仕方ないでしょう」
「相手の殿方のためではありません。王族に相応しくない格好で外に出ては、姫さまのご評判に関わります。いくら気が進まなくても、これだけは譲れません」
「意地悪ね、薛――」
拗ねたようにぷいと顔を背けてはいるが、夏凛もまんざらでもないようだった。
もとより見合いに応じるつもりは毛頭ない。
どうせ蹴るのであれば、せいぜい外向きの装いを楽しんだほうが得というものだった。ただでさえ王宮の外に出る機会は貴重なのだ。
「まったく、誰がお見合いの申し出なんて受けたのかしら。頼んでもいないのに、本当に余計なお世話だわ」
「それは……」
国王陛下に決まっている――喉まで出かかったその言葉を、薛はかろうじて飲み込んだ。
***
王侯貴族の家柄に生まれた女子が子供でいられる期間は短い。
おおよそ十二歳をひとつの目安として、次々に縁談が舞い込みはじめるためだ。
早ければ十三、四歳で輿入れし、七国で成人の年齢とされる十五歳を迎えるころには、すでに初産を済ませているという例もけっして珍しくはない。
考えてもみれば、夏凛にいままで一つもその種の話がなかったことのほうがよほど不可思議であった。
この時代、王の血を引く女子は政略結婚の道具であり、国家間の交渉において強力な
時には和睦の条件として、時には同盟や従属関係を結ぶための人質として、当事者の意志などおかまいなしに王族同士の婚姻は執り行われてきた。
夏凛を生んだ蘭夫人も、その名が示すようにもとは
そして彼女の死後、成夏国王・賛が後妻として迎え入れたのは
その姉たちは、数年前に
鳳苑国は共通の敵である
自然、成夏王のもとに残った最後の娘である夏凛も、慣例にしたがって他国に嫁いでいくと思われていた。
だが、婚姻とは一方の都合だけで成立するものではない。
他国を見渡せば、沙蘭国と延黎国の王太子はすでに妻帯しており、
外交上の利益を最優先するなら、夏凛はこのまま
考え抜いたすえに、成夏国王・賛は、愛してやまない末娘を家臣のもとに嫁がせることを選んだのだった。
いったん他国に嫁いだ王族の女子は、離縁されないかぎり生涯を通して
すでに二人の娘を
度を越した親バカといえばそれまでである。
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